あのとき育てていただいた黒猫です。2
第一匹 そんな君に、外の世界を ②
十二単だか何だかよくわからない着物に身を包んでいるわけでもない。
その本殿の石階段に座っていたのは、人間のお姉さんだった。
「…………人間、だ」
美人だった。おそらく人間の大人、であろう。それでも若い。年齢で言えば、瑠璃香とそう大差ないように見える。
ミルキーホワイトの髪を後ろで纏めてくるくるに巻いている。大粒の瞳は垂れ目で泣きぼくろがあり、優しい雰囲気を醸し出している。座っているためはっきりとはわからないが、瑠璃香よりは身長が大きそうだ。もしかしたら結羅よりも大きいかもしれない。
しかし、大きいと言えば、彼女の胸元はすごかった。
筆舌に尽くしがたい威容を誇るススキ様すらも超えるサイズなのは間違いないだろう。日常生活に支障がないか心配になるレベルである。
そのお姉さんは休憩中だったのか、何かお弁当のようなものを食べているようで、手元にあるものと同じ空容器がすぐ隣に山積みにされていた。見ればお弁当の中身は全て葉物のようである。……サラダがずいぶんと好きな人のようだ。
「えっと……」
テトは立ち止まって来た道を振り返る。
そこにはいつも通りの鬱蒼と茂った山道と、無数の小さな鳥居が並んでいる。
正面を再び見る。こちらも変わらない。
テトは動揺が隠せないまま、震えた声で人間のお姉さんに尋ねた。
「……あの、ここって七旗神社で合っていますか?」
「合っていますよ〜。もしかして、迷子になっちゃいましたか?」
お姉さんは手元の弁当箱から野菜を箸で一掴みし頬張ると、空になったそれを横の空容器でできたタワーのてっぺんに積み上げた。そして水筒をゴキュゴキュと煽ると、ぷは〜っ、と実に気持ちよく息をつく。
……冷静に考えてみればとんでもない量である。もし、あれが全て弁当容器であり、たった
今食べ終えたものであれば、であるが。何せ、タワーの高さはお姉さんの座高に達しつつある。いくら人間社会に疎いテトでも、あれが異様な量であることはすぐにわかった。
「いえ、別に迷子っていうわけでは、ない……はず、です。けど」
「迷子じゃない子は場所の名前を聞いたりしませんよぉ〜。ほら、こっちに来てください。地図を書いて道を教えてあげますから」
人間のお姉さんは、そう言って柔らかく笑うと手招きする。
近寄るにつれ、お姉さんの姿がはっきりと見えるようになってくる。
着ている服はスーツというやつだろうか。真っ白なワイシャツに、タイトなロングスカートという組み合わせ。スカートから伸びる長い足は肉感が大層強く、デニールの高いタイツに包まれている。ジャケットは脇に置かれていた。
やはり豊乳の主張が激しい。一番上の首元のボタンまで律儀に閉じられているが、それがかえって暴力的なまでの巨大なラインを際立たせている。本人は気づいているのか気づいていないのか、その下の桃色の下着がその形まではっきり見えるほど透けて見えていた。
すると、お姉さんはくすくすと笑い出した。
「ふふ、そんなに警戒しなくて大丈夫ですよぉ。何もキミのこと、取って食べちゃったりしませんから」
「そ、そうですか……?」
立ち止まる。
お姉さんまであと三メートル。しかしその距離も、たったの三歩でゼロになる。
(あれ……この匂い……)
テトは鼻を鳴らした。それはとても芳しくて、テトの大好きな香りだったからだ。
すると、お姉さんはテトの顔を覗き込んだ。
「顔色があまりよくないですね……大丈夫ですか? 疲れちゃいましたか? 体調が悪いようなら、横になった方がいいかもしれませんね〜」
お姉さんは自分のストッキングをパツパツに押しのける太ももを叩く。
膝下丈のタイトスカートから伸びる二本の脚が揺れた。
「ほら、少し寝ると元気になりますよ〜?」
「い、いえ……その、大丈夫です」
確かに気持ちよく昼寝ができそうであったが、今はそれどころではない。
「ここ、他に誰かいませんでしたか?」
「他に? 誰もいませんよぉ〜。かれこれ三十分くらいここでお昼をいただいていますが、参拝にいらしたのはキミだけです」
「そう、ですか……」
テトは顎に手を当てた。
では、ススキ様は一体どこへ行ってしまったのだろうか?
「お姉さんはこんなところで何をしているんですか?」
「私はここで待ち人を待っているんですよぉ〜」
「待ち人?」
「お友達ですぅ〜」
「ふうん……」
テトは辺りをぐるりと一瞥する。
ここで? という言葉は飲み込んだ。
世界は広い。テトが思っているよりも、ずっとずっと。それは以前、瑠璃香とショッピングモールに訪れた時に感じたことだ。世の中にはいろんな生き物がいて、いろんなルールがあって、いろんな生き方がある。
きっとこんな神社で待ち合わせすることも、一部の人間にとっては当たり前の文化なのかもしれない。
「それよりキミ、お名前はなんていうんですか〜? 私は乃々愛と言います」
「……乃々愛さん、ですね」
テトは頷くと、自分の名を名乗る。
「僕の名前はテト。泉テトです」
「泉くんですね、よろしくお願いします。いいお名前ですね」
「あ、ありがとうございます。僕もこの名前、とても気に入っています」
ぞくり、と震えが背筋を走った。
それは悦びの震え。
──泉くん。
それはテトが初めて体験する呼び名だった。
泉。泉瑠璃香。泉テト。
今まで瑠璃香とは当然、家族だと思っていたが、どこか自分でそう思ってしまっているだけのような感覚が付き纏っていた。
しかし、こうして誰か他人に瑠璃香と同じ泉性で呼ばれると──
──ああ、僕、瑠璃香の家族なんだ。
乃々愛と名乗ったお姉さんは微笑むと、肩に掛かった毛先を薙いだ右腕で払う。
瞬間、テトの鼻腔を再びあの魅惑的な匂いが掠めた。
「あ……」
芳醇にして甘美な香り。瑠璃香が幾度となくテトに淹れてくれた香り。
──それすなわち、ミルクの香り。
「ところで乃々愛さんって牛乳、飲むの好きなんですか?」
「え?」
「と、突然ごめんなさい。その……とても美味しそうな匂いがしたから」
しばしの沈黙。
すると、乃々愛は突然目を輝かせて前のめりにテトの肩を掴んだ。
「わ、わかりますか〜?」
「へ!? 乃々愛さんが、牛乳が好きってことですか?」
「違います〜、美味しそうな匂いが、っていうところがです〜っ」
「そ、それは……はい。とても、濃くて、美味しそうな匂いが、すごくします」
「ふ、ふふふ。それは嬉しいですね〜。私の自慢なんです」
「ど、どれがですか? に、匂いがですか?」
「匂いも、です」
「……?」
テトは怪訝に思いながら視線を下ろした。
その匂いの源は乃々愛の口元からしていない。
もっというと、その発生源はもっと下の豊満な──
と、乃々愛は突然、ポンと手のひらを拳で打った。
「──ああ、なるほどですねぇ〜。私、ようやくわかりました」
「へ?」
「だから泉くんはそんなにお鼻がいいんですね〜」
乃々愛の声に、テトは思索の海から一気に引き上げられた。
「話には聞いていましたけど……こんな可愛らしい子だったとは」
「と、突然どうしたんですか?」
そればかりか、乃々愛は突然、空のお弁当箱タワーをカバンにしまい出したかと思えば──妖術を使っているのではないかと疑いたくなるほど、小さなハンドバッグに次々に吸い込まれていく様は圧巻の一言だった──すぐに身支度を調えて立ち上がる。
やはり、ススキ様ほどではないが結羅よりずっと背が高い。
「それじゃあ、私はそろそろお暇しますねぇ〜」
「え!? 人を待っているんじゃなかったんですか!?」
「う〜ん。馬に蹴られて死にたくはないので〜。ああ、死にたくないというより、消えたくない、と言った方がいいですかね〜。そもそも馬というより……いえ、これは蛇足ですね〜」
「??? えっと?」



