あのとき育てていただいた黒猫です。2
第一匹 そんな君に、外の世界を ⑤
そして視界に白銀と紅の色が映ったかと思えば、巨大な二つの肉塊に顔面が押し潰された。
薔薇の香りが一気にやってくる。
「むぎゅぅっ!?」
「おっせーよテト! 迷子になってんじゃねーかって心配したじゃねーか!!」
廊下から一息遅れて瑠璃香がパタパタとスリッパを鳴らして走ってくる音が聞こえる。
「ちょっとゆらちゃん! テトくんの顔、どこに押し付けてるのっ!」
「うるせえ、るりぃは引っ込んでろっ。るりぃこそ、いっつもテトにもっとでっかいもんで包んでんだからいいじゃねえか!」
「お、大きさは関係ないでしょうっ!?」
「むぅっ、んむぅううっ!!」
いよいよ呼吸が苦しくなり、テトは柔らかさの化身を手のひらで何度も叩く。しかし、全ての衝撃が吸収され、挟まれているテトの頭部が左右に激しく揺さぶられるだけだった。
「おっと、わりぃテト」
「ぷはぁっ!」
新鮮な空気を肺いっぱいに吸う。
そんなテトの顔を覗き込む顔があった。
氷柱のように鋭く、研ぎ澄まされた美しさを持つ少女。
ブリーチした白銀に、ところどころにアクセントで入っている紅のボブカット。燃えるような夕陽色の人工の瞳に、人懐っこくも悪戯っぽくもあるつり目。
この少女こそが瑠璃香の唯一無二の親友にして幼馴染の同級生。
逆瀬川結羅である。
結羅は見慣れない
ジーンズ生地のダメージパンツに白のビスチェという組み合わせで、四肢という四肢が室内灯によって真っ白に照らされている。
……まさか、春真っ盛りのこの時期に、この姿で外出していたのだろうか?
今朝、瑠璃香はクラスメイトと出かけてくると言っていたはずだが……
「今日の集まりにはゆらちゃんもいてね、解散したあと、そのままうちでお茶することにしたの。ゆらちゃんはテトくんのことがお目当てだったみたいだけど……」
テトが首を傾げていると、結羅の隣に並んだ瑠璃香がそう教えてくれる。
微妙に不満そうなのはテトが先に結羅とハグをしたからだろうか?
「るりぃが、テトは散歩に行ったっていうからすぐ帰ってくるかと思えば、全然帰ってくる気配がないから心配したじゃねえか」
どうやら瑠璃香はテトの不在についてうまいこと結羅に伝えておいてくれたらしい。
散歩といえば散歩か。
嘘ではないだろう。
「ご、ごめん。僕、外歩くの好きなんだ」
「ふ〜ん。この年で外歩きの楽しさを知っているとは、なかなか見込みがあるじゃねえか」
「ちょっとゆらちゃん。テトくんに変なこと教えちゃダメだからね」
結羅の目が一瞬怪しく光ったが、すぐに背後の瑠璃香に釘を刺されて両手を上げる。
「わーってるって。ただ、心配しただけだろうが。──ま、もっとも心配加減で言えばるりぃの方が酷かったけど」
「ゆ、ゆらちゃん!」
「瑠璃香……?」
瑠璃香は半分、泣きそうな顔になっていた。
なるほど、確かに瑠璃香に大変心配させてしまったらしい。
瑠璃香は頬を膨らませて、
「……すぐに帰ってくるって言ったのに」
「ご、ごめん、瑠璃香。次からは気をつけるね」
「ん」
瑠璃香は無言で頷くと、そのままテトのことを思い切り抱きしめた。
いつもの桜の香りが鼻腔を満たす。
テトも瑠璃香の背中に腕を回して抱きしめ返す。
ドクンドクン、と瑠璃香の鼓動を感じた。
「コホン。……コホンコホンコホン」
すると、結羅がわざとらしく咳払いをする。
瑠璃香はテトを抱きしめたまま表情も変えず、
「ゆらちゃん、咳止めなら電話台の一段目に入っているわよ」
「るりぃ、悪寒がする気がするから、あたしもテトのこと抱きしめてもいい?」
「解熱鎮痛剤なら薬箱の右側よ」
「あたし、薬に頼らない主義なんだ」
「じゃあ、毛布を貸してあげる」
「るりぃのケチ。あたしも仲間に入れてくれよ」
「ゆらちゃんのハグはなんかテトくんの教育上悪そうだからだめ」
「るりぃのハグの方が教育上悪そうだけど」
「わたしはテトくんの家族だからいいの」
テトは瑠璃香の頬に自分の頬を合わせたまま、視界端の結羅に言う。
「結羅が僕のことをぎゅってするのがダメなら、あとで僕が結羅をぎゅってしてあげるね」
結羅が鼻血を出した。
「て、天使すぎてつらい……っ」
「て、テトくんっ」
瑠璃香が慌てた様子でテトの顔を見る。
テトは首を傾げて、
「みんなでぎゅってして仲良しになる方がよくない?」
「うっ……それは、そうなんだけど……」
「ほらほら、テトはこんなにも純真なのになあ。るりぃはそれでもこの天使の良心を無碍にするのかなぁ?」
「む、むむむむむむむむむむむむむ……っ」
葛藤の末、瑠璃香はがっくりと項垂れ、
「……わ、わかったわ」
結羅は「事務所OKがやっと出た!」と歓声を上げてガッツポーズをしたのだった。
「「スピー、っド」」
掛け声と同時、テトは眼前に並べたカードを高速で動かし始めた。
対面に前のめりに座っていた結羅は、あわあわと目を回して右手を空中に漂わせて焦る。
「あっ、ちょっ、まっ!」
「ほい、ほい、ほいほいほい」
「待て、タンマ、タイム、タイムアウトっ、ファール! テクニカルファール!!」
「? 何それ?」
言いながらテトは手を動かし続けた。
カーペットの上で、向かい合って座るテトと結羅。
二人の間にあるのは、二つの山。
眼前に並べた四枚のカードを、数字が昇順または降順になるように山へ移動させ、手に持った山札から次々に場へ補充し続ける動作を繰り返す。そして、最終的に手元の山札が無くなった方が勝ち。──そういうルールだった。
スピードという名の人間の札遊びらしい。
テトは動体視力に優れており、結羅より遥かに速いスピードで札を動かすことができた。
結果、すぐにテトの左手からはカードが消えてなくなり、
「はいっ、僕の勝ち!」
「んぎゃぁああああっ! なんでだよお! あたしのテトを五分間モフる権利がああぁっ! なんでそんな強ええんだテト!?」
「ふふん、結羅はよわっちいね」
現在、五戦五勝。
テトはテーブルに駆け寄ると、結羅がたくさん買って来てくれていたミルクプリンの一つを手に取って、早速封を開ける。今回の勝負では結羅が自分のプリンの一つを、テトは自分が結羅にもふもふされる権利をそれぞれ賭けていたのだ。
「テトくん、あんまり食べすぎないようにね?」
「このくらい食べ過ぎのうちに入んないよ瑠璃香」
瑠璃香はテトの頭を撫でて、結羅に聞こえないように小声で言う。
「テトくん、数字も完璧に覚えちゃって、すごいね」
「ふふん、すごいでしょ? もうトランプは完璧だよ」
──そう、このトランプという遊びを始めたのは、瑠璃香の提案が始まりだった。
なんとなくしかわからなかった数字だったが、このトランプの遊びを通じて大小を比べることくらいは完璧にできるようになっていた。
学ぶことは楽しい。それをテトは今まさに実感していた。
テトはパタパタとソファーに駆け寄って座った。
「それじゃ、いただきま〜す」
それから大口を開けて掬った真っ白な塊を頬張る。
すると一気に牛乳の風味と頬が落ちてしまいそうなほどの甘味が脳天を突き刺した。
「んんんんんんんん、美味しい……っ! ありがとうね結羅!」
「美味そうに食べてるテトが見られるなら本望だ」
結羅はニカリと笑いながら、テトの隣にどか、と座る。
それから結羅は膝の上をぽんぽんと叩いた。ここに座れということらしい。
断る理由もないので、テトはいつものように結羅の膝の上に座った。すると、そのままプリントスプーンを結羅にひったくられ、これもまた普段のように餌付けされる。
「それはそうとテト、お前めちゃくちゃ運動神経、いいんじゃねえか?」
結羅が差し出してきたスプーンを頬張り、プリンを咀嚼。嚥下する。



