あのとき育てていただいた黒猫です。
プロローグ 吾輩は猫である。 ①
テトは微睡の中で首を捻った。
そろそろ夕食どきだというのに、
瑠璃香が夕食を忘れるなんて珍しい。もしかしたら体調を崩しているのだろうか。
彼女は時々、日々の努力が祟って身体を壊すことがある。
これは瑠璃香の様子を見にいった方がいいかもしれない。
思いたったテトは、自分の寝床から身体を起こそうとして──違和感が襲った。
身体に力が入らなかったのだ。
何かがおかしい。瞼を持ち上げようとするが、しかし叶わない。重い。
どうしてたったこれだけの動作が苦しいのか。
永遠にも感じる時間をかけてようやっとのことで薄目を開けることに成功する。
すると、
「テト……っ!!」
迫る人影があった。たとえ匂いがしなくても、音がほとんど聞こえなくても、視界がぼやけていても──それが誰なのか知っていた。
テトの飼い主であり、姉であり、唯一無二の宝物の少女。
瑠璃香だ。
なんだ、そこにいたのか。元気そうでよかった。
「嘘、お医者様はもう目を覚まさないって言ったのに……っ」
「瑠璃香だよ。瑠璃香との絆が呼んだんだよ、きっと」
遠くから彼女の両親のくぐもった声が聞こえる。いつも海外への仕事でほとんど家を空けている二人なのに、今日はどうしてか揃って並んでいる。珍しいこともあるものだ。
「テトくん、テトくん……っ。大丈夫だからね、わたしがそばにいるからね……っ」
「…………」
よろよろと顔をあげる。
……どうして泣いているの?
ただ、そう尋ねようとしただけなのに喉から出たのは声にならない声だった。
「大丈夫、大丈夫だから」
瑠璃香が優しく頭を撫でてくれる。
それからテトの頬、首筋、横腹といつもの順で温かい手のひらが滑る。気持ちがいいが、その極上の感触はどこか薄膜の向こう側の出来事に感じた。
そこにきて、ようやくテトは思い出した。
──ああそうだ、僕はもう死ぬんだ。
ここ数日、急に身体が言うことを聞かなくなった。だが瑠璃香のそばにいたくて、無理をして普段の生活を続けていた。しかし、いよいよ息をするのも辛くなったので、最期の姿は見せたくないと思い隠れようとしたら──既に身体は動かず、そのままうたた寝してしまったのだ。
「ずっと一緒だからね、テトくん」
瑠璃香の声は湿っていた。やがて熱い雫がテトの髭の先を掠めた。何度も、何度も。そんなに泣いたら目元が赤く腫れちゃうよ──そう声をかけることも、もうできない。
「…………」
そう思った瞬間、途端にテトの身の内を熱く煮えたぎる想いが焦がした。
それは、後悔だった。
こんなにも優しくしてくれたのに。こんなにも甘えさせてくれたのに。こんなにも一緒に笑ってくれたのに。こんなにも一緒の時を過ごしてくれたのに。
──僕は何も返せてないじゃないか!!
死にたくない。死にたくない、死にたくない────
恐怖が冷たさを纏って尻尾の先から迫ってくる。それは何も成し遂げられずに逝く恐怖。もうこの少女に会えず、笑顔を見ることができず、恩を返すことができない。
それでも、死は無情にもやってくる。
「 」
泣いた。鳴いて、啼いて、哭いた。
それは無力な自分を呪う慟哭だった。
ふ、と力が抜ける。何も見えなくなった。何も香らなくなった。何も感じなくなった。瑠璃香が遠くに消えていく。怖い。怖い。怖い…………。
「……テトくん?」
テトの目から光が消える。
ハッとした瑠璃香はテトの身体に泣き顔で迫った。
「テトくん、だめっ、だめ!! いかないで、いかないでテトくん……っ!!」
瑠璃香が身体をさする。ゆする。しかし、テトのその真っ黒な耳の先一つ、髭の一本すら、ピクリとも動かない。テトの身体を撫でる側から、温もりが急速に失われていくのがわかった。
「テ、ト……っ!」
瑠璃香はその亡骸を抱きしめながら、喉が嗄れてもなお泣き続けた。
そこは暗闇だった。
ただひたすらに何もない、虚無の空間。
どれだけの時間をこうして過ごしただろうか。
悔しくて悔しくて悔しくて。
命が燃えるその熱さえも涼しく感じるほどに、この悔しさの熱は強くて。
もはや自分が誰なのかも、わからなくなってしまったその時。
〝声〟が聞こえた。
「ふむ、ようやく意識が
『だ、れ……?』
〝声〟の主は女性だった。艶があって大人びた声だ。しかし、その奥に子供っぽい無邪気さも垣間見える。
辺りを見回す。しかし、その姿はどこにも見当たらなかった。
彼女はくふふ、と口の中で笑う。
「わしはの、うぬのお嫁さんじゃよ」
『お嫁さ……え? ほんと? そうなの?』
「お? なんじゃ、意識がはっきりしてきたようじゃの」
『……今の嘘だよね? よく考えれば僕、結婚なんてしたことないし』
「くふ、うぬは素直で可愛いのお」
『え……やっぱり嘘なんだ……』
見知らない人にいきなり嘘つかれた……。
「とりあえず、起きよ」
『──へ?』
次の瞬間だった。
途端に寒さが身を包んだ。久方ぶりに感じる肌の感覚だ。痛いほどだ。
次に匂いが来た。水っぽいような、それでいて澄んだ空気の匂い。
味だ。泥の味がする。惰眠を貪った後のような、口の不味さが広がっていく。
そして最後に光が来た。
これまでの暗闇とは違う、別種の闇。違う──これは夜だ。
そして気がつく。テトは自分が横たわっているということに。しかも、ただ横たわっているだけではない。誰かに抱きかかえられていた。
目を開ける。
そこには美しい女性の顔が視界いっぱいに広がっていた。
人だ。人の形をしている。妖艶な空気を纏う、色めかしい女性。しかし、驚くことに彼女はあくまで人のカタチをしているというだけで、人そのものではなかった。
なぜそんなことがテトに分かるのか。理由は単純だった。
お姉さんの頭には、それは大きくてフサフサな狐の耳があったからだ。
『……、え?』
にゃあ、と。自分の口からか細い鳴き声が出る。
細いが確かに芯がある、そんな声色。
「やっと現界できたようじゃな。全く、てこずらせおって」
そのお姉さんはテトの身体を抱きながら、反対の手でコツンと額をこづいてきた。
『その声は、さっき、僕に嘘ついたあの……っ!?』
「嘘とは人聞きが悪いのお。ちょっとからかっただけじゃろ」
『僕、あの、たしか家で寝ていて、瑠璃香が頭を撫でてくれて、それで、気がついたらあの何にもない場所にいて、それで……っ!』
「これこれっ、焦るでない、焦るでないぞ」
『え、ちょっ!』
視界に影が落ちたかと思えば、直後、二つの巨大な脂肪の塊が迫ってくる。
それが顔に押し付けられ、
『わっ、っぷ』
「よ〜し、よ〜し、いい子じゃ」
『ん〜〜〜っ、んん〜〜〜っ!!』
ニャゴロ、ニャァアアッとテトの悲鳴が響き渡った。
気道が詰まった。恐ろしいほど柔らかな感触とともに、肺いっぱいに甘い香りが広がる。
ジタバタしてもびくともしない。そのまま頭を優しく撫で続けられる。本来ならば心地の良いはずのその感触も、今は楽しんでいる余裕は全くない。
テトは頭をぐりぐり動かしながら、そのお姉さんの胸をパタパタと足で叩いた。
「おっと、すまぬ。うぬは顔が小さいの」
『ぷはっ!』
ようやく解放される。思い切り息を吸い込むと、キンキンに冷えた空気が肺に入り込んだ。
テトはようやく呼吸が落ち着いて、辺りを見回した。
そこはがらんとした神社の境内だった。真っ赤な鳥居が山道に沿って無数に並んでいるのが見えた。高度がかなりあるようで、林の切れ目の向こうには空が広がっている。その空には嘘みたいな満天の星空が瞬いていた。



