仕方がないので、シーツの端を掴んで引っ張ってみる。ましろもがっつり握っているせいか、確かな抵抗があった。諦めて肩のあたりを揺さぶってみる。
「お〜い、朝だぞ〜。朝ですよ〜」
「……朝はもうこないわ」
「いやいや、来たから! 恐いこと言うな!」
洋服や下着の山に埋めていた顔をましろが持ち上げる。寝ぼけた目でしばらく虚空を見つめる。一分近く経過して、ようやく空太と目が合った。
「おはよ」
「……」
ましろはぼさぼさの頭を再び、巣穴にもぐり込ませていく。
「寝たら、死ぬぞ〜! 初日から遅刻はまずいって!」
「……わかったわ。起きる」
「お、意外に物分かりはいいな」
ぼんやりした表情のまま、机の下から出てきたましろが立ち上がる。
体にからみついていたシーツやら衣服やらがはらりと落ちた。
肩があらわになる。細い腕も、控えめな胸も、腰のくびれとお尻のラインも、すべてが空太の視界を照らした。
その瞬間、空太の血液が沸騰した。
「ぎゃああああああああああああああああああっ!!」
血尿でも出たのかと思うほどの絶叫がこだまする。上げたのは空太だ。
「うるさいわ」
迷惑そうに、ましろが目を擦る。
「ちょっ! お前、なっ、なっ! ぎゃああああああっ!」
「なに?」
「服を着ろ! つうか、なんで裸なの! そういう種族なの!?」
動揺しまくりながら、残った理性を総動員して回れ右する。
「どうしてかしら」
「しっかりしてくれ!」
「……お風呂で」
「それから?」
「服を出して……」
「よし、あとは着るだけだ」
「全部出したの」
「はい! ストップ! 全部出すな!」
「あとは、もういいかなって」
「どういう思考してんだよ! しかも他人事みたいに言うな! それと、服を着ろ! 何でもいいから着ろ!」
真後ろに、裸のましろがいるのを意識すると、とても平静など保てなかった。
「この際、制服でいいから!」
足元に散乱した服の中から、スイコーの制服を発掘して、ましろに投げつけた。
背後でなにやらもぞもぞと衣擦れの音がする。
心臓は破裂しそうだ。
「もういいか?」
頃合いを見計らって声をかける。
「いいわ」
「あのな、お前、少しは……」
そう言いながら振り向き、空太は口を開いたまま固まった。
ましろはブラウスを羽織っただけで、ボタンは全開だ。色々なものが見えている。
「どこがいいんだよ!」
再び回れ右。頭を抱えて蹲った。
「どうしたの?」
「わかるだろ!」
「だいじょうぶ?」
「お前こそ、大丈夫か!」
「うん」
「うんじゃなくて、さっさと着替えろ!」
再び、衣擦れの音がする。先ほどの失敗を踏まえ、十分に待つことにした。
「き、着替えたか?」
「パンツは?」
「はけ!」
「どれがいいの?」
「そんなもん選ばせるな!」
「なら、いいわ」
「いいわけあるか! 風が吹いたら大惨事になるだろうが! はけ! はきなさい! はいてください!」
と言いながら、空太はライトグリーンのパンツを床から拾い上げて、悲鳴を上げながらましろに放った。
「このパンツ、かわいくない」
「今日、誰かに見せる予定でもあんのか!」
「ないけど」
「なら、それで我慢しろ!」
朝から叫びすぎて、頭の血管が切れそうだ。
ケータイの時計を見ると、すでに八時十五分を回っていた。
「やばっ! おい、椎名、少し急げ!」
「終わったわ」
パンツをはいて満足げなましろの頭は寝癖でぐしゃぐしゃだ。今なら、頭の上で鳥が飼えるほどで、整った顔立ちとのギャップもあってか、目も当てられない状態だった。
「頭! ってか髪! 洗面所で直してこい! ついでに顔も洗う!」
「どこ?」
「昨日教えただろ! ついてこい!」
どたどたと慌てた足音を立てながら、一階に向かう。だが、ましろはやってこない。少しして、ゆっくりとした足取りでやってきた。
「あ、ちょっと待て。顔を洗うならブレザーは脱ぐ!」
上着を預かり、ましろを洗面所に押し込む。その時間を使って、空太は自室に戻った。自分の着替えを済ませるためだ。
一分とかけずに用意を済ませる。空っぽの鞄も肩から掛けた。
そそくさと洗面所に戻るとましろが出てくるところだった。
そして、また空太は悲鳴を上げるはめになった。
顔を洗った際に水がかかったのだろう。ブラウスの胸元はびちょびちょに濡れて、すけすけの状態で肌に張り付いている。
しかも、ノーブラのせいで、控えめな膨らみとか、その先端部分とか、とにかく、何もかもが全部浮かび上がっていた。
「ちょっ! おまっ! あのなっ! 何かつけろ! 下着的なものを!」
「空太が出してくれなかった」
「俺のせいなの? おかしくない?」
きょとんとした顔で、ましろが首を傾げる。
空太の中の常識がまったく通用しない。
とにかく平常心を保つために、空太は洗面所のタオルを取りに行った。そこも大惨事になっていた。蛇口から噴水のように水が出て、洗面所を水浸しにしている。
「朝から行水する習慣でもあんのか!」
「行水なんてしてないわ」
「ボケにまじめに答えるな!」
「空太は面倒くさい」
「俺か? 俺がおかしいのか?」
蛇口を捻って、水を止めた。ありったけの雑巾を出して、洗面所に敷き詰めていく。
そこで昨日の千尋の言葉が頭を過った。
──ましろには、ここがふさわしいからよ
そうか。あれは、そういうことか。
──すぐにわかるわ。特にあんたはね
「くっそっ! あのものぐさ教師め! 全部、俺に押し付けやがったな!」
今頃気づいたところで遅いのだが、そう言わずにはいられなかった。
「学校、遅れるわ」
「椎名に言われたくねえ!」
空太の魂の叫びは、春の空に響き渡った。
5
その日の晩、空太は椎名ましろという大問題への対処方針を決定するため、夕食の時間を利用して、さくら荘会議を招集した。
要は、共同生活のルールを、全員で話し合って決める場だ。
食事当番や、買い出し当番、風呂掃除当番といった日常的な分担から、雨漏り当番や蜂の巣当番といった、少々風変わりな役割までもが、今日までこの会議で決められてきた。
今回の招集目的は『ましろ当番』の設置と、人員の決定にある。
リビングの円卓には約一ヵ月ぶりに全員が揃った。時計回りに、千尋、美咲、仁、空太、ましろの順番で並んでいる。
部屋から出るのを拒んだ赤坂龍之介は、チャットでの参加だ。エビフライを咥えた美咲が、ノーパソでカタカタやっている。
「ええ、今日集まってもらったのは他でもありません。このさくら荘の由々しき問題を全員で協力して乗り越えたいからです」
気合いの入った空太とは対照的に、全員食事に夢中で、ろくに話を聞いていない。
いまいちやる気のない参加者に活を入れるため、空太は円卓にばんと両手をついた。
結局、今朝は遅刻したのだ。
洗顔のあと、ましろにパンツと同色のキャミソールを着せ、濡れたブラウスを着替えさせ、靴下も履かせてやり、とっ散らかった寝癖を直したところで完全にタイムアップ。
どうせ遅刻ならと、ばっちり朝食を取ってから優雅に登校した。
退屈な始業式には、間に合わなかったが、とりあえず、HRには顔を出せた。
職員室にましろを連れて行った際、千尋からのお咎めがなかったのには驚いたが、どうやらもっと遅れることを想定していたらしい。
だったら、最初からましろのことを教えておいてくれればよかったのだ。