あのとき育てていただいた黒猫です。2
エピローグ わたくしはレイラである。 ①
またやってきた休日。
テトは山を登っていた。その手の中には、定番となった老舗の稲荷寿司の包みがある。
今日は、瑠璃香はいない。結羅との約束があるということで来られなかったのだ。
そうしていつもの如く山道の途中で、澄んだ鈴鳴りが連なって聞こえてくると──並んだ鳥居の向こう側に、見慣れた境内が広がるのが見えた。
テトは最後の数段の石階段を、弾みをつけて登る。
そして境内の先、社殿の前にはいつものように狐耳のお姉さんが──
「あらあらあら? その可愛らしいシルエットは、泉くんですか〜?」
──いない代わりに、学校の教師がいた。
というより、乃々愛がいた。
「乃々愛先生!? どうしてまたここに!?」
「うふふ、休日にも会うなんて奇遇ですね〜」
乃々愛は社殿の縁側でくつろいでいた。
いつものスーツではない。
そこには私服姿の乃々愛がいた。身体に吸い付くようなノースリーブニットに、黒のタイトスカートと黒のストッキングという出たち。
そうして乃々愛の前まで歩み寄ったその時。
突然、乃々愛の背後の襖が勢いよく開いた。
「ノノア、酒はこれでよいじゃろ? つまみはいつもの野菜中心で作っといたから、早速酒盛りを始めるとするかの──」
「あ、ススキ様、こんにちは」
「…………」
一升瓶と重箱を抱えていたススキ様がその場で固まる。
すると、目にも止まらぬ速さでススキ様は一升瓶を襖の陰に隠した。
「水じゃ」
「今、お酒って言ってましたよね」
「あれは、水じゃ、テトよ。まさかわしのような迷える魂の案内人が、夜ならまだしも、こんな昼間から飲むわけなかろう?」
「そ、そうですね」
「うむ、わかればよろしい」
至って真面目に頷くススキ様。
そのまま流されそうになるが、しかし。
「ちょっと待ってくださいっ。ススキ様、乃々愛先生と知り合いなんですか!?」
テトは慌てて二人の顔を見比べた。
しかし、そんなテトの様子とは裏腹に、至極当たり前かのような調子でススキ様は答える。
「知り合いも何も、うぬが学校に行きたいと言い出した時に、学院にいる知り合いに声をかけておこうと言ったのは、こやつのことじゃよ。ちょうどよく、ノノアは昔からあそこで先生をしておったからの」
「うふふ、そうなんですよ〜」
「そ、そうだったんですか……」
理解はする。
しかし、納得をするには言葉の節々に気になる点があった。
昔から先生をしていた、だとか。そもそもススキ様の知り合いである、とか。
「でも、どうして人間の乃々愛先生が……」
人間の知り合い、ということであれば心当たりがないわけでもない。
瑠璃香は、まさしく人間としてのススキ様の知人の例にまさしく当たる。
だがしかし、ススキ様と乃々愛のやりとりを見ていると、ただの知り合いという雰囲気はなく、むしろ勝手知ったる古い友人という具合に思えた。
すると、ススキ様が着物の袖で口元を隠しながら笑う。
「くふふ……っ。うぬはまっこと可愛いのお」
「え、ど、どういうことですか?」
「そこの乳お化けが人間? まさか。まさかまさかまさか……」
「大きさで言えばすーちゃんも同類ですよ〜?」
そして、ススキ様は言った。
「ノノアは物の怪じゃよ。つまりは妖怪じゃ。妖怪というには、少々格は高いがの」
「────」
テトは言葉を詰めて二人を見る。
乃々愛と目が合う。
すると、乃々愛はニコニコ笑いながらテトに向かって手を振った。
「はい〜、物の怪です〜」
それから、乃々愛は目を瞑って「ん〜〜〜」と短く唸る。
果たして、たったそれだけで、次の瞬間には乃々愛の髪の合間からは異形の角が二本、表出していた。
捻れた一対の角。それは、牛の角だった。
「牛の妖怪なんです〜」
「え、うそ……。ほ、ほんとに……?」
「改めてよろしくお願いしますね、泉くん〜」
「は、はい、よろしくです」
つい先日、テトが猫又であるとカミングアウトを受けた結羅の気持ちが痛いほどわかった。
「気づいておらんかったのかの?」
「ぜ、全然気づきませんでした……」
「頑張って隠してますからね〜」
まさかこんな身近に物の怪がいただなんて。
そもそもススキ様と自分以外に物の怪がいるという発想がなかった。
「そういえば、お弁当箱、いっつもすごい量の野菜ですよね。もしかしてあれも……?」
「そうです〜、お野菜たくさん食べないとどんどん痩せていってしまうんです〜」
「そ、そうなんですね」
痩せる? と疑問符を浮かべながら豊穣な丘を二つ見上げた。尋ねたのは量ではなく野菜中心の食事についてだったのだが。
……と、不意に思い出す。
時折ススキ様が口にしていたことだ。
「あっ。もしかして、ススキ様が言っていた牛の物の怪の友人っていうのって──」
「そうじゃ、それもノノアのことじゃよ」
「服とか借りてましたよね」
ショッピングモールに来るときに、三時間かけてコーディネートしてきたと言っていた記憶がある。
「ノノアは普段、下界で暮らしているからの。その辺はこやつの方が色々と持っておるのじゃよ」
それからテトは縁側に上がり、右に乃々愛、左にススキ様に挟まれる形で横並びに座る。
そして、時折乃々愛に補足してもらいながら、ススキ様に最近あった一連の出来事について報告した。レイラを巡った事柄については、特に仔細に及ぶまで話した。
話はやがて、レイラの私室に踏み込んだところに差し掛かる。
「それで、レイラのことを助けることだけ考えていたら、なぜかすごい妖術が使えたんです」
「すごい妖術? それはどんなじゃ?」
「幻の炎です。触っても熱くもなんともないんですけど、見た目は本物そっくりで」
「ふむ……それは奇怪じゃの。うぬの妖力ではせいぜい姿を
すると、ススキ様が何かに気付いたのか、首を傾げる。
「ちょっとテト、こっちへ来るのじゃ」
「?」
再び身を寄せると、すかさずススキ様がテトの首筋に顔を寄せて、すんすん、と鼻を鳴らした。
「……なーんかおかしいの。うぬから香るこの匂い、うぬの元々の匂いに混じって分かりにくくはあるが、ノノアの香りがするのお」
「へっ?」
テトが声を上げると、テトの隣に座っていた乃々愛が立ち上がり、
「せ、先生、ちょーっとお仕事残してきたこと、思い出しちゃいました〜……」
抜き足差し足で階段を下りていく。
「それにおかしいのお……。こちらもほとんどが使われて枯れておるが──どうしてうぬからノノアの妖力の残滓を感じるのじゃ?」
「えっと……?」
テトは自分の身体の匂いを嗅いでみて、それからススキ様の紫色の瞳を見る。
「僕の中に、乃々愛先生の妖力があるんですか?」
「あった、と言うのが正確じゃの」
そして、ススキ様は手との目を見据えたまま、
「ノノア」
「ひっ」
「──動くでない」
ススキ様はぎぎぎぎぎ、と音が立つかのような錆びたブリキ人形のような動きで首を回し、乃々愛を見やる。
そして、
「まさかお主、やりおったな?」
乃々愛は最後の階段に右足を載せたまま冷や汗を浮かべた笑みを見せた。
「な、なんのことでしょう〜?」
「なんのことです?」
「テトは知らぬでよい……。じゃが、ノノア、うぬはついに超えてはならぬ一線を越えたようじゃのおおおおおお!?」
「あ、あげたのは、い、泉くん……泉くんだけですから〜っ!」



