あのとき育てていただいた黒猫です。
第一匹 そんな君に、ホットミルクを ⑤
「どっちにしても人間はいつだってお風呂に入らなきゃダメなの! 綺麗にしなきゃなの!」
「瑠璃香、なんか絶対隠してるじゃんそれ! なんか裏技あるんでしょ、教えてよ!」
「裏技なんてありません」
こほん、と咳払いを一つ。
瑠璃香はまだ赤い顔のまま、表情だけは繕ってテトの方へ向き直った。
「さ、テトくん。こっちにいらっしゃい?」
一挙に雰囲気が変わって、ニコリと笑う我がお姉様。
まずい。瑠璃香のあの目は本気だ。
テトの中に蓄積された経験値から弾き出された答えは、逃げの一手だった。
「ぼ、僕は元猫なので文化の違いとか価値観の違いとかそーいうので遠慮しときます!」
だっ、と踵を返して走り出す。
しかし、踏み出せたのは、ただの一歩だけ。
「逃げちゃだーめ」
背後から瑠璃香が耳元で囁く。
一瞬で瑠璃香のしなやかな指がテトの手を強かに捕らえていた。間髪入れずに瑠璃香の両腕がテトの身体をぐるりと包む。抱擁の体をした拘束である。
「元猫といえども今は人間じゃない。いい、テトくん? 日本語にはこういう言葉があるの。──郷に
「僕、猫だから人間の言葉わかんなーいにゃ!」
「言葉喋ってるじゃない。何ならバイリンガルじゃない」
ぐいん、と反動が付いて引っ張られる。テトの小さな身体は、その勢いのまま背中から瑠璃香の腕の中に飛び込んだ。ぽふんと、柔らかな感触に受け止められる。
恐る恐る天を仰ぐと、そこには落ちた影の中で満面の笑みを浮かべる瑠璃香の姿があった。
「じゃ、テトくん。一緒にお風呂、入ろっか」
いやにゃぁああああああっ! と真夜中のマンションにテトの悲鳴が響き渡った。
それから数刻後。
ところ変わって脱衣所。
そこには両手で袂を握って身体を丸めるテトと、その背後から優しく、それでいて断固として着物を脱がせようとする瑠璃香の姿があった。
「ほら、テトくん。手を離して? 脱がせられないじゃない」
「じ、じじじ、自分で脱ぐから。………………五年後くらいに」
「猫にとっての四半世紀をそんなことに費やさないの」
すると、不意に瑠璃香はテトの耳の後ろに鼻をあてて、スンスンと嗅ぐ。
「テトくん、ちょっとだけ埃くさいね。汗のにおいもする。やっぱりよく洗い流さないと」
「大丈夫、僕、自分で舐めて綺麗にできるし」
「人間はそんなことしたら病気になっちゃうからダメです」
「瑠璃香のことも舐めて綺麗にしてあげよっか? そしたらお風呂、いらないよね?」
「そ、それもダメよ、テトくん。今のテトくんにそんなことをさせたら、おねーちゃんが捕まっちゃうというか、いけない感じになっちゃうというか……」
「捕まる?」
「な、なんでもないわ。とにかくお風呂に入るのっ」
そんな攻防の末、当然テトが瑠璃香に抗えるはずもなく、三重になっていた着物をするすると脱がされてしまう。残る着物も一枚だ。
「うー、さむいよ瑠璃香ぁ〜〜……」
「いまわたしも服脱いじゃうからちょっと待っててね。すぐにお湯かぶろうね」
瑠璃香は服をんしょ、と手早く脱いでいく。その動きを目で追いながら、瑠璃香の全身をくまなく探してみる。しかし、瑠璃香の身体には頭部以外の毛髪がまったく見当たらなかった。
目に入るのは滑らかで生命力に溢れた肌艶のみ。頭とは別の場所に毛が生えるというのは年齢的にもっと後のことなのだろうか。軽い絶望感がやってくる。
瑠璃香の裸体を眺めながら、そんなことを考えていた、その時だった。
ふと、瑠璃香が言葉をこぼす。
「……実は憧れてたのよね。家族と一緒にお風呂に入ることに」
「…………」
テトは袂を掴む拳の力を抜いた。
瑠璃香を見上げる。彼女は寂しい色の瞳で、どこか遠くを見ていた。
おそらく瑠璃香自身、自分が声を発していたことに気づいていないだろう。
瑠璃香の一家、泉家は決して家族仲が悪いわけではない。むしろ
そんなわけで、瑠璃香は昔から一人で過ごすことがほとんどだった。
現に今も、彼女の両親は姿を見せない。これが泉家の普通であり、日常なのだ。
「……っ」
テトは立ち上がると、勢いよく帯をほどいた。
そして、まるで脱皮を果たす蝶のように、最後の一枚の着物から裸体を引き出す。
「テトくん?」
我に返った瑠璃香が、驚きの声をあげる。
しかし、その時にはすでにテトは瑠璃香と同様、一糸纏わぬ姿になっていた。
テトは両の拳を握りながら瑠璃香の目を真っ直ぐに見る。
「僕、入る」
「入るって、どこに?」
「……お風呂」
しばらく沈黙が広がった後、瑠璃香の表情に嬉しそうな笑みが広がっていった。
ゴシゴシと。
わしゃわしゃと。
泡立つ小気味のいい音と、瑠璃香の鼻歌が風呂場に間延びして響く。
テトは今、風呂場の椅子に座りながら、後ろから瑠璃香に頭を洗ってもらっていた。
「かゆいところはないですかー?」
「る、瑠璃香、そ、そこっ、くすぐったいよ」
「ここ?」
「う、うひひ……っ。ちょ、ちょっと瑠璃香! そこはダメだってくすぐったいから……ふ、ふふふっ!」
「人間になっても耳の周りが敏感なのは変わらないのねえ〜」
「る、瑠璃香、あそんでるでしょ!」
「ふふ、バレちゃった?」
存外、水は何とか浴びられる程度には平気だった。
恐怖こそ未だ強く残るが、本能的で反射的な忌避感は意外にも消えていた。
だが、湯船に張られたお湯は別だ。
あそこに身体を沈めるだなんて、自殺行為としか考えられない。
「…………」
身震いしたテトは、視線を湯船から引き剥がす。
すると、不意に目の前の銀色の板が目に入った。
テトはこの板が嫌いだった。
覗き込むと、いつも自分に似た猫がこちらをじっと見つめてくるからだ。しかも、その猫はいつだってテトの動きを真似っこしてくる憎いやつである。好きになれるはずがなかった。
「……?」
しかし、今覗き込むとどうだろう。
そこには猫の姿はなく、代わりに小さな人間の子供が座っているだけだった。
それも紫色の瞳を持った、不可思議な少年だ。
すると、その少年の後ろに、ヒョイっと瑠璃香の顔が映り──
「鏡をそんなに見てどうしたのテトくん?」
耳元──顔の横という意味だ、上ではない──で瑠璃香がそう言った。
テトは板を指さして言う。
「この中からあいつがじっと僕のことを見てくるんだ。猫だった時もだけど、今もそう。あいつ誰? 僕、嫌い」
「あいつ?」
瑠璃香は首を傾げると、テトの横から腕を伸ばして鏡の表面を拭った。
「ふ、ふふふ。そういうことね」
瑠璃香は笑って、テトの髪に沈めた指を再び動かし始めた。
「これはね、鏡っていうのよ」
「〝かがみ〟……? そういえば、瑠璃香たちがそう呼んでいたっけ……」
「あら。やっぱりテトくん、わたしたちの言葉分かってたんだ」
「まあね」
「大丈夫よテトくん。ここに映っているのはテトくん自身だから。別の誰かじゃないの」
「僕、自身……?」
テトは口をあんぐり開けた。
鏡に向き直って、右手を上げてみる。あいつも右側の手……左手を上げた。今度は逆の手を上げてみる。あいつは両手を上げた状態になった。頬を膨らます。あいつも頬を膨らます。
鏡の中の瑠璃香が笑った。テトの耳横でも、瑠璃香がくすりと笑う声が聞こえた。
テトは瑠璃香をキラキラした目で振り返る。
「これ、今の僕の姿なのか! すっごいねこれ!」
「そうね、すごいわよね」
瑠璃香は微笑みながらテトの頭をくしゃくしゃに撫でた。
それから耳の後ろや眉の上など、細かに瑠璃香が洗ってくれる。



