あのとき育てていただいた黒猫です。

第一匹 そんな君に、ホットミルクを ⑥

「そっか〜。これが人間になった僕なのか」

「かっこよくて可愛いわね。テトくんは自分の人間の姿をどう思う?」

「う〜ん。……まあ、悪くない、かな?」

「そういえばテトくん、目の色がいつの間にか紫色になっているけど……これって猫又になったことと関係しているの?」

「さあ……? 言われてみればほんとだ。僕も今気づいた。なんでだろ、よくわかんないや」

「宝石みたいで綺麗ね」

「そう?」


 テトはその間、ずっと鏡の中の自分を眺めながら瑠璃香にされるがままに洗われていた。

 鏡の中のテトは、心底心地良さそうな表情を浮かべていた。

 洗髪の後は、同様に身体も洗われた。指と指の間、腕や膝の関節の裏など隅々に至るまで。

 細かいところにスポンジが当たるたびにくすぐったくて笑ってしまったが、その都度テトの身体が逃げないように瑠璃香が捕らえてくるので、ある種のお仕置きのようだった。

 それから、瑠璃香が手早く自分の髪や身体を洗うと、いよいよ湯船に入ることになる。

 テトは揺れる湯船の水面を恐る恐る覗き込んだ。


「……ね、瑠璃香。ほんとうにお湯に入らなきゃだめ? 僕、もうピカピカに綺麗になったよ?」

「だーめ。身体がまだ冷えてるもの。あったかくしないと」


 瑠璃香はそう言うと、先に湯船に足を入れて、そのまま身を沈めた。

 ざぶん、と音を立ててお湯が湯船の外に溢れる。

 瑠璃香はテトの方に両手を伸ばした。


「大丈夫、おねーちゃんがいるから。怖くないよ、テトくん。おいで?」

「う〜〜〜〜〜〜っ」


 一歩、二歩と近づくだけで心臓がうるさく跳ねる。頭の中が真っ白になる。

 そうしてテトが目を回しながら瑠璃香の手を取った、その瞬間──

 ぽんっ、とテトの頭上に猫耳が出現した。


「あっ」

「へ!?」


 瑠璃香、そしてテトの順に声を漏らす。テトは涙目になりながら慌てた。


「な、なんで!?」

「あらあら。猫ちゃんの本能が出ちゃったのかな。……今日はお風呂入るの、やめとく?」

「〜〜〜〜〜っ、入る!」


 ままよ! と湯船の縁を跨いで足を入れる。


「あつっ!」


 鳥肌が一気に広がる。こんなに熱いお湯の中に瑠璃香は身を沈めているのか。


「テトくん、ほらおねーちゃんの方に倒れるように座って。大丈夫だから」


 振り返ると、瑠璃香が笑顔でテトの身体に腕を回していた。

 テトは導かれるままに、瑠璃香の膝の上に座るように身をお湯に沈めた。


「ふ、ぁああああぁぁっ」


 思わず声が漏れた。

 そんなテトを後ろから瑠璃香が包み込むように迎えて支える。背中で潰れる柔らかな感触が二つ。瑠璃香の肌はスベスベしており、湯船の温もりも相まって、こうして触れているだけで身も心も溶けていくようだった。

 瑠璃香は時折頬に当たるテトの猫耳がこそばゆいようで、小さく笑う。


「ふふふ、くすぐったいわ、テトくん」

「あ、後で引っ込めるから……今は、むり……」

「全然、いつでも大丈夫よ。それで、お風呂はどう?」

「熱い、熱いけど……なんか気持ちいい…………」

「よかった、気に入ってくれたみたいね」

「気に入って、なんか……」


 人間はつくづく分からない。

 それでもなるほど、身体の芯から温まるこの感覚は、ちょっとだけ悪くないと思えた。

 

 

 湯船から上がると、瑠璃香は一層テトの面倒を見た。

 まず、瑠璃香は水滴ひとつ残さずにテトの身体をバスタオルで丁寧に拭き、そのあとは自分の髪を乾かすのもそっちのけでテトの黒髪にドライヤーを当てた。

 服は瑠璃香が前に通っていた学校のジャージを着せられた。

 今は〝高校〟に通っているらしく、〝中学〟のこのジャージは使っていないのだそうだ。

 学校とは人間の子供たちを集めて一斉に教育を施す場所のことだ。何度か家を抜け出して瑠璃香の通う学校を見に行ったことがあったが、フェンスに囲まれた不気味な施設だった。

 人間は不思議な生き物だ。自ら好き好んで檻の中へと入り、一日の大半を過ごすのだから。

 そんなこんなで髪を乾かし終えると、これでようやく寝るのかと思いきや、次に瑠璃香はテトの歯を磨き始めた。

 テトは歯磨き粉の味が嫌いだった。鼻にツンとくるミントの香りと、妙に舌に残る甘ったるい味が苦手だった。磨いているはずなのに汚されている気分である。


「……この味、きらい。僕、〝歯磨き〟はいいや」

「だ〜め。ちゃんと磨かなきゃ虫歯になっちゃうよ? 今度、味のしない歯磨き粉、買ってきてあげるから」

「うううう〜〜〜、人間ってなんで面倒くさいことが好きなの」

「毎日、気持ちよく元気に過ごせるようにするために大事なことなのよ」


 そう言ってテトの口の中に歯ブラシを突っ込んで、歯列のひとつ一つを隅々に至るまで磨いた。それが妙にくすぐったくてテトはジタバタ足掻いたが、瑠璃香に後ろからぎゅっと抱きつかれて逃げることも叶わず、されるがまま磨かれた。

 そうして全ての人間の〝行事〟が終わった頃には、真夜中をとっくに過ぎていた。


「じゃ、テトくん。そろそろ寝よっか」

「ふぁあ、ふ……。うん……」


 テトはもう眠くて眠くて意識が半分、夢の中へと溶けていた。

 テトは大きくあくびをかこうとしたが、その度に失敗して気持ちが悪かった。

 人間には頬があって、それがあくびをするのに邪魔なのだ。やっぱり人の身体は不便だ。

 そう思いながらテトは瑠璃香に手を引かれるまま室内を横断する。

 そうして連れて行かれたのは、瑠璃香の自室だった。

 瑠璃香は先にベッドに入って奥に身体をずらす。そして、布団を半分捲ると、テトに向かって手招きをする。服から覗く瑠璃香の肌は、風呂上がりの熱を帯びて火照っていた。


「ほらテトくん、こっちおいで」


 テトはしばらくその場で立ち止まっていた。

 なぜなら、これまで瑠璃香の部屋は基本的に立ち入り禁止だったからだ。昔、部屋の壁紙をテトが爪研ぎでボロボロにして、ベッドの羽毛布団を引き裂いて部屋中を羽根まみれにしたことがあったのが原因である。あの時はまるで天使が舞い降りたかのような神秘的な光景だった。


「その……いいの?」


 テトが気遣わしげに聞くと、瑠璃香は満面の笑みを浮かべて頷いた。


「あの頃は引っ掻いちゃうと思ってダメって言ってたけど……今は大丈夫だもんね?」


 瑠璃香がそう尋ねてくるので、テトは必死に首を縦に振った。

 瑠璃香と一緒に寝られる!

 テトの頭の中は、そのことでいっぱいになった。


「テトくん、こっちにおいで」


 もう一度、瑠璃香は言った。

 テトはその言葉をきっかけに、吸い寄せられるように毛布の間にいそいそと潜り込んだ。毛布の中はまだひんやりとしていたが、瑠璃香の匂いでいっぱいだった。


「本当は昔もテトくんと一緒に寝たかったんだけど、わたしが寝返りをうってテトくんを潰しちゃったら危ないから、できなかったんだ」

「そ、そうなんだ」


 瑠璃香は横向きになると、テトの首の下に右腕を置いて、反対側の手をテトの背中に回した。

 温かい。毛布だけでなく、瑠璃香にも包まれているようだ。

 瑠璃香はテトの髪の毛に鼻を当てて、ゆっくりと深呼吸した。


「やっぱり、夢みたい」

「……そうだね、僕もだよ」

「……わたし、まだね、信じられないの。こうしてテトくんがわたしの前に現れて、しかも男の子の姿で、言葉が喋れるだなんて。幸せすぎて、寝るのが怖いの。夢から覚めてしまうんじゃないかって、そう思っちゃうの」

「瑠璃香……」


 テトは瑠璃香の身体に腕を回して、ぎゅう、と力の限り抱きしめた。


「大丈夫だよ。夢みたいだけど、夢じゃない。僕、明日もいるよ」


 そういうと、瑠璃香は微笑んでテトの頭を優しく撫でた。


「そうだね、ありがとうテトくん」


 テトはそれきり抗い難い睡魔がやってきて、瑠璃香の腕の中で眠りに落ちていった──

 


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