あのとき育てていただいた黒猫です。

第一匹 そんな君に、ホットミルクを ③

 隣に座った瑠璃香からマグカップを受け取る。

 手のひらからほのかな熱が身体の中に入ってくる。中身は真っ白で少しとろみのある液体で満たされていた。

 テトにはその匂いに、覚えがあった。鮮烈に覚えていると言ってもいい。

 テトはそっとマグカップの縁に口をつけ、ゆっくりと傾ける。

 たしか、瑠璃香はいつもこんな風にして飲み物を飲んでいた。

 唇から喉にあったかくてほのかに甘いミルクが滑り落ちていく。

 人間の舌の構造が猫のそれと全く異なるというのがわかる。猫時代の何倍もの複雑な味覚が脳を焦がした。あの頃に感じた味も捨てがたいが、人の舌で味わう瑠璃香のホットミルクもまた格別だった。


「美味しい……」


 ほう、と息をついた。

 そんなテトの様子をにこやかに眺めてから、瑠璃香は自分のカップに口をつけた。

 瑠璃香は一口、二口と喉を上下させた後、ふー、と長い息を吐く。

 テトが慎重に言葉を探していると、瑠璃香の方から恐る恐る口を開く。


「そのミルク、少し冷めてなかった?」

「え……?」


 テトは瑠璃香の横顔を見てから、手元のカップに視線を戻した。


「全然。とってもあったかくて美味しいです」

「そう……?」


 かち、こち、と時計の針が振れる音が響く。

 それから瑠璃香は意を決したように息を吸い込むと、真っ直ぐにテトの瞳を見つめた。


「……あのね、わたし、今からとっても変なこと聞いてもいい?」

「変なこと?」


 テトはマグカップをテーブルに置いて身構えた。

 こくん、と瑠璃香は頷く。


「わたし、前にどこかで君と会ったことってあるかな?」

「────」


 テトは息をつめた。

 そのテトの表情を見た、瑠璃香は言葉を繋ぐ。


「ごめんね、今の質問は答えなくて大丈夫……えっと、他にはそうね」


 瑠璃香は膝の上に両手で包んだマグカップを置いた。

 そして、揺れる真っ白な水面に視線を落とす。


「君、もしかして、寝るときは絶対に右のお腹から倒れて眠る癖があったりする?」

「……っ」

「それかまぐろの中落ちが大好物とか──ああ、これは好きなも多いかな。じゃあ、えっと……そうっ、お風呂に入るのは嫌いなくせに空の湯船の中で寝るのが好きだとか。他には……」


 瑠璃香は戸惑いまじりに、どこか恥ずかしそうに、そしてどこか自分を呆れ笑いするかのように、必死に言葉を紡いでいく。


「……他には、そのホットミルクを、ずっと昔に飲んだことがある、とか」


 瑠璃香はどこか期待の混じった目でテトを見た。

 テトは震える唇で言う。


「ど、どうしてそんなことを聞くの?」

「ごめんね。あのね、変な話なんだけどね、その……君がわたしの大切な人にすっごく似てて……いや、似ているはずないんだけどね、あはは、ほんとにごめんね、変なこと聞いちゃって」


 瑠璃香が自嘲気味に苦笑する。

 それから表情を消すと、今度は途端に今にも泣きそうな顔になって俯く。


「本当にあの子に似ていて。そのミルク、本当は君のだけちょっとぬるめにしてあったんだ。それでも君はあったかくて美味しいって言ってくれたからもしかして、って思っちゃって」

「……っ」

「乗り越えなきゃいけないのに、前を見なきゃいけないのに、忘れられなくて……さびしくて。変だねわたし……君に重ねちゃってる」


 瑠璃香は鼻をぐずらせた。


「でも、さっき、真夜中なのにあの子に名前を呼ばれたような気がして……そんなはずないと思ってマンションの外に出てみたら、あの子じゃなくて君がいて」


 言葉が奔流する。


「ごめん、今の全部、忘れてくれるかな……。君はきっとご近所さんで、わたしの名前を親御さんに聞いたことがあるとか、そういうことだよね。……ちょっと、お水取ってくるね」


 瑠璃香はカップをテーブルに置くと、目元を拭いながら立ち上がって、背を向けた。

 テトはキッチンへ向かっていく彼女の後ろ姿を目で追いかける。

 ただの一歩。ただの二歩。

 同じ部屋の中で遠ざかってしまっているだけなのに。

 瑠璃香が遠くに行ってしまう。そんな気がした。

 それでもテトには何もできない。何も声をかけられない──

 ──ほんとうに?

 そう思った瞬間、無意識にテトの身体が動いていた。


「瑠璃香!」

「……っ」


 瑠璃香の肩が跳ねて、足が止まる。

 立ち上がったテトは真っ直ぐに言う。


「僕は左のお腹がいっつも暑くなるから右から倒れて寝るし、マグロは特に味の強い赤身が大好物だし、水は大嫌いだけどあの囲まれている湯船の空間が好きだし」


 言う。


「ずっと昔、死んじゃいそうなくらい寒い夜に初めて瑠璃香と会ったし」


 言う。


「その時にこのホットミルクだって飲んだことあるし」


 言う──


「ずっとずっと、瑠璃香と一緒に住んでいたよ」


 瑠璃香が振り返る。

 その目は赤く腫れて、涙で濡れていた。


「うそ」


 それでも瑠璃香は首を横に振る。


「そんなはず、ない」


 テトは三歩で身を寄せた。

 瑠璃香との距離はほとんどゼロ距離。


「瑠璃香、僕だよ。僕なんだよ」


 信じたい気持ちと信じられない気持ち。

 その二つの想いの狭間で揺れる瑠璃香に言う。


「テトだよ」


 瑠璃香は見る見るうちに目を大きく開き、口元を手で押さえた。


「……そんなはずないよ。だってテトくんは一昨年……わたしの腕の中で──」

「待ってね」


 テトは一言断って、目を瞑った。

 思い出す。

 数刻前にススキ様に教えてもらった技を。術を。

 深く深く探る。自分の底にある魂の在処を。瑠璃香のことだけを思うその熱を。そして、その熱源から脈打つ力の鼓動をゆっくりと手繰り寄せる。

 手順はさっきとは真逆だ。今度は一部分だけ戻るための力を探る。

 それは人に化けるよりもずっと簡単だった。さながら川の流れに身を委ねて下るように。

 うまくいった。そう思って、ゆっくりと目を開ける。


「うそ…………そんなことって……」


 テトの頭の上には真っ黒でフサフサの耳が一対、ぴょこぴょこ揺れていた。

 瑠璃香が信じられないというような表情で首を横に振る。

 そして、自分で自分の頬を左右からつねった。


「これって、夢? わたし、もしかして帰りの電車の中で寝ちゃって、そのまま夢を見ているのかな。ふふ、もしそうなら、すごく幸せな夢。幸せすぎて、醒めてしまったらこの上なく苦しくなる残酷な夢」

「違うよ、夢じゃないよ瑠璃香。僕、生まれ変わったんだ」

「生まれ、変わった……?」

「生き返ったわけじゃないみたいだけど、でもほら、死んでもいないよ」


 テトは瑠璃香の手を取って、自分の頭の上に載せる。

 瑠璃香は呆けた顔でテトに乗せた手の指先だけ動かした。


「ね? 触れるでしょ? 幽霊じゃないよ、僕」

「触れるけど、触れるけど……っ」


 瑠璃香の手の平がテトの黒髪を滑るように撫でる。そして、テトの耳の裏を掻くように人差し指を動かし、親指でさらにその付け根を揉むように往復させる。

 いつもの動き。瑠璃香の手の動き。


「……テトくんと、同じ耳」

「だから僕はテトなんだって」


 瑠璃香はくしゃりと顔を歪めて、堪えていた目尻の涙を頬に流した。


「……………ほんとうに、テトくんなの?」

「うん」

「……夢じゃなくて、現実なの?」

「そうだよ」

「わたし、喜んじゃっていいの? 信じちゃって、いいの?」

「いいんだよ、瑠璃香」


 テトは笑った。

 その瞳は、嬉し涙で濡れていた。

 瞬間。


「…………っ」


 瑠璃香は弾かれたようにテトの身を抱き締めた。

 そして、


「テトくん……っ、テトくんっ……!」


 テトの背中に両腕をいっぱいに回して、きつくきつく抱きしめた。

 瑠璃香がテトの耳と耳の間に額を当てて嗚咽する。

 テトもまた瑠璃香の腰に精いっぱい腕を伸ばして抱きしめ返す。

 テトは瑠璃香の腕の中で湿った声で言った。


「──ただいま、瑠璃香」



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