あのとき育てていただいた黒猫です。2

第一匹 そんな君に、外の世界を ④

 決してバスタオル一枚なんかではない。どこからともなくやってきた衣服。それが、ススキ様の身体に今まさに巻きついていることが窺い知れる。

 これが妖術。これがススキ様。

 テトなど変化へんげするのがやっとなのに、ススキ様は変化へんげしながら同時に複雑で仕組みも分からない妖術をいとも簡単に使いこなしてみせる。

 普段は飄々としているくせに、こういう時はやはりすごい方なのだと気付かされる。


「風呂は好きじゃぞ? あれは人類の編み出した叡智のうち、五本の指に入る偉大な発明じゃ。湯浴みとはなんと心地よく、清い行為を見つけ出したものじゃろうか」

「…………そうでしょうか。僕はちょっと苦手ですけど」

「くふふ。素直に言えばよかろうに。大っ嫌いじゃと」

「む。どうせ子供みたいだと言うつもりなんでしょう?」

「いや? うぬが湯浴みを嫌うのは猫としての本能からくるものじゃろう。今更すぐに変えようと思っても簡単に変えられるものではない。むしろ、人間の姿になった今、その本能に抗って湯浴みを続けるうぬの覚悟には脱帽の思いじゃ」

「そ、そうですか……?」


 テトは驚きと同時に、嬉しくなった。

 自分が風呂に入るのが嫌いなことが、ずっとダメなことだと思っていたからだ。

 自分のこの行いが、努力であったと初めて認識させられる。


「うぬは昔っから水が嫌いじゃったからのお。猫の中でもとびきり憎んでおったものな」

「はい、それはそうです……、けど──」


 答えながら、テトの語尾が次第にしぼんていく。

 テトははた、と思い戸惑った。

 ──うぬは昔っから水が嫌いじゃったからのお。

 ススキ様はそう言ったが──それはいつの昔だろう?


「あの、ススキ様──」

「もう目を開けても良いぞ」


 意を決してススキ様に尋ねようと口を開いた途端、ススキ様の声に遮られる。

 テトはゆっくりと手のひらをどけた。

 そこには、いつもの幾重にも着た和装姿のススキ様が立っていた。

 ススキ様は自分の作り出した服の出来に満足そうに頷きながら、


「うぬもこれくらい妖術を使えるようになれば色々と便利になるんじゃがの」


 テトはじっと俯いた。

 そして顔を上げる。


「あの、今日はススキ様に相談があって来たんです」

「ふむ? テトがわしに相談とは珍しいの。何じゃ、言ってみよ」

「……僕、瑠璃香への恩返しが全然できてなくて。何をどうすれば瑠璃香への恩返しになるのかも、まだ手がかりも掴めていないんです。何かしなきゃっていう気持ちばかりがはやってしまうんです」

「まあ、焦る気持ちも分かるが……うぬは十分よくやっていると思うがの?」

「で、でも……」


 テトは縋るような気持ちでススキ様を見上げる。すると、


「助言をするならば──」


 ススキ様は肩にかかった黄金の長髪を手で払った。


「──これから真剣に人間社会に溶け込んで生活するとなると、そっちの知見を深める方が大事なのかも知れぬの。長期戦になるということは、それだけ人間たちと生活を共にする覚悟が必要ということなのじゃから」

「人間社会の知見、ですか」


 テトは顎に手を当てた。


「いわゆる社会勉強というやつじゃの」

「瑠璃香の家事を手伝っているのは、社会勉強ですか……?」

「その一部かも知れぬの。だが、あくまで一部じゃ。社会を知るには、ちと足りぬ。何せ社会じゃ。たかだか数十坪の家とは訳が違う」


 すると、ススキ様が手招きをした。


「とりあえず中へ入ろう。人間の身体でここまで歩いてくるのは疲れたじゃろう」

「あ、ありがとうございます」


 言われるままに靴を脱いで社殿に上がる。

 すでに何度か訪れているため、勝手はよく知っていた。

 ススキ様の後に続いて廊下を進んだ。


「人の諺にはこんなものがある。井の中のかわず、大海を知らず。視野は広いに越したことはない」


 ──思い出す。二週間前に瑠璃香と訪れた、ショッピングモールの威容を。

 そこには老若男女様々な人間がいて、これまで想像もつかなかった世界が広がっていた。

 そして瑠璃香曰く、この世界はもっともっと広いという。


「…………」


 瑠璃香への恩返しを果たす。

 それが、テトの最大の願いであり、想いである。

 猫の姿ではその恩返しを果たせなかったからこそ、今こうして人の形を取っている。

 であれば、恩返しのためには〝人間らしくなる〟ことは必須。

 加えて言えば、人間とは何か、社会とは何かを学ぶ必要があるだろう。

 ……確かに、猫時代の感覚のまま過ごしては足りないのかもしれない。


「ススキ様の言うとおり、僕、人間の世界のこと、何にも知らないです。瑠璃香に恩返しをするなら、瑠璃香のいる世界のことを知るのは大事なことな気がします」

「うむ、そうじゃの」


 廊下を進みながらテトは息を吸った。


「僕、もっと勉強します」


 ススキ様は振り返り、柔らかく笑った。


「うむ、よう言った。それでこそわしの見込んだオスじゃ」


 それから茶室に入り、促されるままに二つある座布団のうちの一つに座る。

 ススキ様は茶菓子と淹れたばかりの緑茶を持ってきてくれた。


「ススキ様。あの、これいつものお土産です」

「おおっ! 蔵神屋の稲荷寿司かの! いつもありがとうなのじゃ」


 土産の入った紙袋を渡すと、ススキ様は満面の笑みでテトをわちゃわちゃと撫でた。

 それから一息ついてススキ様と一緒に座り、湯呑みを傾ける。


「そういえば今日、先客がいたんです。人間のお姉さんの先客が」


 瑠璃香が持たせてくれた稲荷寿司を幸せそうな満面の笑みで頬張っていたススキ様が、動きを止めて眉を持ち上げる。

 もぐもぐもぐ。ごくん。

 じっくり十秒かけて大事に稲荷寿司を飲み込んだススキ様は、お茶を啜って首を傾げた。


「先客? しかも人間? わしが来る前にその者がおったということかの?」

「はい、そうなんです」

「むむむ……。基本、わしが認めておらぬ限りはようになっているんじゃがの。──もっとも、ごく稀に童などは勘所が合ってしまって、たどり着いてしまうことはないことはないのじゃが。それでも、うぬと同様、その者の気配にわしが気が付かなかったのは変な話じゃ」


 ススキ様は唸る。

 そして、チラリとテトを見て、


「うぬよ、それはもしや、幽霊の類だったんじゃないかの?」

「へっ!?」


 テトは肩を跳ねさせた。ススキ様の言葉にさあ、と青くなる。


「ゆ、幽霊とか怖いこと言わないでくださいよ」

「ふむ? くふふ、不思議じゃの。うぬは二年ほど、その幽霊の状態で彷徨っていたわけじゃが」

「怖いものは怖いんです」


 知らないものというのは怖い。妖怪という存在はすでにため怖くないが、幽霊についてはまだこの目で見たことがないのだ。怖くもなる。


「この神社は地脈のに位置しておるから、元々魑魅魍魎が集まりやすい性質があるのは事実じゃ」

「ススキ様でも気配が分からない存在っているんですね」

「いや、おらぬ。だから不思議なのじゃ。──強いて言えば、気配が大きすぎるあまり、

「……?」

「──いや、まさかな。今日は約束もしておらぬかったし……」


 ススキ様はどこか神妙な顔つきになって思案を始めた。



 それからススキ様とは最近、瑠璃香との生活の日々や、夜会サロンで上がった話題などで花を咲かせながら、夕方まで楽しく語り合った。

 猫と違って人間は夜目が利かず危ないからと、ススキ様が、空があかね色に染まり始めた頃、家に送り出してくれた。

 そうして来た道を戻って、自宅の扉を開けた時。


「あーっ! やっとあたしの天使が帰ってきた!!」


 何かが廊下を高速で駆け寄ってくるのが見える。


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あのとき育てていただいた黒猫です。2の書影
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