あのとき育てていただいた黒猫です。

第一匹 そんな君に、ホットミルクを ④

 瑠璃香が泣き止んだのは、それからたっぷり一時間が経ってからのことだった。

 テトは瑠璃香の膝の上に座っていた。

 手の中には、瑠璃香が温め直してくれたホットミルクのマグカップがある。

 瑠璃香に見せた猫の耳は人間のそれに戻した。そのままにしておいてもよかったのだが、猫耳を出したままにしておくとその状態から戻すのが難しくなるような感覚があったのだ。


「テトくん、その薄い格好だと身体冷えちゃうね」

「あ、ありがとう瑠璃香」

 

 瑠璃香が、テトのお気に入りのブランケットを肩からかけてくれる。

 それから、空になりそうなテトのマグカップを覗き込んで首を傾げた。


「ホットミルクおかわりいる?」

「ううん、大丈夫だよ。すごく美味しかった」

「そ? よかった」


 テトがそういうと、瑠璃香は薔薇が咲いたように笑った。

 彼女の見せた笑顔に、テトもまた笑顔になる。

 テトはただただ嬉しかった。

 こうして瑠璃香と言葉を交わせていることに。

 これまでは長い時間を経るにつれてテトこそ瑠璃香の言葉がわかるようになっていったが、ついぞ瑠璃香がテトの言葉を完璧に理解する日は来なかった。もちろん表情の微妙な変化や、声の調子だけでおおよそのテトの感情を瑠璃香は読み取ったが──それだけでも十分にすごいことだが──それでも完璧な意思疎通には程遠かった。

 しかし、今は違う。

 テトが話せば瑠璃香が答え、瑠璃香が話せばテトもまた答える。その言葉のやり取りが、意味を積み重ねて会話として続いていく。

 これほど嬉しいことが他にあるだろうか。


「ふふふ」


 すると、不意に瑠璃香がくすぐったそうに笑う。


「? どうしたの瑠璃香?」

「嬉しいなって、そう思ったの。こうしてテトくんと会話できるだなんて、まだわたしがちっちゃかった時には何度夢に見たことだろうって。何となく表情とか鳴き声とか仕草でテトくんの言おうとしていたことは分かっていたけど、それでも完璧だったわけではないし」


 テトは激しく首を上下に振った。

 瑠璃香はいつも何かに同意の意図を示すときにこうして首を縦に振っていた。相槌というやつだ。テトは今、最高に瑠璃香の言葉に同意の気分だった。


「僕もね、瑠璃香と会話ができて嬉しいよ」

「ほんと?」

「瑠璃香の言葉は少しずつわかるようになっていったけど、猫の声だと人に伝えるのは難しかったから……例えば、ほら」


 テトは咳払いをして喉仏の位置を下げると、


「にゃぁ〜お」

「わ、いつものテトくんの声だ。人間の身体になっても猫の声が出せるのね」

「問題。今、なんて言ったでしょう?」

「ん〜。〝お腹がすいた〟?」

「不正解。正解は、〝瑠璃香〟でした」

「たしかにわたしのことを呼ぶ時にその鳴き声、よくしてたもんね。そっか、それってわたしの名前だったのね」


 瑠璃香はマグカップをテーブルに置いて、おいで、と腕を広げる。テトも同じくマグカップを置き、躊躇なく瑠璃香の胸元に飛び込んだ。

 膝に乗ったまま正面から瑠璃香に抱きつく形となる。

 そして頭を擦り付けながら甘えると、自然と喉の奥から「ん〜っ」と声が漏れた。

 瑠璃香の起毛のセーターからは彼女の甘い香りがする。いつもの、安心する香りだ。


「言葉ってすごいね。僕たち猫は、状況とか環境に応じて声のトーンを変えたり、尻尾の動きを変えたり色々組み合わせてコミュニケーションをとるけど、人間は声一つで意思疎通ができるんだから。これなら完璧に自分の考えが相手に伝わるから便利だね」


 顔を上げて言うと、瑠璃香は少し大人っぽく微笑んでテトの鼻先をつついた。


「そうでもないのよ? 完璧なものはこの世にはないからね。言葉だってすごく不完全で、真逆の意味で相手に伝わることだってあるんだから」

「そうなの?」

「そうなの」

「そういう時はどうすればいいの?」

「ん〜と、そうね」


 瑠璃香は少し思案すると、何か思いついたようで、悪戯っぽい顔をした。

 そして、テトの背中に両腕を回して思いっきり抱きしめた。


「こう、するのっ!」

「ん、ん〜〜〜っ!?」

「スキンシップも大事なコミュニケーション、ってところね」

「ぎ、ぎぶぎぶ、るりか息できないよ……っ」

「ごめんごめん。テトくんってば、いい匂いがするから。……いつもの、匂いがするから」

「……瑠璃香?」

「…………」


 瑠璃香はテトの首元に顔を埋めたまま動かなくなってしまった。首にかかる瑠璃香の吐息は焼けそうなほど熱い。


「……大丈夫?」

「…………うん」


 瑠璃香が鼻をすする。


「……テトくんにまた会えて、本当に嬉しいの」

「僕もだよ、瑠璃香」


 テトは背中に腕を回し、もう片方の手を瑠璃香の頬にそっと当てた。まるで甘える猫のように瑠璃香が頬を擦り付けてくる。


「テトくんはいつだって優しいね」

「ごめんね、瑠璃香。今まで一人にしちゃって」

「……ううん。いいのよ」

「僕のこと、忘れないでくれてありがとう」

「……………うん。絶対に、忘れないわ」


 静かな時が過ぎる。冬の冷えた空気とは裏腹に、心の内はどこまでも温かかった。

 すると、ピンポロパン、とどこからともなく音が鳴った。

 テトはびっくりして反射的に音のした方を振り返る。

 音そのものの正体は知っていた。風呂が沸いたことを報せる音だ。


「そうだ、すっかり忘れてた。テトくんのためにお風呂を溜めておいたんだった」

「え? 僕のため?」


 テトは向き直って瑠璃香の顔をまじまじと見る。

 瑠璃香といえば、いつもの柔らかい表情のままだ。


「テトくんの身体、冷え切っちゃっていたから。身体を温めるのにお風呂は一番よ?」

「えっと……」


 ──それはつまり、これから僕がお風呂に入るということ?

 嫌な予感が背筋を這い上がってくる。

 きっと、今テトの顔は青ざめていることだろう。

 テトは瑠璃香の膝上からゆっくりと降りて、後退りした。


「その、僕は、もう大丈夫だよ。だって……ほら、こんなにポカポカ! 瑠璃香にたくさんあっためてもらったから、全然大丈夫だし!」


 すると、瑠璃香もまたそっと無音で立ち上がり、慎重な足捌きでテトを追ってくる。

 その顔に、満面の笑みを湛えて。


「猫ちゃんが水を嫌うのって、性質的に毛が乾きにくくて本能で怖いと感じているから、っていう話を聞いたことがあるけど──これって本当のお話?」

「ど、どうだろう。とにかく水はキライ。とてもキライ」

「でも、テトくんには、今はもう、あのふさふさの毛は、ないわよね。そしたらお風呂、入れるよね?」


 テトはパッ、と自分の髪を摘んで左右から持ち上げた。

 これだって毛だ。長さだけでいえば猫時代に身に纏っていたどの一本よりだって長い。


「ここにあるよ」

「髪だけじゃない。他はまだツルツルでしょ?」

まだ・・? まだってことは、人間もいつかは色んなところに毛が生えて猫みたいになるの?」


 瑠璃香はしまったという顔をした。それどころか、どことなく頬の血色が強くなっていた。

 一方でテトは微かな希望に目を輝かせた。もしそうなら、瑠璃香に二度と浴室へ連れ込まれることがなくなるかもしれない。しかし、これまで過ごしてきた中で体毛に覆われた人間というのはなかなか見たことがない。どういうことだろう?

 すると、瑠璃香は目を泳がせながら言った。


「え、えっとね、猫みたいにはならない、かな」

「でも生えるんでしょ?」

「う、うん。生える」

「どんなふうに? どこに? いつ頃生える?」

「え、えーと、どこと言われても色々というか主にあそこというかテトくんくらいの年だったらあと何年かしたら生えてくるというか……えっとそういうのはまだ秘密!」


 姉の横暴なちゃぶ台返しに、テトは抗議の声を上げた。


「なんかずるいそれ!」


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あのとき育てていただいた黒猫です。2の書影
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