あのとき育てていただいた黒猫です。
プロローグ 吾輩は猫である。 ③
ドクン、と。一際大きく脈打つ。脈打ったのは血管だ。しかし、その根源は心臓ではない。奥底に眠る別のもの。遅れて、テトはそれが自分の魂なのだと知る。
ミシミシと。ギチギチと。骨が、肉が、臓物が、音を立てて変わりゆく。霞のように形を真似るのではない。身体そのものを作り変える。これが、化けると言うことなのか。
痛みこそないものの、ありとあらゆる神経を直接撫でられているかのような表し難い不快感が脳漿を突き刺す。
『う、ぅううううううっ!!』
「いいぞ、その調子じゃテト! そのまま力を込めるのじゃっ!!」
お姉さんが支えてくれている。手のひらから温もりが伝わる。お姉さんには初めて会ったはずなのに、なんだか生まれる前よりもさらに前から知っているような、いい匂いがする──
そうして永遠にも感じる時間が過ぎた。
二年にも、五年にも十年にも……あるいは百年にも感じた、その時。
ゆっくりと、雲のように散っていた意識がひと塊に集まるのを感じた。
「……っ、……ト、…………テト!」
身体を揺さぶられた。
そうと理解した瞬間、テトは大きく息を吸い込んだ。
「……っ、瑠璃香!」
その名を叫んで目を見開く。
そう──叫んだ。
人間の言葉で、叫んだのだ。
「……ほ。どうやらうまく行ったようじゃの」
「あれ、今、僕……あれっ!?」
テトは驚きに声を上げた。だって自分の口から出ているのが別の言葉なのだ。
加えて、テトは視点が随分と高いことにも驚いた。見下ろせば、そこには真っ白でほっそりとした人間の手足が見える。毛はなく、筋肉も薄く、未熟な生殖器が無防備にも晒されている。
「いや、さ、寒……っ!」
寒さのあまり歯の根が合わず、ガチガチと音を立てる。全身が震え、頭の奥から聞いたことのない高音を幻聴する。
すると、お姉さんは自分の着ている幾重もの着物のほとんどを脱いで、それをテトの肩にかけてくれた。
「ほれ、これを着よ。人がなぜこんな邪魔くさい布切れを巻いているのかが分かるじゃろ」
「あ、ありがっ、とう、ございっ、ます。で、でも、それじゃお姉さんが寒くなっちゃ……」
「気にするでない。わしは体温が高い方でな。むしろこのくらいがちょうどいいくらいじゃ」
そう言って、お姉さんはテトに着付けてくれる。そのままでは身長差がありすぎて着物の裾がずってしまうため、うまいこと襷を使ってテトの足の長さに合わせてたくし上げてくれた。さらに、藁細工の草履も履かせてくれる。
人肌に温められた服と草履が、途端に凍えた身体を溶かした。
ようやく一息つけたテトは振り返る。そこにはその下の肌の色が透けて見えるほど薄くて真っ白な肌襦袢のみ身に纏ったお姉さんの姿があった。
お姉さんはテトに歩み寄ると、その黒髪をくしゃりと撫でる。
「くふふ、随分と可愛らしい姿になったの。成年の人間に化けるには妖力が足りんかったか。しかし、いつまで経っても中身が童のようなうぬには、ある意味ちょうどいいの」
「た、確かに、あれっ? なんだか僕、身体小さいような……?」
テトは目の前のお姉さんを見上げる。ちょうどテトの頭上にお姉さんの大きな二つの膨らみの下部が見えるような、そんな位置だ。端的に言って、随分と低い。
「ん? うぬよ、まだここが化けられておらぬぞ」
「ひゃあ!」
変な声が出た。つんつんと耳を突かれたのだ。お姉さんがつついたのはテトの頭上。遅れて、あっ、と気が付く。そうだ。人は耳を横に持っているのだった。
テトは目をぎゅっとつぶって、力を念じる。
すると、頭上の耳が消えていく一方で、顔の横に何かが象られていくのを感じる。
「〜〜〜〜〜〜〜っ、ぷはっ!」
「ふむ。及第点、といったところかの」
お姉さんが、今度はテトの頬の後ろのあたりをサワサワと触る。それが心地よく、目を細めてしばらく頬を擦り付けるテトだったが、やがて温もりが離れていってしまった。
自分でも触ってみると、確かにそこには人の耳があった。顔の横から音が聞こえるというのは不思議な感じがした。何より、自分で耳の方向をほとんど変えられないではないか。人間の耳とは、随分と使いにくいものである。
「人に化けるって、大変なんですね」
「そうじゃろ?」
お姉さんは悪戯っぽく片目をつぶって笑ってみせた。そのお姉さんの頭には綺麗な狐の耳が、そして着物の隙間からは幾本もの綺麗な毛並みのしっぽが覗いて見えた。この人もまた、人に化けているのだ。
このお姉さんはとぼけているところが多分にしてあるけど、実はすごいお方なのかもしれないと、この時、ふと思った。
「お姉さん、本当に色々とありがとうございました。今度こそ僕、瑠璃香のところに行って恩返しをしてきます」
「うむ。その……ところでその〝お姉さん〟というのはわしのことじゃよな?」
すると、急にお姉さんはニヨニヨ笑い始めた。テトは不意のことに何が何だか分からず、首を傾げる。
「もちろんそうですけど……? 僕、何か変なこと言っちゃいました?」
「い、いやっ、何もおかしくない、おかしくないぞっ。ふ、ふふ、そうか、お姉さんか」
お姉さんは何やら顔を逸らして、指先で横髪をくるくると巻いている。
それからお姉さんはテトに向き直ると、コホンと咳払いを一つした。
「改めて聞くが、うぬは主人に恩返しをしたいのだな?」
背筋を伸ばして、真っ直ぐに言う。
「はいっ」
「であれば、一つだけ忠告をしておこう」
テトは身を硬くした。
お姉さんの表情がなくなったからだ。
「決してその心意気を忘れるでないぞ。もし忘れれば──」
「もし忘れれば……?」
しん、と辺りが静まり返る。
お姉さんは顔をテトの真横に寄せて、囁いた。
「悪霊に堕ちて、うぬ自身がうぬの元主人を喰い殺すことになるでの」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
テトは心の底から震え上がった。
自分が悪霊になって、瑠璃香を喰ってしまう。
それ以上の絶望が、この世にあるだろうか。
「決して、忘れるでないぞ」
「っ、……っ」
こくこくと何度も頷く。
その様子にお姉さんは満足したのか、それまでの悪戯っぽい笑みに戻した。
「では往くがよい。うぬの目指す場所はその山道を降りて左にずっと行ったところにある。半刻も歩けば突き当たりにぶつかる。前の主人の住処はそこじゃ」
「わ、わかりました」
ほれ、とお姉さんはテトの背中を押して、境内の入り口へと導く。
そして、鳥居を一つくぐった。空気が変わるのがわかる。何がどう変わったのか具体的にはわからないが、匂いや、温度、あるいは
そのまま降りようと階段の縁に足をかけて、そこで一つ大事なことを聞き忘れたことを思い出して振り返る。
「あっ、あのっ!」
「ん? なんじゃ。早く行かんと冷え込みがキツくなるぞ」
内心でホッと息をつく。そこにまだお姉さんの姿はあった。心のどこかでもう消えてしまっているのではないだろうかという恐れがあった自分に気が付く。
「お名前を、お姉さんのお名前を教えてください!」
「…………」
お姉さんは一瞬怖い顔になった。
彼我の距離にしてたった一メートル。されどその一メートルが随分と遠くに感じる。
「……まあ、名前くらいならよいか」
呟いた声は冷たい夜空に溶けるように消える。お姉さんは自信に満ち足りたような、嬉しそうな、それでいてどこか寂しそうな表情に変えて言った。
「わしはススキ様と呼ばれておる。──忘れるなよ、テト」
「ススキ様……」
ちくり、と胸の奥で何かを感じた。しかし、それだけだった。
「ありがとうございます、ススキ様。この御礼は、いつか必ず」
「よいよい。わしはわしのしたいようにしただけじゃ」
「で、でも」
「なら、そのうち稲荷寿司でも持ってきてもらおうかの」
「はっ、はい! 必ず!!」
ほれいったいった、とお姉さん改めススキ様に急かされて、テトは石階段を下りた。
一段、二段、三段と。
そして四段目に足を下ろしたその時、
「……九度目は幸せだったようじゃの」
ススキ様の声が聞こえた気がした。
直後、一陣の風が吹くと、重なった鈴音がどこからともなく鳴り響いた。
「…………」
振り返り、見上げる。
四つ並んだ小さな鳥居の向こう側。そこにはススキ様の姿はおろか、神社の影も形も見当たらなかった。在るのはただ、小さな広場然とした空間に鬱蒼と茂った雑木林のみ。
何度か瞼を瞬かせる。しかし、何度目を凝らしても見える景色は変わらない。
「……頑張りますね、ススキ様」
テトは口の中でつぶやくと、今度こそ振り返らずに山道をまっすぐに降りた。



