あのとき育てていただいた黒猫です。
プロローグ 吾輩は猫である。 ②
そんな場所で、石畳に足を崩して座るこの美しい女性にテトはお姫様抱っこをされていた。
『こ、ここはどこですか? 天国ですか? そ、それとも地獄ですか?』
ふーむ、とお姉さんは唸る。その動きに合わせて豊満にすぎる胸部がたゆたう。
というのもお姉さんは巫女服とも十二単とも言えない、それらの中間をいいとこ取りしたようなデザインの着物をこれでもかというほど着崩しているのだ。それはもう、人間の世界では隠すことを美徳とされるような場所まで見えてしまいそうなほどに。
自分の頭がさっきまであった場所から視線を外すと、テトはお姉さんの腕の中から飛び出た。
ひんやりとした感触が肉球の向こうから伝わる。冷えた夜の空気は、記憶にある夏のそれとは似ても似つかない。それなのに、肺腑に空気を入れて吐き出す行為に、どうしてか生きている実感が伴っている。
死んだのは間違いない。しかし、この
すると、お姉さんは頷きを一つ作った。
「ずばりここは地獄じゃ」
『え、ええっ!? やっぱりここ、地獄なんですか!?』
「怠け者の猫が落ちる地獄じゃよ」
『瑠璃香に甘えてばっかりいたからバチが当たったんだきっと!』
「じゃが助かる方法が一つだけある」
『た、助かる方法が、あるんですか……?』
「それは……」
『それは……?』
「わしの抱き枕となって一日中モフられることじゃっ!」
お姉さんがビシッと指をさす。
テトはがっくりと項垂れた。
『……うそつき』
またもやこのお姉さんにからかわれたようだ。
「くふふ、うぬはまこと可愛いのぉ」
『本当にここはどこなんですか。あと、お姉さんは一体……?』
お姉さんは鼻を鳴らして息を吐くと、言った。
「ここは現世じゃよ。もっともうぬが死んでから、ちょうど二年が経っておるがの」
『現世……って、二年!? ど、どど、どうして!? というか、生き返ったの僕!?』
「厳密には生き返ってはおらぬ。別の存在として現界したのじゃ」
『別の、存在……? それは、なんですか?』
テトが問うと、お姉さんは一拍置いて、言った。
「猫又じゃよ」
『…………』
「お〜い、大丈夫かの?」
『えっ、猫又!?』
時間差で、んにゃあっ!? とテトの声が境内に響いた。
「うぬはつくづくいい反応を見せてくれるのお」
お姉さんはくふふ、と笑った。
『猫又って、あの? 妖怪の?』
「それ以外に何があるのじゃ」
『でも、僕、普通の猫ですよ』
「それは自分の尻を見てから言うことじゃな」
ふい、とテトは後ろを振り返る。
そこにはフリフリと左右に揺れる、自慢の真っ黒な尻尾が──二本あった。
んにゃああああああっ!? と今度は飛び跳ねる猫の姿と合わせて鳴り響く。
『何これ何これ何これ!? 尻尾が……二本ある!? 裂けた!? 裂けちゃった!?』
「それが猫又として現界したという、動かぬ証拠じゃ」
『どど、どうして僕、猫又に……?』
「それはうぬが一番よく知っているはずじゃが? 何よりも誰よりも強い欲望──それが死後、輪廻転生するはずの魂を
「ゆ、幽霊!? あの何もない真っ暗闇を見ている状態が?」
「左様。もしその間に十分な量の妖力を蓄えることができれば妖怪へと転じることとなるのじゃが、もっとも、たかだか二年彷徨っただけのうぬにはそれが足りんかったようじゃの。じゃから、わしが妖力を分けて妖怪になるのを後押ししてやったのじゃよ」
『そうだったんですね。それは……ありがとうございます?』
「ふむ、それで良い。わしは感謝されるのが何よりも好きじゃ」
テトはどう反応していいかわからないまま感謝の言葉を口にし、お姉さんは満足そうに頷いた。どうやらこれで正しかったらしい。
『あれから、二年……』
テトには二年という時間の重みの実感がなかった。何せ、テトの主観で見れば、たった一瞬の出来事なのだ。
「いるんじゃよ。うぬのように強すぎる想いを持ちながら肉体を離れたが故に、成仏できずに
『だから彷徨っていた僕を猫又にしてくれたんですね』
テトが無邪気に笑ってそういうと、逆にお姉さんは気まずそうに目を泳がせた。
「ま、まあ、そんなところじゃな。本当は成仏させてやらねばダメなのじゃが……」
『?』
何か最後に小声で言ったような気がしたが詳しくは聞き取れなかった。視線を泳がせるお姉さんの様子にテトは小首を傾げる。
お姉さんは誤魔化すように咳払いをした。
「うぬは、何か後悔があるんじゃろ? 成仏できぬほどの、強い後悔が」
「¬────」
言われ、テトは思案する。否、思案する暇もなかった。必要もなかった。
閃光の如く網膜に映る姿はただひとつ。
『──瑠璃香』
お姉さんは顎を引き、上目遣いに尋ねた。
「それは、誰の名じゃ?」
『瑠璃香は僕の……』
テトは考える。瑠璃香は、僕にとっての何なのだろうか、と。
答えはすぐに出た。
『僕の大切な家族です』
「その大切な家族に対してうぬは一体どんな後悔を? 何かをしてしまったのかの?」
『……逆です。何も、できなかったんです』
「ふむ」
お姉さんは頷きを作って、テトに続きを促した。
『拾ってもらったのに、育ててもらったのに、優しくしてくれたのに……僕はただ死んでしまった。返さなきゃいけなかったのに。もらったものを、もらった以上に、返したかったのに」
テトは息を吸った。
『返そうとしたんです。でも、できなかった。
「……なるほど。じゃから、猫又なのじゃな」
『え?』
顔を上げると、お姉さんは神妙な顔で頷いた。
「大猫、火車、金華猫。海の向こうに渡ればケット・シーにカーバンクル……猫の妖怪と言っても種類は数多い。それでもうぬが猫又になったということは、そういうことなのじゃろう」
『そういう、こと……ってどういうことですか?』
「猫又は何ができる?」
『化けることができます。他の生き物の形に。例えば……』
テトは短く息を吸った。
お姉さんは繋ぐように尋ねる。
「例えば?」
テトは自分の唇を舐めた。
『例えば、人間に化けることができます』
「そうじゃ。そうなのじゃよ」
お姉さんが人差し指でテトの胸をつつく。
「で? うぬはどうしたい?」
テトは勢いよく立ち上がった。
そうとなれば決まっている。やるべきことはただ一つ。
お姉さんを向き、息を吸った。
『──僕、化けます。人間に化けて、今度こそ瑠璃香に恩返しをします』
「うむ。よう言った。それでこそわしの見込んだオスじゃ」
しかし、テトは視線を泳がせた。
『でも、僕、どうやったら人間に化けられるかわからなくて……』
そういうと、お姉さんはテトの頬に手のひらを当てた。
「ゆっくり目を閉じよ。そして感じるのじゃ。身体の内に巡る、妖の力を」
テトは俯いた。俯いて、うずくまった。
感じる。身体の深いところ、その奥底に、流れ込んでくるものを。血潮に乗る生命の息吹とは別の、妖しい力の流れを。まるでその力はそれ自身が意志を持つかのように蠢き、胎動し、何もないところからテトの奥底へと流れ込んでくる。
「そのまま静かに息を潜めよ。力の在処を捉えよ。──そして願うのじゃ」
願う、願う、願う。
どうか──どうか僕に力を。無力な僕に、優しいあの人へ恩返しするだけの力を。
──人に変わる、力を。
『ぐ、ぅ……っ!』



