十一時半には解散になったのだが、そのあとも空太は美咲に付き合わされ、少し前まで徹夜でゲームをしていた。
いつ寝たか覚えていない。とりあえずベッドで目覚めたことが奇跡だ。美咲の姿もない。確か、仁が自分の部屋で寝ろと美咲を連れて行ったような気がするが、その辺はもう夢と現実の区別がついていなかった。
部屋を出ると、玄関先で物音がした。
顔を覗かせる。
新学期の何がうれしいのか、ひゃっほ〜いなどと大声を上げながら、美咲が飛び出していった。なぜ、美咲はあんなに元気なのだろうか。不公平だと思いながら、昨日さんざん振り回された腹いせに、スカートの裾からちらちらと覗く水色のしましまパンツをばっちり拝ませてもらおうと思っていたら、後ろから仁に頭を強めに小突かれた。
痛がっているうちに、美咲の背中は見えなくなってしまった。
「朝から盛るなよ」
仁もさっさとダイニングに行ってしまい、文句を言う隙もない。
入れ替わりで、千尋もやってきた。
「先生、今日は早いですね」
まだ時刻は七時半だ。あと一時間近く余裕がある。
「神田、人は様々な経験を重ねて強くなるのよ。覚えておくといいわ」
真意は理解不能だったが、昨日の合コンのことでも言っているんだろうと思って、それ以上は触れないことにした。
「ましろのこと頼んでもいいわよね? 職員室まで連れてきてくれればいいから」
「ま、初日ですもんね。道案内くらいはしますよ」
そこでずいっと千尋が体を前に出して、指で胸元をトントンと突いてきた。
「な、なんすか?」
「いい、ちゃんと連れてくるのよ? 責任を持って連れてくるのよ?」
「いや、だから、わかりましたって」
「よろしい。頼りにしてるわ、あんたのこと。ほんと頼りにしてんだから」
「はあ。なんか、気色悪いですね」
反撃があるかと思ったが、ふふんと千尋は鼻を鳴らして出て行った。
千尋を見送ったあとで廊下の柱時計を見ると、七時四十分を回っていた。
二階からましろが出てくる気配はない。さすがにそろそろ起こした方がいい。
「俺の記憶では、二階は男子禁制なんだけどな」
ぎしぎしとなる階段を上っていると、妙にそわそわした気分になってきた。ましろのパジャマ姿とか、寝顔を、脳が勝手に思い描いて、変な期待をしている。
別に女子が苦手ってことはない。美咲のおかげで、だいぶ免疫はできた。いや、だが、あれは果たして女子と呼んでいいものなのか。何かと聞かれたら宇宙人と答える。
ましろの部屋の前に来る頃には緊張はピークに達し、下腹部を中心にゴロゴロ祭りが幕を開けた。
「俺……びびってんのか?」
気持ちをほぐそうとしてわざとらしく口にした声は完全に上擦っている。
「お、おい、椎名! そろそろ起きないと遅刻とかしちゃうかもしれないぞ」
おかしな言い回しに、自分で自分が情けなくなる。
聞こえていないのか、部屋の中から返事はない。
どんどんと今度はドアをノックする。
「椎名? 朝だぞー! って、まじで返事ないんですけど。これってピンチなんじゃ」
さらに強くドアを叩く。ノック、ノック、ノック。
無情にも返ってくるのは沈黙だけ。
ドアノブに手を伸ばして、ふと我に返る。
「いやいやいや、待て待て待て。美咲先輩の部屋じゃないんだから、鍵が開いてるはずないだろ……」
確認のために、ノブを軽く回してみる。鍵がかかっている抵抗を感じない。
この感触は間違いなく開いている。
「だからって、美咲先輩の部屋じゃないんだから開けちゃまずいよな……」
とは言っても、もはや外から声をかけて事態が好転するとも思えなくなっていた。
「仕方ないよな。これは、仕方ないんだよな」
そう無意味に自分に言い訳してから、ぐっとドアノブを握った。
ゆっくりと回して、少しだけ隙間を開ける。
「え?」
そこで絶句して、無意識にドアを全開にしてしまった。
「なんだこれ」
部屋を間違えたのかと思った。慌てて部屋番号を確認する。202号室。ましろの部屋だ。合っている。正しい。正解。ビンゴ。
なのに、昨日の記憶とは似ても似つかない光景が広がっていた。
床一面に洋服や下着、本や漫画が散乱している。絨毯が見えない。部屋で竜巻が暴れたみたいだ。
なんだこれはと頭の中で警報が鳴る。
思い浮かんだのは、泥棒の二文字。
頭がかっとなって、全身から汗が噴いた。
「おい、椎名!」
慌てて部屋に飛び込んだ。
ベッドにましろの姿はない。床にもいない。どこにもいない。
視線を動かすたびに、背筋が寒くなった。
部屋は荒らされ、ましろはいない。
絶望的な状況だ。
足元がぐらつき、机に手をついた。すると、マウスを動かしたせいか、眠っていたモニターが目を覚ました。急に背後が明るくなり、軽く悲鳴を上げてしまった。
恨みを込めてPCのモニターを見た。
画面には、コマ割りされたフレームの中で、愛の言葉を奏でるイケメンの絵が表示されている。照れてうつむく女の子の頬に手をかけ、キスを迫っていた。絵は抜群にいい。上手い。頭身のバランスも取れていて、骨格はしっかりしているのにリアルすぎない。ただ、少し線が多くて、描き込みすぎな気がした。
どこからどう見ても少女漫画の原稿だ。
「どうして、椎名が……」
わけがわからず、思考が停止気味の空太の足元で何かが動いた。
全身をびくつかせてから、恐る恐る机の下を覗き込む。
シーツや衣類を狭い場所に持ち込み、幸せそうに椎名ましろが眠っていた。まるで、ハムスターの巣だ。
安堵のため息が空太の口からもれた。よかった。とにかく、よかった。いや、本当によかったのか。
今一度、室内を見回した。
これは、もしかして、と目の前が暗くなっていく。泥棒じゃないのだとすると、答えはひとつしかない。
ちょっとタンマ、と誰にともなく宣言して、空太は目を閉じた。納得できるギリギリのリアリティを持った理由を必死に模索する。
──きっと、日本の生活に慣れてないんだ
どこの国に、自室で竜巻ごっこをする文化があるんだ……。
──ちょっと盛大に寝相が悪いだけとか
これのどこがちょっとですか? 机の下で寝てるんですけど……。
──宇宙人の侵略を受けたに違いない
もうリアリティないじゃん。
──となると、これは夢だよ、空太君。君はまだ寝ているんだ
ああ、なるほど、そうだよね。これが一番可能性高いわ。
納得しながら、ましろの部屋を退室する。
後ろ手にドアを閉めて、深呼吸をひとつ。
そろそろ、夢から覚めた頃だろう。
覚悟を決めてドアを開く。
その直後、空太は天を仰いだ。当然のことだが、部屋はさっきのまんまだったのだ。
人が住んでいるとは、到底信じられない状態。
ましろは、少し変わったところもあるけど、空太側の人間だと思ってた。心のオアシスになってくれると期待していたのに……。
「……神様、俺が何かしましたか」
絶望的な気分になりながらも、空太は先ほどとは違って、床の服や下着の隙間を探しながら、机の前まで移動した。健全な高校生男子に、散らかった女子の衣服は目の毒だ。特に、色彩鮮やかな下着は目立っていけない。
見ないように努力しても、ついつい目がいってしまう。
机の前でしゃがむと、空太は慎重に声をかけた。
「あの〜、椎名さん? 起きていただけますでしょうか?」
返事はない。
「もしもーし」
「……」
規則正しい寝息が響くだけだ。
「起きてくれるとありがたいんですけど〜」
「……」