あのとき育てていただいた黒猫です。
第一匹 そんな君に、ホットミルクを ①
七旗市。それがテトの住むこの街の名だった。
ススキ様の話では神社から家まで半刻ほどということだったが、歩けど歩けど全く辿り着く気配はなかった。と言うのも、人間の身体を自在に操る感覚にワクワクが止まらなくて、あっちへふらふら、こっちへふらふらと寄り道ばかりしてしまっているのが原因だった。
人間の一歩は、猫の二倍ある。
正確に言えば、子供の人間の一歩ではあるが──それでも、視座の高さ、視野の広さ、進む世界の速さ……そうした一つ一つのことに感動を覚えた。
人間の耳は猫のそれに比べてあまりよくない。甚だしくよくないと言ってもいい。しかし代わりに、彼らには並外れた視力が与えられていた。これが大変便利で、いちいち首を左右に振って物音を探る必要もなく、直接見てしまえば何が起こっているのか、あるいは起こっていないのかが一瞬でわかる。それが楽しい。
しかし、それにしても寒い。せっかく貰った着物もすでにススキ様の熱は逃げてしまい、テトの身体は凍てつく風に細かく震えていた。
すると、歩いている最中に白い影が空より降ってくる。
見上げると、それは雪だった。
「どうりで寒いわけだ」
石英色の結晶が鼻先に触れた途端、ホロリと崩れて消えた。吐く息が白い。人間はどうしてこうも体毛を無くしてしまったのだろう。ススキ様に服を着せてもらったとはいえ、テトの指先は凍え、早くも感覚が失われつつあった。
そうして限りなく黒に近い藍色の空から視線を戻すと、テトは息を呑んだ。
「……っ! この道……もしかして」
左側を擁壁工事が施された切り立つ崖、右側を一般住宅に挟まれた一本の生活道路。
そこはテトがよく真夜中に家を抜け出して
気づけばテトは藁細工の草履で駆け出していた。
着物の袖を振り回し、濡れた路面を幾度も転びそうになりながら走り続ける。
果たして、突き当たったT字路を右に曲がると、目的の場所が視界いっぱいに広がった。
「やった……やっと着いた……」
肩で息をしながら、膝に手をついて我が家を見上げた。
四十世帯ほどのマンションで、窓にはまばらに電気の光が見える。街の静けさが深い。
月の方角からして、夜が更けてからずいぶん時間が経っているようだ。
「……瑠璃香、この時間だともう寝ちゃってそうだな」
我が家は三階の角に位置している。登り方は熟知していた。
配管とベランダの出っ張りを伝っていくのだ。
テトは生垣を掻き分けて我が家の直下に辿り着くと、早速一階のベランダに足をかけた。
そして、
「うっわ……そうだ、僕、今人間の身体なの忘れてた。ってこの身体、おっも……っ」
両腕が自重に震えた。脚力が驚くほど弱い。バランスが取れない。図体も大きすぎる。
これは時間との勝負だと直感したテトは、欄干に
「猫じゃなくて、人間として、身体を使わないとダメだこれ……!」
右手、左足、左手、右足。交互に動かして垂直に伸びた配管をよじ登る。
しかし、テトの握力はそこで限界を迎え──
「あっ!!」
つるり、と滑った。
虚空に放り出される身体。本来であればこんな高さ、なんともない。何も感じない。ただ着地するだけだ。しかし今回は違った。
本能的な恐怖を感じた。いつもなら考えなくても勝手に身体が反転して四肢が地面に向かうのに、一向にその感覚はやってこず、背中からの自由落下を続けるのみ。
え──死ぬ?
一瞬過った恐怖も束の間。テトの身体を、生い茂った生垣が手荒に受け止めた。
「いっった!」
硬い枝葉が頬を擦った。しばらく呆然と雪の降る夜空を眺めていた。
──これじゃ、家に帰れない。
この身体じゃ、ダメだ。
いつもの方法では家に戻れない。
じゃあ、他の方法なら? 例えば──
「人間の方法で家に帰るのは?」
ガバリとテトは起き上がり、その身を生垣から引き抜いた。バキバキと音を立てながら枝葉を頭にくっつけて、凍えた身体で歩き出す。
マンションの入り口はすぐにわかった。使ったことはないが、人間が出入りしているところを過去に何度も見かけたことがあったからだ。
テトはススキ様に貰った着物の袂を掻き抱き直してエントランスに向かった。
足早にドアへ駆け寄り、全面ガラス製のドアを押した。
「……? 重すぎないこれ? ひょっとして人間としての僕の力、弱すぎ?」
ん〜〜っ、と踏ん張ってもびくともしない。そうする間にもガラスに当てた手のひらから熱がどんどん逃げていく。
「逆に引いてみるとか? いや、無理だ、継ぎ目しかないし取手もない。う〜〜ん?」
それからしばらくの間、試行錯誤してみるが扉が開くことはなかった。その間に誰か住民がマンションの外ないしは中から現れることを祈りもしたが、真夜中ということもあり人影一つ通りがかることはなかった。
不意にテトは扉の隣に備え付けられている機械を振り返った。
時折、人間がこの機械に向かって話しかけることで扉が開くのを見た。
一縷の望みに縋って駆け寄り叫ぶ。
「瑠璃香、……瑠璃香、僕はここだよ! 開けてよ!」
しかし、雪夜にテトの幼い声音が吸い込まれるのみで、何の変化も見られない。
急に疲労感がどっと押し寄せてくる。
テトはエントランスの壁に背中を預けて、そのままずるずる崩れ落ちるように座り込んでしまった。背中とお尻が、布越しに冷えていく。それでも、神社からここまで歩いた足はもう棒のようで、精神的にも肉体的にも疲労が限界に近かった。
「……大丈夫、まだ大丈夫。朝になったら、瑠璃香は〝学校〟に行くために外に出るはず。朝まで待てば、会えるかな。……うん、会えるよね、きっと。大丈夫、絶対会える、絶対に……」
テトには、もはやそう信じる以外に希望が残っていなかった。
再び着物を抱き寄せるが温もりは一向にやってこない。エントランスはわずかに建物側に窪んでいるため多少マシではあるが、それでも吹き込んでくる風は依然冷たく、テトの柔肌に容赦なく牙を立てる。
そうこうしている間に、まったりとした甘い眠気が襲ってきた。
抗いがたい眠気だ。
テトは簡単に瞼を閉じてしまい、腕で作った枕に顔半分を埋めてしまう。
「ちょっとだけ……ちょっとだけ、眠ろう……」
それから目を覚ませばきっと瑠璃香に会えるはず。
時間が経つにつれ、身体が寒さを忘れ始めた。温かくなったわけではない。ただ、寒さを感じなくなっていった。しかし、それこそがテトを深い眠りへと誘い、手を離さなかった。
やがて、テトは夢の世界へと転がり落ちていく。
────。
見たのは、懐かしい思い出の断片だった。
あの頃は小さすぎて、記憶のほとんども忘れて曖昧になってしまっているが、しかし何よりも大切なテトの思い出。
テトは元々、捨て猫だった。
生まれて間もない頃、家を追い出され外に放られたのだ。後になってから、それが捨てられたのだということを知った。
そんな捨て猫だったテトを拾ってくれたのが瑠璃香だった。
まだ彼女も小さく、幼かった。学校に通い始めたばかりの頃だったようだ。
あの日も、今日みたいに雪の降る冷たい夜だった。
右も左もわからないまま、ただ突然にやってきた寒さにただ身を細くして耐えることしかできず、悲しみに暮れてか細く鳴くことしかできなかった。
親を、兄弟を、家族を、ただ呼んでいた。
しかしいつになっても母が現れることはなく、呼ぶための喉も嗄れて、寒さに奪われ続ける体力も限界に達した頃。
「……あなた、一人なの?」
そう。
こんな風に声をかけられたのだ。
最後に自分はその言葉に返事をしたのか、しなかったのか覚えていないが……
「…………うん、一人なんだ」



