二年の新しいクラスでは、今朝の疲れが酷すぎて完全に上の空だった。
放課後には、千尋からましろの学校案内を丸投げされた。
どこに連れて行っても、興味があるのか、ないのか、よくわからない反応をましろはしていて、自分が酷く無力に思えてきたものだ。
帰りも空太がましろを連れ帰ってきた。なぜなら、ましろはわずか十分程度の道を覚えていなかったからだ。
学校案内が終わったあとで別れ、空太は一度寮まで戻ってきたのだが、一時間経っても、二時間経っても、ましろは帰ってこなかった。
心配になって捜しに行くと、帰り道どころか、学校内で迷子になっているのを発見した。
しかも、本人にその自覚はないようで、今から帰ろうと思っていたとのたまった。
それだけじゃない。
さくら荘に帰る途中、今週の買い出し当番だった空太は、美咲に頼まれた牛乳を買うためにコンビニに寄った。
そこでも、ましろはやってくれた。
お店の商品を、レジも通さずにぱくりと食べた。あまりに自然に棚からバームクーヘンを取り、あまりに堂々と開封し、あまりにおいしそうに頬張るものだから、空太は瞬時に状況を理解できなかった。
「えっと、椎名さん? 何をしていらっしゃるのですか?」
「バームクーヘンを食べてる」
「どうして?」
「好きなの」
「好きで許されたら警察いらないんだよ!」
「たくさんあるのに」
「そりゃ、商品だからな! 売り物だからな!」
ましろは小首を傾げ、わからないって顔をする。
「椎名って、どういう人生送ってきたんだよ?」
「絵を描いてきた」
「他には?」
「絵を描いてきたの」
「…………」
「絵を描いてきたわ」
「聞こえてるから! 他の言葉を待ってんだよ!」
そこで騒ぎを聞きつけた店長に見つかり、空太はめちゃくちゃ恥ずかしい思いをしながら何度も何度も頭を下げた。その間に、ましろはバームクーヘンを完食し、二個目に手を伸ばした。
「椎名! お前は俺をどうしたいわけ? 何か恨みでもあんの?」
「食べる?」
かわいい顔で、ちぎったかけらをあ〜んしてくる。
「いらんわ!」
「おいしいのに」
結局、空の袋と、半分減った袋をレジに通してもらった。空太とは顔見知りの店長で、おかしな子だとげらげら笑ってくれたのがせめてもの救いだった。
「というのが、今日一日でわかった恐るべき事実です」
「ま、仕方ないわよ」
そう言ったのは、ひとりビールで酒盛りをしている千尋だ。
「この子、美術の勉強しかしてないせいで、ちょっと普通じゃないから」
「いやいや、ちょっとじゃないでしょ!」
散々な言われようにもかかわらず、話題の中心人物であるましろは器用に箸を操り、エビフライを丸裸にしていた。その後、剥がした衣をごくごく自然な動作で、空太の皿の上に載せてきた。
「なにしてんの?」
「脱皮した」
「ちょっと面白いこと言ってる場合か!」
「面白くはないわ」
「そこは否定しなくていいだろ!」
わずかに首を傾げた後、ましろは解体作業に興味を移し、二匹目のエビフライもただのエビにしてしまった。脱がしたフライ部分を、またしても空太の皿に置く。それから、丸裸のエビを一口でぱくり。
「ものすごく偏食だって話よ」
「先生、そういうことは全部先に言ってください!」
新たな問題点が浮き彫りになったことにショックを受けていると、隙だらけになった空太の皿から、今度は美咲がエビフライを二匹さらっていった。抗議の声を上げる間もなく、美咲の口に収まる。
「先輩までなにしてんだ!」
「こーはいくんだけ、ましろんから分けてもらってずるいじゃん!」
「だったら、この脱皮後の抜け殻を持っていけ!」
「育ち盛りなんだもん!」
美咲が堂々と胸を張る。
「俺もですよ!」
「あたし、思うんだけど、ノーパソとノーパンって似てるよね」
「なんの話だ!」
「はいはい。ダダをこねてないで、神田〜、ビール出して」
完全に出来上がっている千尋が、空になった缶を空太の方に転がしてきた。
「自分でいけ!」
「あんたの方が近いでしょ」
無言だった仁が苦笑いしながら立ち上がり、冷蔵庫からビール缶を出して千尋に渡した。
「三鷹はほんといい男ね〜。神田とは大違いよ」
「先生はビールくれれば誰でもいいんでしょうが! つか、今、話題にしてるのは、椎名をどうするかってことですよ!」
「ま、両親からは介護が必要なレベルだって聞かされてたくらいだしねえ。だから、さくら荘で預かることにしたんだし」
介護。あながち間違っていないから恐ろしい。
「だったら先生が責任を持ってフォローしてください!」
「おいおい、無茶言うなよ、空太」
口を挟んで来たのは、いち早く食事を済ませ、次々にケータイでメールを送っている仁だ。
「この会議は無意味だって」
「それだと俺が困るんですよ!」
「考えるまでもないだろ? 俺はたまにしか帰ってこないし、美咲に他人の面倒を任せるなんて無茶だ。幼なじみの俺が言うんだから間違いないよ。それに、千尋ちゃんは絶賛コンカツ中で、今からこぶつきにしたらかわいそうだ」
ひとり名前が挙がらなかったが、それは挙げるまでもないという仁の意思表示だ。
「だから、最後の望みを仁さんに賭けてるんじゃないですか!」
「なんだよ、それこそ無理ってもんだろ。俺、月曜は演劇学部四年の麻美さん、火曜はナースの紀子さん、水曜はお花屋さんの加奈さんで、木曜が若奥様の芽衣子さんだろ? 金曜はレースクイーンの鈴音さんって決めてるし、土日はOLの留美さんが帰してくんねえもんよお。どこにも隙間ないって」
「このモテブルジョワめ! すっかりマハラジャにクラスチェンジしやがって! 将来はインドで暮らす気か、このやろう!」
「そう、興奮すんなよ。別に悪いことしてるわけじゃないんだし」
「自覚しろ! 少なくとも、人妻は倫理的にまずいですって!」
「あ、そういやそうだな。こないだ旦那にばれそうになってまじでやばかった」
メールを打ち終わったのか、ようやく仁がケータイを置いた。
同時に、千尋が本日六本目の缶ビールをぐびぐびと飲む。
「私としては三鷹の毒牙に、かわいい従姉妹がかかるのを見逃すわけにはいかないから、その線はどの道、選択肢に入れてないわよ。つまり、神田がどう喚こうが無駄」
それに仁が自嘲的に笑っている。いや、明らかに楽しんでいる。
「あの、あえて聞きますけど、先生の選択肢には俺の他に誰か入ってんですか?」
「枠は四つ用意したけど、四枠ともあんたで埋まってるわね」
予想を上回るふざけた回答にも、空太は怯まない。ここで退いたら簡単に押し切られる。
「だいたい、俺は近々さくら荘出て行く予定なんで、無理でしょ、ほら、無理ですよ」
「猫の飼い主見つかったのか?」
薄く笑った顔を仁が向けてきた。
答えなどわかっているくせに聞いているのだ。
「あのさ〜」
フライの油で唇をテカテカにした美咲は、ノーパソの画面を見ている。
「なんすか?」
「『俗世の無駄な会合に時間を費やすほど僕は暇人ではない。落ちるぞ』って龍之介が言ってるんだけど……って、あ、落ちた。カムバ〜ク! って、戻ってくるわけないか……というわけで、ごちそうさまでした。お腹いっぱいだよ」
「はい。んじゃ『ましろ当番』は空太に決定な。解散!」
ケータイを持って仁が席を立つ。そのまま部屋に戻らず玄関の方に向かった。今日は火曜日だからナースの紀子さんの日だ。
その仁の背中が見えなくなるまで、物憂げな顔で見送っていた美咲も、
「お疲れちゃんだよ。さ〜てあたしも、リテイク作業の続きしよっと。やるぞ〜、作るぞ〜、できちゃうぞ〜」
と言ってノーパソをたたむと、スキップするような足取りで二階に上がっていく。