いつか大人になったとき……。
さくら荘で過ごした日々を思い出して、何を思うんだろう。
みんなバカだったなあって呆れるのかな。
それとも、賑やかで楽しかった日々を懐かしく思うのかな。
その両方なら、言うことない。
なんたって、ここでの毎日は、ほんと最高なんだからさ。
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まぶたを開くと、白くて肉づきのいいぷっくりしたお尻が目の前にあった。
「……ひかり、またお前か」
名前を呼ぶと、しなだれかかるような甘えた声で、彼女が耳をくすぐってくる。
それに構わず、神田空太は顔に押し付けられたひかりのお尻を手で押しのけて、グレーの絨毯から体を起こした。無理やり起こされたひかりが、すねた声を上げたが、ため息ひとつであしらった。
「むごいな……」
目を細めて眩しい窓の外を見る。西の空がこの世の終わりを告げるように真っ赤に燃えていた。
「起きたら猫の尻って……俺の青春むごすぎるよ」
押し寄せる虚脱感に空太は手で顔を覆った。
「いや、青春とか口走ってる方がもっとむごいか……」
そうだと同意するように、膝に乗っかってきた白猫のひかりがあくびをする。続けて、六畳一間の部屋にいる他六匹の猫たちが、飯を食わせろと一斉に合唱をはじめた。
白、黒、三毛、茶トラ、コゲ茶トラ、シャムもどきに、アメショっぽいのとバラエティ豊かに揃う七匹の猫は、すべて空太が拾ってきた元捨て猫だ。律儀にも、ひかり、のぞみ、こだま、つばさ、こまち、あおば、あさひと命名されている。
食事を要求する猫たちに、空太は腹を鳴らして返事をした。ご主人様も空腹を堪えているのだと訴える。
春休み最終日、四月五日。夕刻五時。
赤く染まった二階建ての木造ボロアパートは、水明芸術大学付属高等学校の学生寮だ。
庭にある大きな桜の木から取ったのか、名前はさくら荘。
キッチン、ダイニング、風呂は共有。
学校まで徒歩十分。最寄り駅までも徒歩十分。
その101号室が、この春から二年になる神田空太の根城だ。
部屋の壁には『目標! 脱・さくら荘!!』と空太が今年一番に書き初めでしたためた想いが、堂々とした文字で躍っている。
空太の当面の目標は、彼女を作るでもなければ、甲子園に行くでもない。もちろん、国立競技場でも、総体でもない。この寮を脱出することだ。
なぜなら、このさくら荘は普通の寮とは少し違う。
一般寮での共同生活からはみ出した生徒が集められた更生の場であり、平たく言えば、問題児の巣窟だ。一般寮と違って、寮母さんがおらず、食堂もないため、炊事、洗濯、掃除といった家事全般を、自分たちでやらなければならないところが面倒くさい。自立を促すためだと、学校側は言っているが、本当は誰も働き手が見つからないだけだと空太は思っている。
なんせ、さくら荘と名前を出すだけで、友人から距離を置かれるほどの破壊力だ。
さらに厄介なのが、月に一度、学外清掃に強制参加させられること。その名の通り、学校周辺のゴミを拾って歩くボランティアなのだが、一周するのに大人の足でも三十分はかかる大学の敷地を基準とした上での『周辺』のため、丸一日を使った大仕事になる。毎回、翌日には、足が筋肉痛になるほどだ。
そんな不名誉な寮に、今は男女合わせて四人の生徒と、監視要員の教師ひとりが一緒に暮らしている。
空太はそのうちのひとりだ。
去年の夏、校長から直々に呼び出され選択を迫られた。
「神田空太君、猫を捨てるか、寮を出るかを選びたまえ」
「じゃあ、寮を出ます」
権威というものに逆らってみたいお年頃だった空太は、校長の言葉が終わるよりも前にそう宣言して、その日のうちに、一般寮を追い出された。
人生最大の岐路だったわけだが、完璧に間違った選択をしたと今では思っている。直後の脳内会議では、誰が責任を取るのかでもめにもめた。確か、前頭葉のせいになったはずだ。
あの頃は、まだ白猫のひかり一匹だったのだから、貰い手を必死に探せば、それで寮の問題は綺麗さっぱり解決できたのだ。島流しにされたあとで、さくら荘の先住民である三鷹仁にそう突っ込まれ、三日はショックから立ち直れなかった。
そんなわけで、今も飼い主は募集している。
だがどうしたことか、その後数ヵ月で、猫は減るどころか七匹に増えたのは、たぶん何かの間違いだ。
呪われているとしか思えないハイペースで、空太の行く先々に猫が捨てられていたのだから仕方がない。一度は見て見ぬふりを試したが、たった三歩ダンボールから遠ざかっただけで、後ろめたさに胸を押さえて蹲ったこともある。
考え事をする空太を心配してくれているのか、ひかりに続いて、のぞみとこだまが空太に擦り寄ってきた。
「お前ら、あんまり俺になつくなよ。飼い主募集中なんだからさ。別れ際に泣いちゃうぞ、俺が。俺の泣き顔はダサいぞ、ドン引きだぞ」
わかっているのか、いないのか。猫たちは気まぐれに顔を洗いはじめる。
ため息を吐きながら、空太は茜色の空に目を向けた。
春休みも今日で終わりだというのに、なんと有意義な過ごし方をしたものか。西日に照らされながら乾いた笑みを浮かべていると、背後のベッドでもうひとつ鳴き声があがった。
頭を抱えたい気持ちを押し殺しながら振り返る。
どうして自分が硬い床で寝ていたのかを思い出した。
本来、空太が安眠をむさぼるためのベッドには、何かを企む猫のような口をした美少女が胎児のように丸くなった格好で眠っている。さしずめ、猫の女王様。その見た目は、健康的で正統派、華のあるアメリカンショートヘアだ。制服の短いスカートの裾からは、やわらかそうな太ももが惜しげもなく晒され、二つはずれたブラウスのボタンの隙間からは、両腕で押し潰して強調された胸の谷間が見えた。
一年前の空太であれば、目の前の光景に生唾を飲み、面白いように取り乱しては悲鳴を上げていたことだろう。
だが、このさくら荘に島流しにされて半年以上が経った今、この程度でうろたえてはいられない。
「美咲先輩、起きてください」
動揺を押し殺しながら、ベッドの主に声をかけると、野生動物さながらのしなやかさで上井草美咲が伸びをしながら起き上がった。
ブラウスの裾が上がり、むしゃぶりつきたくなるような腰のくびれたラインと、かわいらしいおへそがちらりと見える。寝癖で外にはねた髪すらも、美咲の可憐さを際立たせるポイントになるから不思議だ。十人とすれ違えば、十人が振り返ること間違いなし。
ステータス数値も抜群で、身長は156センチ、体重は46キロ。スリーサイズは上から87・56・85と高三にしてすでに最終形態。
美咲はその魅力を無自覚に撒き散らしながら、ぱっちりと開いた大きな目を空太に向けていた。
「あたし、将来はお嫁さんになりたい」
「寝言は寝てるときに言うのが、この世のルールですよ」
「じゃあ、あたしがお嫁さんをするから、こーはいくんは旦那様ね。仕事から帰ってきたところからいくよ」
「なんで、漫才のネタふりみたいな進行してんの!」
「おかえりなさい、あなた。今日は早かったわね」
「って、本当にするのかよ!」
「食事にする? お風呂? それとも〜、ま・わ・し?」
「ここはどこの相撲部屋だ!」
「た・わ・し?」