あのとき育てていただいた黒猫です。2
第一匹 そんな君に、外の世界を ①
朝。目が覚める。隣で少女が無防備な姿で眠りこけていた。
どうやって起こそうか。肩を揺する? 頬をこねる? あるいは──鼻先を舐める?
そう考える楽しみは、一番に早起きした者の特権だ。
ベッドの上で両腕をピンと前に伸ばし、思い切り背筋を反らしながら。
「ふあぁ……。──あっ」
大きくあくびを一つする。
すると、頭上と尾部に膨らみを覚えた。ヒトのものではない、ケモノのそれだ。
二股に分かれた尻尾を機嫌良く左右に振りながら、少女に馬乗りになる。
見下ろす。相変わらず暑がりな彼女は、四月の終わりに差し掛かって陽気が増したことで、ますますパジャマを肌けさせていた。
長いまつ毛に、桃色の唇。透き通るような白の肌に、整った目鼻立ち。
その姿をしばし堪能した後、いよいよ顔を近づける。
そして──少女の鼻を啄んだ。
「ふみゅっ」
がばり、と少女が起きるのと同時、さっと身をかわす。
少女は眠気眼のまま首をぐるりと回すと、こちらの姿を見咎めた。
「テ〜〜〜ト〜〜〜〜〜く〜〜〜〜〜んっ。その起こし方はびっくりしちゃうからダメって言ってるじゃない〜」
「だってこれが一番、瑠璃香がすぐ起きるんだもん」
少女はわざと頬を膨らませて飛びかかってくる。
されるがままに抱きしめられると、そのまま彼女の頬に自分の頬を擦り付けた。
そしてひとしきり笑ってから、二人は顔を見合わせて言った。
「おはよ、瑠璃香」
「おはよう、テトくん」
新しい一日が始まる。
四月の下旬。日曜日。
寒波が顔を引っ込め、代わりに陽気な太陽が幅を利かせるようになり始めた頃。
一人の少年が玄関で腰を下ろした。
齢十ほどの小さな身体に、細い四肢。少し癖っ毛のある真っ黒な髪の毛はつやつやのさらさらだ。顔は小ぶりで、中性的な顔立ちは少女にも見えるが、れっきとした
だが、彼はただの少年ではなかった。
なぜならその頭頂部には本来人間には存在しないはずの一対の獣の耳がぴこぴこと動いて存在感を露わにしており、短パンが見え隠れするパーカーの裾からは二本の毛並みのいい漆黒の尻尾が伸びていた。
その少年はかつてとある少女の飼い猫であり、天寿を全うしながらも強い後悔で成仏できなかった黒猫。そしてとある女性の手助けによって現界し、現在は人間の姿に化けている猫又。
猫又のテトである。
テトは靴を履き始める。
先日、ショッピングモールで瑠璃香と一緒に買った、黒と水色のスニーカーだ。
そんなテトを、心配そうな顔で後ろから見守る少女が一人。
テトの飼い主である姉のようで母のようで友人のようである少女、瑠璃香である。
「……………………テトくん、本当に一人で大丈夫?」
テトはスニーカーのマジックテープを留めて、瑠璃香を振り返る。
「大丈夫だって、瑠璃香。前にも言ってるでしょ? この辺の街のことは、多分瑠璃香よりも僕の方が詳しいんだから」
「で、でも、車とか危ないし、テトくん、小柄だし……そ、そう、突然躓いて転んだりなんかしちゃったら!」
「何もないところで転ぶのは瑠璃香でしょ」
「ううっ。でもでも……」
「すぐ帰ってくるから大丈夫だって! それに、僕くらいの子供の人間だって、大勢一人で街を歩いてるじゃん。学校っていうところにも一人で毎日通っているんでしょ?」
「そ、それはそうだけど……」
瑠璃香は不安そうに表情を曇らせたまましゃがむと、テトをギュッと抱きしめた。
「ごめんね。今日はクラスのお友達たちとお出かけする約束が入っちゃってて」
「大丈夫だよ、瑠璃香は瑠璃香の予定を大事にして」
「テトくん……」
今日、瑠璃香は学校の友人たちと街に繰り出して遊びに行く用事があった。
いつもであれば一人留守番をしているテトなのであるが──しかし、今日はテトもまた外出する必要があった。というのも──
「本当は私も一緒について行って、ご挨拶できたらよかったんだけど」
「挨拶ならこの前、一緒にしに行ったばっかりだから大丈夫だよ。それよりもススキ様、これのことすっごい楽しみにしてたから早く持っていってあげたいんだ」
九尾とツンと尖った二本の耳が特徴的な、狐の化身──ススキ様。
七旗神社を住まいにする彼女は、テトが成仏できずに霊として彷徨っていたところを、猫又として現界できるよう手助けをしてくれた件の女性その人である。
テトは今日、そのススキ様に相談したいことがあったのだ。
「何かあっても連絡も取れないし、本当に大丈夫かな……やっぱりキッズ携帯は最低限ないと怖いし……」
「瑠璃香、心配しすぎ! 僕なんかこれまで何十回も何百回もベランダから外に行って、帰ってきてるんだから。今更だよ」
「へ? ベランダから?」
「あっ」
瞬間、瑠璃香の表情が曇る。
そしてどこか陰のある笑顔を浮かべた。
「…………テ〜ト〜く〜ん〜? ちょ〜っと今のお話、詳しく教えてもらおっかな〜? ベランダから外に行って帰ってきているってどういうことかな?」
「ぼ、僕、そろそろ行かなきゃ!」
危機を察したテトはするりと瑠璃香の腕の中から滑り抜けると、そのまま玄関へと走った。
「あっ、テトくんっ! 鍵はちゃんと持ったの!?」
「ある! 大丈夫!」
テトは紙袋を掴むと、そのまま玄関の外へと飛び出した。
「車に気をつけるのよ! あんまり遅くならないように……あとススキ様に失礼の無いようにね!」
「わかってるって!」
玄関から顔を出して見送ってくる瑠璃香。
テトは彼女に手を振りながら、ちょうど来ていたエレベーターを呼んで、鉄の籠へと駆け込んだ。
正午に差し掛かろうとしている太陽の下。
春の終わりに差し掛かかっているのか、青空と草花の色彩や、日向と日陰のコントラストが強まっている。猫の姿に戻って日中に抜け出すこともままあるが、やはり人間の姿で外出するのは格別の開放感がある。
神社まで辿る山道の入り口は生活道路の一角に位置している。
寂れているわけではないが、決して栄えているとも言えない絶妙な存在感。
日常的に訪れているテトでさえ、幾度となくその入り口を見失いそうになる。
きっと、これも妖術の一種なのだろう。
「あった……よかった、今日は一発で見つけられた」
ところどころ塗装の剥げている鳥居の一つ目をくぐる。
その向こうには二つ目の鳥居が、そのさらに次にも鳥居が鎮座する。そんな具合で、山道に沿ってずらりと幾百もの鳥居が並ぶ様は、朱色のトンネルのようである。
石造りの階段を一歩上ると空気が変わり、二歩上ると音が変わった。三歩目にはすでにそこは異界の様相。
そのままどんどん上っていく。黙々と登る。
百段なのか二百段なのか、はたまたそれ以上なのか。
未だ正確に数えたことはないが、とにかく決して少なくない段数を登らないと神社には辿り着かない。
体力には自信のあるテトであるが、この道を登る時は息が上がって汗をかく。
そうしていよいよ立ち止まって休みたくなってきた頃。
「────」
一陣の風とともに、無数の鈴音の連なりが清涼に響き渡った。
再び空気が変わる。
どこか張り詰めていた山の匂いが、穏やかで心安らぐ香りへと変貌する。
最後の数段を勢いよく登りきると、視界が一気に開けた。
正面に鎮座するのは神社の本殿。
こぢんまり収まりながらも、堂々たる威風はその主人の格の高さを伺わせる。
そしてテトのことを真っ先に見つけて出迎えてくれるのは、いつもの飄々としたる狐耳の妖艶なお姉さん──ではなかった。
「あら……? あまり見かけない、ずいぶんと可愛らしいお客様ですね〜」
「──へ?」
お姉さん。その表現に間違いはなかった。
しかし、よく見知ったお狐様では間違ってもなかった。
九尾の尻尾もなければ、ふさふさに整えられた狐の耳もない。



