あのとき育てていただいた黒猫です。
第一匹 そんな君に、ホットミルクを ②
──いや、確かに返事をした。ちょうどこういう具合で。
それから瑠璃香はこう続けたのだ。
「すごく冷えてる。このままじゃ死んじゃう。わたしの家においで。あっためてあげる。大丈夫。……お母さんとお父さんは、今日もいないから」
言いながら、瑠璃香はテトを抱き上げて家の中まで連れていってくれた。
その最中でテトは意識を手放したのだ。
それが記憶。瑠璃香とテトの、最初に出会った大切な思い出だ。
懐かしい。全てが懐かしい。
ああ──でも。
──瑠璃香の声は、こんなにも大人びていただろうか?
「────っ!」
覚醒は突然だった。
呑まれた濁流から乾いた岸辺に放り出されるような、そんな突然の目覚め。
テトは跳ねるようにして上体を起こした。
「あら、起きたみたいね」
見回す。そこは見慣れた麗しの自宅だった。
夢じゃない。夢だったら、こんなにも家の匂いで心が浮つかない。
帰ってきた──そう思えた。
テトはソファーの上に寝かされていたようだった。
身体をゆっくりと起こすと、真っ黒なブランケットが膝から滑り落ちた。それはテトのお気に入りの起毛のブランケットだった。よく噛んで遊び道具にしたり、その中にくるまって寝床にしたりしたものだ。
拾おうと手を伸ばした。しかし、先にそれを掴む手があった。
真っ白でほっそりとした二の腕。その先に、ブランケットと似たような黒色の起毛の靴下を穿いた本の足が見える。
「君、体調はどう? お腹痛かったりしない?」
ゆっくりと視線を上げる。
果たして、そこには記憶の中よりもずっと大人っぽくなった瑠璃香の姿があった。
ミルクティ色のゆったりとウェーブがかった長髪。おっとりとした垂れ目は大粒の瞳があり、そこから端正な鼻筋と、桃色に染まる唇が続く。卵形の顔は身長に対して随分と小さく、それでいてその優しくも力強い眼光が彼女という存在を強く物語っている。
瑠璃香だ。ああ、瑠璃香だ。
テトは涙ぐみながら、ただただ彼女の元気そうな姿に胸を震わせることしかできなかった。
確かに二年というのは決して短くない時間らしい。
あどけなさを横顔に残すものの、出立ちはすっかり大人の女性のそれで、美しさに磨きがかかっているようだった。
──そうか、僕はまた、瑠璃香に拾われたのか。
嬉しいのと同時に、情けない気持ちになった。
「ほっぺたの傷は……うん、一応血は止まったみたいね。よかったよかった」
「傷?」
「君、どういうわけか葉っぱとか枝とかそこらじゅうについていたわよ? かすり傷もたくさんあったし、変わった格好をしているし……一体どうしたの?」
「えっと、それは」
瑠璃香を前にしているという事実に、頭の中が真っ白になってうまく言葉が出てこない。
すると瑠璃香は、ぷくりと頬を膨らませてテトの無傷な方のほっぺをつまんできた。
「むぐっ」
「君〜、どうしてあんなところで寝ていたの? 外で寝ちゃダメでしょ? しかも今日みたいな春に雪が降ってる異常気象の夜に寝るだなんて。君の身体、びっくりするくらい冷え切ってて、すっごくすっごく危なかったんだからね。たまたまわたしが通りがかったからよかったけど……」
「ご、ごふぇんなひゃい……」
「ん、わかればよろしい」
瑠璃香はテトの頬を解放するや否や、今度はこのこの、と伸ばした人差し指でテトの鼻先を右に左にと押してくる。一緒に住んでいた時、よくテトにやっていた彼女の癖だ。
「あ、あの、助けてくれて、ありがとうございます」
「全然気にしなくていいのよ。ところで君、どこから来た子なの? このマンションの子? それとも迷子?」
「えっと、それは……」
テトは自分の左右の指と指とを絡め合わせながら視線を落とす。
……えっと、こういうのってどこまで言っていいんだっけ?
「そう、かも?」
結果、テトは目を泳がせて曖昧な答えを返した。
「かも?」
瑠璃香は困ったような表情を浮かべて、そっとテトに身を寄せる。
「かもっていうのは、迷子ってことについてかな?」
「う、うん……そういうこと、かも……」
「うーん」
瑠璃香が顎に手を当てて唸る。
テトは必死に考えた。
……瑠璃香に正体を明かしちゃだめ、とかススキ様は言ってたっけ? どうだっけ?
思い出せない。思い出せないが、迂闊な行動は取れない。
もしかしたらススキ様が言っていないだけで、恩返しを忘れる以外にも、正体を明かしてしまったら悪霊になってしまう、ということもあるかもしれない。
なぜなら、妖怪というのは人の目を忍ぶのが常なのだから。
「七階の佐久間さんのところでもなさそうだし、四階の西園さんの息子さんはもう高校生のはずだし……あ、君、名前は何ていうの?」
「テトです」
「え?」
「あっ」
瑠璃香が驚いた声を上げ、一歩遅れてテトは自分の犯した失態に気が付く。
テトは慌てて両手で口を塞いだ。思わず反射的に答えてしまっていた。
「め、珍しい名前なのね」
それに対して、瑠璃香は少し狼狽えながらも慈愛に満ちた柔らかな笑顔を浮かべ続ける。
「おねーさんに苗字を教えてもらってもいいかな?」
「えと、ない、です。多分……」
本当は瑠璃香の苗字の泉姓を名乗りたかったが、二度同じ失態はしないと固く口を閉ざした。
「ない? ……でも、エントランスで寝ちゃってたってことは、このマンションの子なのよね?」
「う、うん」
瑠璃香は顎に手を当てながら小さく首を捻った。
「こういう時、どうすればいいのかしら。マンションの管理人さん? それとも警察? でも迷子だものね……」
「えっと、その、僕は迷子っていうか……」
テトは何とか瑠璃香を心配させまいと口を開いて、
「本当は瑠璃香に会いにきたっていうか……」
「え」
「あ……っ」
再び慌てて口をつぐんで、さらにその上から両手で口元を押さえ、ついでに目も閉じる。
こっそり目を開けて様子を窺うと、瑠璃香は驚いて目を瞬かせていた。
「わたしの名前はたしかに瑠璃香だけど……」
どうしよう、しまった……っ。
テトは混乱してぐるぐると目をまわす。
瑠璃香に嘘をつくのは嫌だ。でも、誤魔化し方もわからない。
そうしてしばらくテトが混乱していると、瑠璃香は、ふ、と表情を和らげた。
そしてテトの頭に手を乗せて、ゆっくりと撫でる。
「ふ、ぁああ……」
思わず声が出た。
「急にたくさん聞いちゃってごめんね。君だって今、知らないところで凍えてて怖くてしんどいよね。ちょっと待っててね、今、おねーさんがあったまるもの作ってきてあげるから」
そう言って瑠璃香はソファーに座るテトに黒のブランケットを巻きつけると、パタパタとスリッパを鳴らしながら何やらキッチンの方へと足早に消えていく。
一人ぽつねんと残されたテトは、遠くで作業する瑠璃香の音を聞きながら、リビングを見まわした。
変わらない、と思っていたが、やはり少しずつ色々なものが変わっていた。
写真たてが増えていたり、テレビが大きくて薄いものに変わっていたり。シーリングライトも別のものに変わっているし、カーペットも絨毯から起毛の手触りが良いものに変わっている。
壁紙の色褪せ一つとっても、テトの目には変化として映った。
テトの胸の奥を、一つの想像とともに寂しさが掠める。
……瑠璃香にはもう、僕は必要ないのだろうか?
すると、キッチンの方から何やら甘い香りが漂ってきた。
同時、キッチンの電気が消え、その奥から瑠璃香が姿を現す。
「はい、できましたよ〜」
その手には、湯気が立ち上る二つのマグカップがあった。
「これって……」
「おねーさん特製のホットミルク。隠し味にちょびっとだけはちみつを入れてあるの。はちみつは好き?」
テトはこくこくと頷いた。



