あのとき育てていただいた黒猫です。2

第一匹 そんな君に、外の世界を ③

「念のため聞きますけど、泉くんは迷子じゃないんですよね?」

「は、はい。ここが七旗神社なのであれば、迷子じゃないです」


 もしかしたら、ススキ様のいる神社ではない、へ迷い込んでしまった可能性は拭えないが。──もっとも、そんな場所が存在しているかどうかも知らないため、現時点でテトにその可能性を確かめる術はない。

 乃々愛は安心したように笑うと、荷物を抱え直して参道を進む。


「であれば安心です〜。まあ、ここで出会ったということは何かの縁があるということです。また、どこかで会いましょうね、泉くん〜」

「……はい。乃々愛さんもお元気で」


 そうして乃々愛が鳥居の一つ目を潜ろうとした時、テトは慌てて呼び止める。


「あの、乃々愛さん。一つだけ教えてくれますか」


 乃々愛は振り返って、小首を傾げる。


「はい、なんでしょう〜?」

「どうしてここで待ち合わせをしていたんですか?」


 わざわざこんな神社で待ち合わせをするのは、奇妙に感じる。

 すると、乃々愛は可愛らしくウィンクして言った。


「私のお友達が、まだちょっとだけお外に出るのが怖いからですよ〜」




 森がざわざわと揺れていた。まるで生き物のようである。

 テトはさっきまで乃々愛が座っていた本殿の階段に座って、呆然と青空を眺めながら森の声に耳を傾けていた。


「……不思議な人だった」


 人間という生き物について多くのことを知っているわけではないが、どうにも瑠璃香とも結羅とも何かが違うような、そんな気配があった。

 敢えて言えば、これが勘というやつなのだろう。

 しかし、困った。

 てっきりいつもの通り、ここにくればススキ様が出迎えてくれるとばかり思っていたので、会えなかった時にどうすればいいのか全くわからなかった。

 ──もう少し待っても会えなかったら、今日は家に帰ろうか。

 そうして空を眺めていると、程なくして遠くからパタパタと床板を踏む音が聞こえてきた。


「…………。あれ?」


 テトがガバリと勢いよく振り返るのと同時だった。

 本殿の正面の襖が左右に打ち開かれる。

 瞬間。視界いっぱいに黄金の輝きが広がった。


「ぬぁっ!? テ、テト、来ておったのか! 何か物音がすると思ったが、うぬじゃったか」


 ススキ様は、全裸にバスタオルを一枚巻いただけの姿だった。

 どうやら風呂上がりらしい。


「す、ススキ様!? いたんですか!? どうして顔を出してくれなかったんですか!」

「ぬ、ぬう……? おかしいのお……。うぬの妖としての気配をわしが取り逃がすはずもない。うぬが一つの目の鳥居を潜れば立ち所にわかるのじゃが……変じゃのお……」


 そう言って、ススキ様は 凶悪なほどに大きな胸を抱えるようにして腕を組んだ。

 ……乃々愛は大変大きかったが、やはりススキ様のサイズもまた常軌を逸していることを再認識する。


「って違うっ! ス、ススキ様! 流石に何か服は着てくださいっ!」

「な、なんじゃなんじゃ。急にどうしたのじゃ」

「僕が瑠璃香に怒られちゃうんです!」

「ぬう? 一体それはどういう理屈じゃ」

「えっと……」


 テトは思い返す。

 最近、瑠璃香と交わした会話だ。

 当時、瑠璃香に人の裸を見ることについて指南されたのだ。

 具体的には入浴する前──……





「人間って服を着て身体を他の人に見せないようにしないといけないんだよね?」

「ええ、そうね」

「僕は瑠璃香の身体を見ても大丈夫なの?」

「え、えっと……どうして気になったの?」

「結羅がいっつも瑠璃香に〝風呂一緒に入ってるくせに〟って言ってくるから、なんかいけないことなのかな、って」

「そ、それは……」


 口ごもる瑠璃香。しかし、なんとか言葉を捻り出した。


「わ、わたしとテトくんは大丈夫なの」

「そうなの?」

「他の人のは、見ちゃだめよ? 家族のだけは大丈夫なの」

「じゃあ、結羅とかススキ様のは?」

「絶対ダメ」


 断固とした覚悟で瑠璃香が言い切った。

 そして影の差した笑顔のままにじり寄り、


「もしかして、見たこと、あるの、テトくん?」


 テトは慌てて首を横に振った。


「な、ないよ」

「本当に?」

「本当に」


 こくこくと頷く。

 結羅の裸は当然、見たことがない。

 ススキ様の裸は──うん、ないと言っていいだろう。もし、裸という言葉の定義がということなのであれば、答えは〝見たことがない〟だ。

 そして、最終的に瑠璃香がテトに言ったことが、


「じゃあ、見ていいのはおねーちゃんのだけだからね。いい?」




 ──ということだった。

 その一連のやり取りについてテトが説明すると、ススキ様は「うむむむむむ」と気むずかしげに唸った。


「あの娘っ子もなかなか独占欲が強いところがあるのお……。家族愛……なのであろうが、別に裸くらいいいと思わぬか?」


 ススキ様に急に質問される。


「へっ!? い、いやあ、それは僕もそう思いますけど……でも僕はもう、瑠璃香と約束しちゃったので」

「それを言えばうぬなど、猫の姿で往来する時は、人間なりに言えば〝全裸〟ということになるんじゃがな」

「それはそうなんですけど……」

「こんなもの、ただ毛がないだけの素肌じゃろうに」


 言いながら、ススキ様はおもむろに両手でバスタオルの端を持って左右に広げた。

 つまり、ススキ様が半裸になった。

 ……正面だけ全裸、という意味で。

 いや、それってほとんど全裸じゃん! とテトは内心で自分にツッコミを入れながら、慌てて両目を両手で覆い隠す。


「ちょっとススキ様!! 何してるんですか!」

「換気じゃ」

「どこの!?」


 色んなものが──正直に告解すると全てが──見えてしまっていた。


「僕、瑠璃香と約束したって言いましたよね!?」

「別にこんな程度のものを見られてものお……しかし、ふむ。なるほど」


 すると、セススキ様が悪戯を思いついた子供のように、はしゃいだ声を上げる。


「つまり今、うぬは主人に言えぬ秘密を作ってしまったことになるの?」

「ちょっと、変な言い方をしないですくださいススキ様!」

「変な言い方とはなんじゃ。狐聞きの悪いことを言う。事実じゃろうに」

「僕は瑠璃香に誠実でありたいんです!」

「もっともなことじゃの。いい志じゃ。大切にするがよい」

「その志を折ろうとしているのがススキ様なんじゃないですか!」


 くふふふふ、とススキ様はたいそう機嫌が良さそうに口の中で笑う。

 バサバサと布が擦れる音が重なって聞こえてくるので、おそらくバスタオルの下で九尾もまた楽しそうに右往左往していに違いない。

 やがて、ひとしきりススキ様が笑うと、バスタオルが肌を滑る音が聞こえてくる。

 ……おそらくバスタオルを巻き直したのだろう。

 テトは嘆息しながら指を広げて、その間から外の景色をチラリと窺った。

 ──今度は普通に全裸だった。

 バスタオルを片手に持ちながら、蠱惑的なポージングまでして。


「だから、ススキ様!!」

「秘密、二個目じゃな」


 てへぺろ、と片目をつぶって舌をちゃめっ気たっぷりに出すススキ様。

 ──そんなに僕をからかって楽しいのだろうか? ……きっと楽しいのだろう。


「い、いいから何か服を着てください! ススキ様なら妖術で服を編めるんでしょう!? まだ肌寒いんですから、風邪を引いてしまいますよ!!」

「わかったわかった、今、何か適当に着るから待っておれ」

「もうっ。ススキ様は自由すぎます」

「何よりな言葉じゃの」


 テトは目を閉じたままふと気になって尋ねる。


「……そういえば、ススキ様もお風呂に入るんですね」


 話しながら、耳を澄ませる。

 無数の衣擦れの音が突然にやってきた。


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