あのとき育てていただいた黒猫です。

幕間 猫の夜会 ①

 ──眠りに落ちていった、はずだった。

 しかし、コンコン、と。ガラス窓を叩く音に目が覚める。


「……?」


 石がぶつかるにしては音が軽い。枝葉がぶつかるにしては音が丸い。

 ともすれば何か。つまり、誰かが叩いているということだ。


「……っ」


 テトは瞼を持ち上げて耳をそば立てた。音は続く。コンコンと。

 隣を見ると、瑠璃香が平和な寝息を立てて熟睡していた。しかし、この音が続いては彼女が目を覚ましてしまうのも時間の問題だろう。できることなら、彼女の快眠を邪魔したくない。

 テトは音もなく掛け布団の合間から滑るようにして這い出ると、件の音源へと忍び寄った。

 そっとカーテンを開ける。

 差し込む月光に目が眩み、眼を細めた。

 異様な夜だった。

 桜のように舞い散る白雪の向こうで、雲間から爛々と覗く銀色の満月。

 そんな夜を背に佇んでいたのは、一匹の純白の猫だった。

 首輪に付けられた異国のメダルがきらりと光る。


「…………っ」


 白猫は右の肉球でガラス窓を再度叩いた。


「う、ん……」


 テトは瑠璃香を振り返る。彼女が一瞬みじろいだのだ。しかし、起き出す様子はない。

 逡巡の末、テトは窓のロックを外し、横へ引いた。

 雪片とともに舞い込んできた風が足元を掬う。微かに香水の匂いがした。


『ごきげんよう、テト』


 開口一番、眩しいほどに純白の雌猫は、芝居がかった仕草でそう鳴いた。

 テトは極力、声量を抑えて鳴き返す。


『こんばんは、レイラ。……君にとっては、久しぶり、って言うべきかな』


 案外、すんなり猫の言葉が口から出てきて安心した。

 白猫は値踏みするように上目遣いでテトを見上げる。


『……貴方、本当に猫又になりましたのね。後ろ足で歩いているその様、人間のようで非常に愚かしいですわ。わたくしの前ではやめてくださる?』

『人間はこうするもんなの。……それよりもどうやって知ったの? その、僕が猫又になったってこと』

『すでに噂は隣町にまで及んでいますわ。七旗に、また猫又が現れた、と』

『〝また〟?』

『何でもありませんわ』


 白猫は確かにしまった、という表情をして顔を背けた。

 つい数刻前、瑠璃香が見せたあの表情と同じだった。


『でも今、また現れた、って言ったよね』

『間違いなく現れた、と言いましたわ』

『絶対違う』

『違いません』

『しかもその噂だけじゃ僕が猫又になったってわかるわけじゃないよね?』

『知りません』

『僕が猫又の姿になったのは神社とこの家の中だけだし──』 

 テトは一つ思いつき、反射的に口走る。


『あ、もしかして、ずっと僕たちの部屋の中の様子を見ていたとか?』

『……っ! ま、まさかそんなわけないでしょう!』


 ちなみに、レイラはこのマンションの最上階に住んでいるご近所さんだ。すごいのが、このマンションの最上階は全フロアぶち抜きで、その広大な面積全てがレイラの住む家になっているのだ。レイラがなぜか嫌がるので結局、彼女の家を訪ねたことはないが、逆にレイラは昔からよくこうしてテトの家にやってきていた。


『そうだよね、ごめんレイラ。僕が死んでから二年も経っているんだし、それじゃ毎日この家の様子を見に来ていたことになるもんね』

『…………』

『そもそも猫又になる可能性なんて万に一つも本来はないはずなんだしこの部屋に来る理由もないもんね』

『……………………』

『そしたらまるでストーカーさんみたいだもんね』

『(怒)』


 シャアッ! と瞬間、レイラは牙を剥き、テトの顔に猫パンチをかました。


『いったぁ!! 何すんのさ!』

『何でもありませんわ』

『絶対何でもあるじゃんそれ!』


 しかし何度尋ねてもレイラは口を開こうとしなかった。この昔馴染の純白の猫は頑固なことで有名だ。こうなってはテコでも動かない。テトは今のことを頭の隅に留めておくことにして、別の質問を投げた。というより本題に入った。


『……それで、こんな夜更けに何の用?』


 すると、白猫──改めレイラはくすくすと笑った。


『それは新しいジョークですの? 夜は猫の世界。用事があるとすれば、伺うのは当然夜でしょう? そして何の用件かは、貴方はすでにわかっているはず。わざわざそれを尋ねるのはナンセンスですわよ』


 テトは嘆息した。


『……もしかして、夜会サロン?』


 白猫は頷いた。


『言っておきますけど、貴方に拒否権はなくてよ?』

『どうして』


 レイラは尻尾を左から右に振る。


『そんなの、わかりきっていることでしょう?』

『……僕が猫又になったからかい』

『自惚れはよしてくださいませ。理由はただ一つ。──貴方が猫だからですわ』


 白猫はやれやれと言った様子で嘆息した。


『猫又とはいえ猫は猫。貴方の魂が猫としてここにある、その事実だけが重要なのですわ。そうである以上、夜会サロンに参加するのは当たり前のことではなくて?』

『……僕いま、瑠璃香と寝ているんだけど』

『貴方のご主人様は貴方なしでもご快眠のご様子よ』


 振り返ると、確かに笑ってしまいそうになるほど平和な寝息がベッドの上から聞こえてくる。

 しかし、だからこそあの心地よさげに寝る瑠璃香の隣にいたいと思う。


夜会サロン、か……。まあ、確かにあそこならみんなに相談することもできるか……』

『相談?』

『いや……』


 テトは唸った。

 猫の夜会サロン・ノクチュルヌ

 どこかの海外崩れの猫が命名したそれは、猫の猫による猫のための互助会である。ただしあくまでそれは喩えであって、実態は縄張りを尊ぶ猫という生き物同士が、不要な衝突を避けるために設けた交流の場、という意味合いが強い。

 仲間とだべるのは嫌いではないが、瑠璃香との睡眠を天秤にかけたら結果は明白。普段のテトであれば躊躇なく後者を選ぶことだろう。

 しかし、恩返し、という行動についてのヒントを得られていないテトにとって、この夜会サロンの存在はかつてないほど魅力的に見えた。

 テトは悩んだ。

 瑠璃香との快眠か、あるいは夜会への出頭か。


『返事が遅いですわ』


 しかし、思考の波を破る声があった。

 同時、レイラがテトの脇をすり抜ける。

 彼女はしなやかな体躯を弾ませてベッドに登ると、前足で瑠璃香の髪の毛をそっと摘んだ。


『ねえ、貴方が行くって言うまで、この髪の毛くるくるにしちゃいますわよ?』


 レイラはくすくすと悪い笑みを浮かべながら、前足で器用に瑠璃香の髪を巻き始める。


『ちょ、ちょっとレイラ!? 何してんのさ!』

『くるくるのモジャモジャヘアーになったら、ご主人の美しさが台無しですわねぇ』

『……くるくるカールになった瑠璃香は、それはそれで綺麗、かも?』

『………………』


 ぴたりと前足を止めるレイラ。

 不機嫌な顔になった彼女は、すぐさま巻いていた瑠璃香の髪から前足を離した。


『では、ご主人の髪の毛を絶対に解けないくらいぐちゃぐちゃに結んでしまいますわよ』

『そ、それは、困るよ』

『でしょう? それで、お返事は?』


 天を仰ぐ。どうやら他に選択肢はなさそうだ。

 テトは大きく息を吐いた。


『……わかった。行くよ』

『最初からそう仰ればいいのですわ』


 レイラはふんっ、と鼻を鳴らし、しなやかにテトの前に飛び降りる。

 その瞳はどこか満足げだった。


『それにしても、そんなにこの人間が大事ですのね』

『大事だよ。当然じゃないか。だって僕のご主人なんだから』

『当然、ね』


 レイラは何やらそう言い含めたが、視線をテトから外してしまったのでそれ以上聞くことができなかった。ただ、彼女の動きに合わせて首輪のメダルが澄んだ金音を立てるが、それがやけに寂しげに響いた。


『行きますわよ』


 テトは頷き、ベランダへ出る。そして後ろ手に扉をそっと閉めた。


刊行シリーズ

あのとき育てていただいた黒猫です。2の書影
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