あのとき育てていただいた黒猫です。2

第一匹 そんな君に、外の世界を ⑥

「まあ、そこら辺の人間には負けないだろうね」

「人間て」


 結羅はテトの発言を笑いながら、プリンをひと掬いする。


「もう一戦やろーぜテト。こうなったら意地でもモフってやる」

「じゃあ僕が勝ったら、そうだな〜、サバ缶を買ってほしーなー」

「おう、いいぜ。何なら不戦勝で買って来てやってもいいぞ」

「えっ、ほんと?」


 結羅はにやりと笑い、


「その代わり、あたしの抱き枕になれ。そして吸わせろ」

「……って結羅は言ってるけど?」


 そう言いながらキッチンを振り返ると、瑠璃香が分かりやすく眉を立て、頬を膨らませながら、頭上で大きなバッテン印を作っていた。

 ──絶対ダメ! という固い意志を感じる。

 結羅の方を向き直る。


「だそうだけど」


 すると結羅は悔しそうに頬を膨らませる。

 それから結羅は、ふと遠い目をしてため息をつく。


「あー、明日学校か〜休日短すぎ、まじありえねえ。だり〜」

「学校行くの、嫌いなの?」

「好きな奴がいるかよ、あんな魂の牢獄をよ」

「まあ、はたから見たら牢屋だよね」

「え〜、わたしは好きだけどな、学校。みんなで一緒のことを頑張るって楽しいじゃない」

「──って、そっか」


 結羅はトランプを交ぜていた手を止め、テトを見る。


「そういや、テトは学校に行ってないんだっけか」

「う、うん。そうだよ」

「いいなー。あたしもホームスクーリングしてえ。そしたら朝から板に張り付いて、夕方に寝て、夜は米板に貼り付けるのに」

「板? 何それ」

「テトくん、深く聞いちゃダメよ」


 瑠璃香はお盆に乗せて持ってきたマグカップ三つをテーブルに置きながら首を振る。


「ふうん?」


 テトは適当に相槌を打ちながら、ハラハラと結羅の様子を窺っていた。

 今のやり取りで、変なところはなかっただろうか? と。

 実は瑠璃香と綿密な打ち合わせの末、テトは海外に住んでいる親戚の子供で、学校に通わずにホームスクーリングで学んできたというになっているのだ。

 これなら、多少の世間知らずなところも説明がつくだろうという目論見だった。

 テトは純粋な疑問から、結羅に尋ねる。


「学校って、何をする場所なの?」

「ん? 一見何に使うかもわからねえ数式だったり、学んだところでどうせ繰り返す過ちの歴史だったり、気に食わねえ奴との処世術だったり──まあ、色々だな」

「数字とか、国語、美術とか体育とか、たくさんの教科があって、先生に教えてもらうのよ」


 結羅の私見マシマシな回答に対して、瑠璃香がすかさず訂正を加える。


「ふーん。なんか大変そうだね」

「大変だぜ。超だるい。おかげで日本市場に張り付けねえんだからもったいないぜ」

「そう言うゆらちゃんって小学校の頃から皆勤賞なのよ? 結局ゆらちゃんも学校のことが大好きなのよね」


 にこにこ笑う瑠璃香に、結羅は照れた顔で言い返す。


「う、うるせえ。だってよ、社会について学ぶんだったら社会の縮図たる学校で学ぶのが一番手っ取り早いじゃねえか」

「────」


 瞬間、テトの背筋に電撃が走ったような衝撃を受けた。

 ──今、結羅は何と言った?


「ゆらちゃんってば、素直に学校が好きって言えばいいのに」

「だから違えってっ。成績上げるには授業受けるのが一番タイパがいいってだけで──」

「大丈夫よ、ゆらちゃん。無理に建前を作らなくてもいいの。あたしはゆらちゃんが学校を大好きってこと、わかってるから」

「話を聞けよるりぃぃいいっ」


 結羅が襲いかかって、瑠璃香の頬を左右からむにむにと挟んで揉む。

 その様子を、テトはぼう、と眺めていた。


「テトくん? 大丈夫? どうしたの?」


 瑠璃香がテトの様子に気がついて、心配そうに顔を覗き込んでくる。


「だ、大丈夫。何でもないよ」

「本当……? どこか遠いところを見てたけど……」

「ねえ、結羅。さっき、何て言ってたっけ?」

「さっき? 授業受けるのが一番タイパがいい──」

「違うよ、もっと前」

「もっと前? あれか? 社会について学ぶんだったら社会の縮図たる学校で学ぶのが一番手っ取り早い、ってやつか?」

「そう、それっ」


 テトは目を輝かせて大きく頷いた。

 社会について学ぶのだったら、学校が一番。

 ああ、そうだ。学校に行けばいいのだ!

 テトはその瞬間、頭にもやがかっていた霧が一斉に晴れ渡る気分になった。



 それから日も完全に落ちて、瑠璃香の作ってくれた夕飯に三人で舌鼓を打ったところで、結羅は泉家を後にして自宅へと帰っていった。


「んじゃ、るりぃ。また明日な。朝、また迎えに来るからよ」


 そう言って結羅が帰った後の家は、少しだけ寂しく思えた。


「ふあ……あ。一日、あっという間ね」


 瑠璃香はリビングに戻ると、伸びをする。

 その間、テトはずっと押し黙っていた。

 ある一つのことが、ずっとぐるぐると頭の中を巡っていたからだった。

 そのことに気づいた瑠璃香がテトを振り返る。


「テトくん?」


 ソファーの前。

 テトは思い切って、瑠璃香の目をまっすぐに見つめて言った。


「瑠璃香。お願いがあるんだ」

「なあに? なんでも言って?」

「──僕、学校に行ってみたい」


 瑠璃香は目をぱちくりとしばたたかせた。


「学校に、行ってみたいの?」

「うん」


 テトは、緊張の面持ちで瑠璃香の言葉を待っていた。


「えっと……ちなみに、理由を聞いてもいいかな?」

「僕、もっと知りたいんだ。瑠璃香たちのことを。瑠璃香たちの生きる、社会ってやつのことを」

「────」


 瑠璃香は難しい顔を浮かべながら、悩む。


「……それは、テトくんが猫又になったことと関係しているの?」


 テトは瑠璃香に、テトの目的が彼女への恩返しであることを伝えていない。

 しかし、二人でススキ様のところへ挨拶しに行った時、テトがなんらかの目的を持って猫又として現界したことは知っている。

 だから、テトは素直に首を縦に動かした。


「……うん、してる」

「……そっか」


 瑠璃香は柔らかく微笑むと、テトの前で視線を合わせるようにしゃがんだ。


「外の世界はとっても広いけど、それだけ危ないこともたくさんあるよ?」

「大丈夫、僕、逃げ足は速いから」


 逡巡の末、瑠璃香は頷いた。


「わかった。じゃ、学校、行こっかっ」

「いいの?」


 二つ返事で了承されて、テトは思わず驚きの声を上げた。

 自分で言い出したものの、実際に瑠璃香がいいと言ってくれることは想像ができていなかった。瑠璃香なら絶対に心配すると思ったのだ。


「テトくんの成長に繋がることなら、なんでも応援するよ。言ったでしょ? おねーちゃんがまた育ててあげるって」

「……うんっ。ありがとう、瑠璃香!」


 瑠璃香の首元に飛びついて抱きしめるテト。

 そのテトを、瑠璃香は笑顔で受け止めた。


「ああ、でも、テトくんって戸籍とかないだろうし、どうしようかしら……」

「〝こせき〟? 何それ?」

「テトくんって子がいることを証明するための書類のこと。他にも、学校に行くにはいろんな書類が必要なんだけど、その、テトくん元猫だから……」

「ふーん。……あ、でもなんとかなるかも」

「へ?」


 テトは言った。


「ススキ様にお願いしてみるのはどうかな? ススキ様、妖術使えるから」


 その時の瑠璃香の驚いた表情は、なかなか珍しくて面白いものだった。

 ──かくして、テトは学校へ行くことに決まったのだった。


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