あのとき育てていただいた黒猫です。2

プロローグ わたくしは白猫である。

 化けて出る、とはなんと幸せなことでしょうか。

 一度死んだらもうおしまい。

 それがこの世の摂理です。

 だが、そのルールを破る存在がいます。

 それも、ごく少数などではなく、結構な数がいます。

 その存在は時に幽霊と呼ばれ、時に怪物と呼ばれ、時に妖怪と呼ばれました。

 きっと、彼らはルールを破っているのではなく、我々生者が知らないルールが存在しているだけなのでしょう。そうでなければ説明がつかない事象がこの世界には多すぎます。

 決して悪魔の証明をしたいわけではありませんが──説明ができないということはなにも、ソレが存在しないことの証明にはならないのです。

 事実、わたくしは見ました。

 輪廻転生の理から外れて化けた猫──猫又を。

 死後も記憶を保っていて。

 人の姿に化けることができて。

 何より人の言葉を操って飼い主と会話し笑い合うことができる、猫。

 そう──猫又は、人の言葉を喋ることができたのです。



「はよ〜、れいたむ。今日は早起きさんだな」


 早朝。

 一晩中、鳴り続けたキーボードの音が止み、少し経った頃。

 長い廊下の暗闇から、細身の少女が寝ぼけ眼をこすりながら現れました。


『……おはようございます』


 にゃあ、と。

 定位置であるソファーの中央に座っていたわたくしは、首だけ持ち上げて気怠げに返します。

 まだ夜は明けていません。

 カーテンの隙間から見える空は、ようやく白ばみ始めたといったところです。

 その少女──わたくしのご主人は大きな欠伸をしながら、キッチンに入って冷蔵庫の中を物色します。

 わたくしもご主人に悟られないように欠伸を一つかきました。

 わざわざ彼女の就寝を待っていたと思い違いされるのが嫌だからです。

 別に今わたくしがここにいるのは普段から寝つきが悪く、気分転換にリビングに来ていただけで、彼女を待っていたとかそんな意図は皆目ないのです。

 ……だから勘違いしないでくださる?

 本当は今にもご主人の腕の中に飛び込みたいとか、全くそんなことは思っていないのですから。


「そういや、この時間に部屋から出てきているの、珍しいなれいたむ。どうした?」


 すると、ミネラルウォーターのペットボトルを片手にキッチンから現れたご主人が尋ねてきます。


「さては腹減り? サバ缶食う?」


 違いますわ。

 と、心の中で首を振ります。

 ……わたくしが今欲しいのはサバ缶ではなく、貴女のひと撫でですのに。


「……んー、腹が減ってるわけじゃねえか。昼寝し過ぎて、うまく寝れなかったか?」


 じろ、とご主人の少女を睨み上げます。

 きっと、今わたくしの尻尾は後ろでバサバサと不機嫌に右往左往していることでしょう。


『……はあ』


 ままなりません。

 長い時を経て人の言葉のほとんどが分かるようになっても。

 人間が猫の言葉を理解する日はやってこないのです。


「んじゃ、あたしはこれから仮眠するな」


 すると、ぬっと影が落ちます。

 そしてご主人の端正な顔が近づき──


『へ?』

「おやすみのれいたむ吸い、だ」


 腹に顔を突っ込まれ、思い切り吸われました。


『きゃぁああああああああああああああぁっ!!』

「すぅ〜〜〜〜〜〜〜…………、はぁあ〜〜〜〜〜…………。……はあ、これで今日溶かし負けた分の痛みが消えるぜ」

『お、乙女に、なんて、ことを……』


 ぐで、とソファーの上で伸びていると。

 ちゅ、と。不意に額に口付けされます。


「んじゃ、おやすみれいたむ」

『………………………………おやすみなさいませ』


 やはりままならなりません。

 口付けでなく、ただ手のひらの温もりを感じるだけでよかったのに。

 足音が去っていきます。

 何時間と待っていても、これだけのやり取りしかできません。

 もちろんわかっております。

 ご主人は忙しい。

 しかし、その忙しさを取っても、彼女とのやりとりはあまりにも短い。

 いや、そもそも会話にすらなっていません。

 会話の真似事をしているだけで、実態としてはお互いがお互いにそれらしいことを喋っているだけです。

 何度逆立ちしたとしても叶わぬ果てなき夢。

 ──話したい。

 ただ、あの少女と言葉を交わしたい。

 それだけでいいのに。それだけがしたいのに。

 そのささやかな夢でさえ叶うことはない。

 だが、

 つまり何が言いたいかというと。










 ──わたくしレイラは、テトが妬ましかったのです。

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あのとき育てていただいた黒猫です。2の書影
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