あのとき育てていただいた黒猫です。2
エピローグ わたくしはレイラである。 ②
だっ、と靴も履かずに境内へ逃げ出そうとする乃々愛だったが、決して俊敏とは言えない彼女はすぐさまススキ様の伸ばした腕によって捕らえられてしまう。ススキ様はそのまま乃々愛を元の縁側まで引きずり戻し、その背後に回る。そして、階段の上に足を投げ出す格好になった乃々愛のこめかみを、ススキ様の拳がぐりぐりと抉った。
「テトがわしにとってと、特別な存在だと知っての狼藉か!?」
「ご、ごめんなさいです〜〜〜〜力になってあげたかっただけだったんです〜〜」
「本当にそれだけかの」
「……ほんのちょっぴり出来心もあったかも?」
「ノ、ノ、ア〜〜〜〜〜っ!」
「ひぃ〜〜〜っ、だから謝っているじゃないですか〜〜〜〜っ!」
なんだかわからないが、ススキ様が仲良く友達とじゃれているのを見て、テトは嬉しい気持ちになった。
テトは縁側に腰を下ろして、楽しくもつれ合うススキ様と乃々愛の姿を眺めていた。
それからしばらくした後。
縁側の上で仰向けに伸びた乃々愛を尻目に、ススキ様は大きなため息を吐く。そしてテトの隣に座ったまま、境内から見える青空を眺めていた。
「さっきの白い娘っ子の話じゃがの」
そう切り出したススキ様を振り向く。
「力とは、そこにあるだけである種、呪いを周囲に振り撒くものじゃ」
「呪い?」
「うむ。呪いとは祝いと表裏一体の存在。力はそこにあるだけで、周囲の生き物に大なり小なりなんらかの形で影響を及ぼす。その影響は良い面もあれば、悪い面もある。だから祝いであり──呪いなのじゃ」
「……僕のこの猫又の力は、呪いですか」
「そうじゃな」
「…………」
はっきりと言われてしまう。少しだけしゅんとしていると、
「じゃが同時に、祝いをもたらすこともできる」
「────」
「その白猫の娘は、希望も得たはずじゃろう? 少なくとも、うぬを介して主人と言葉を交わすことができるようになった」
「……ありがとう、ございます」
すると、ススキ様は笑って、テトを抱きしめた。
そして、耳元で優しい声音で囁く。
「頑張ったの、テト。わしはうぬのことが誇らしい」
「……っ」
それからわしゃわしゃと頭を撫でられる。それが心地よくて、喉から声が漏れた。
「えへへ。ありがとうございます、ススキ様」
そうしてしばらくススキ様にされるがままにモフられた。
と、テトは今日ここに来たことの目的を思い出す。
「ススキ様」
「なんじゃ? 改まって」
「これ、お礼です」
そう言って差し出したのは、デパートの紙袋だ。
「ほう! また蔵神屋の稲荷寿司かの!? これを待っておったのじゃ!」
ススキ様は乃々愛を放って、テトの差し出した紙袋に飛びつく。
そして顔を上げて、首を傾げた。
「しかし、なんの礼じゃ?」
「学校に通わせてくれたことへのお礼です」
ススキ様は優しく笑った。
「それはうぬの主人と、うぬ自身のお陰じゃよ」
「ススキ様が助言をくれたり、乃々愛先生に繋いでくれなかったら、今頃僕はまだあの家で悶々と悩んでいるだけだったので」
「……うむ、そうか。では、素直にその気持ちを受け取るとするかの」
両手で大事そうに紙袋を受け取るススキ様。それから少しの沈黙の後。
ススキ様は尋ねる。
「なあ、テトよ」
「はい」
「恩返しは、できそうかの?」
テトの本懐。猫又になった理由。
テトはまっすぐにススキ様の目を見て、言った。
「いつになるかはまだわかりませんが──絶対にします」
「うむ、その意気じゃ。それでこそわしの見込んだオスじゃ」
そう言って、ススキ様はテトの髪をくしゃくしゃにしながら撫でた。
その夜。テトは逆瀬川家に直行すると、瑠璃香と結羅と一緒に夕食を準備した。
「なあ、テト。この後、一緒に風呂はいろーぜ」
「ゆらちゃん、ほら、まな板と包丁に集中しないと怪我しちゃうわよ?」
「テト用に匂いのない泡の素、買ってきたから、もっとジャグジーが楽しめるぜ?」
「ゆらちゃん、はい、次はこっちの人参もお願いね?」
「あーもうっ、るりぃ、ちょっとくらい良いじゃねえかよ!」
瑠璃香はカレー鍋の火加減を見ながら、結羅の脇をつつく。
「テトくんはわたしの家族なの。あ、あんまりベタベタしちゃ、やだ」
「ちょーっとくらい幸せのお裾分けしてくれよーっ!」
そうして出来上がったカレーは、いつもより少し甘かった。
満腹になった後、結局瑠璃香と結羅とテトの三人で風呂に入ることになった。
それからテトだけ先に髪を乾かして──今に至る。
瑠璃香と結羅は、大きな洗面台で黄色い声を上げながら楽しそうに髪を乾かしている最中だ。
テトはリビングを見渡し、すぐに目当てのシルエットを見つける。
テトはボフン、と白のソファーに腰を下ろした。
優雅にうたた寝をしていた白猫が反動で身体一つ分浮き上がる。
着地した白猫ことレイラは、非常に不機嫌そうな顔でテトを睨みつけた。
『ちょっと、貴方?』
『レイラも一緒にお風呂、入ればよかったのに』
『毛むくじゃらの人間の姿になってからもう一度同じことを言うことですわね』
『……まあ、確かに猫の毛が全部濡れるの、しんどいよね』
『でしょう?』
静寂がテトとレイラの間に横たわる。
遠くから聞こえるのは二人の姉の楽しげな声。
先に口を開いたのは、意外なことにレイラだった。
『わたくし、猫又になるのはもう諦め──』
テトはしかし、レイラの口に人差し指を当ててその先の言葉を止めた。
レイラは眉を立てて不審げな目でテトを見上げる。
『テト……?』
『ねえ、レイラ。妖怪って言葉、知ってる?』
『……。ええ、まあ。元は人間の作り出した言葉ですわよね』
レイラは身体を起こす。
『実態は存じ上げませんが──生者の強い念や魂そのものが、肉体とは別の個体として振る舞う存在のことですわよね』
『そうだね』
テトは頷き、言葉を繋ぐ。
『妖怪って死んじゃった後にしかなれないのかなあ』
レイラは目を見開いた。
『
『────』
沈黙が再び降りる。
その間にレイラは平静さを取り戻し、そればかりか冷え切った目をしていた。
『テト、あまり期待を持たせないでくださいます? わたくしはもう、疲れてしまいました』
『そんなこと言って、多分明後日の今頃にはまた猫又になりたくてしょうがなくなってるよ』
テトはそんなレイラを笑い飛ばす。
『……ちょっと? 貴方、一体何を根拠に──』
『だって、レイラだから。幼馴染の僕に言わせれば、君ほど執念深い猫はいないよ』
『お言葉ですわね』
『言葉だよ。君をよく知る猫のね』
『元、でしょう?』
『まあね』
テトはソファーに背を預けて、レイラを見る。
『だからさ、レイラ。もう少し、探してみない? 僕も手伝うからさ』
『何を探す、と?』
『猫又になる方法』
レイラはゆっくりと目を見開いた後、今度は口角を持ち上げた。
その瞳に炎が宿るのを見る。
そして、レイラは言った。
『……発破をかけたからには、覚悟はお済みですわよね?』
テトは笑って返す。
『もちろんだよ、レイラ』
化けて出る、とはなんと幸せなことだろうか。
一度死んだらもうおしまい。
それがこの世の摂理だ。
だが、そのルールを破る存在がいる。
きっと、彼らはルールを破っているのではなく、我々生者が知らないルールが存在しているだけなのだろう。そうでなければ説明がつかない事象がこの世界には多すぎる。
──だからこそ、諦めるのは早いのかもしれない。
人の姿に化けることができて。
人の言葉を操って飼い主と会話し笑い合うことができる、猫。
そう──猫又は、死さずともなることができるのかもしれない。
ああ、どうして彼はこんなにも胸を高鳴らせてくるのだろう。
憎たらしくて、気恥ずかしくて、妬ましい。
猫の一生は長くない。
だからいっそのこと、もう認めてしまおう。



