「いや〜、あたしとしてもうれしいよ〜。同じ美術科の仲間だもんねえ」
うっとりした顔で美咲がましろに擦り寄るのを、空太は頭を押さえて止めさせた。
「てか、椎名って、美術科なのか?」
ただでさえとんでもない倍率なのだ。そう簡単に、途中入学できるはずがない。
「そうよ」
ましろは平然としている。
「甘いな、甘いな。な〜んにも知らないんだから。近代戦の勝敗を決めるのは情報なんだよ。そんなんじゃ百戦百敗しちゃうんだから。嘆かわしいよ、投げ縄したいよ!」
勝手にやっていろという言葉は呑み込み、空太は美咲という名の暴走列車を、どうにかレールに戻そうとする。
「じゃあ、先輩は何を知ってるんですか」
「ましろんは現代デザインアートの世界じゃ超がつくほど有名人だってこと! ちっちゃい頃からイギリスで、美術の英才教育を受けたんだって」
ということは、帰国子女。どこか不思議な言動や、会話のテンポのずれ、それにましろを取り巻く独特の雰囲気は、海外生活の長さに起因するものなのかもしれない。
「もうすでに海外の美術館に絵が何点か飾られてるんだよ。賞とかもらってるんだから! その絵に、ものすごい値がついたとかつかないとか」
ましろが否定しないところを見ると、本当なのだろう。
だが、いまいち、芸術の世界の尺度がわからない。
「新幹線で言うとどれくらい有名ですか?」
「当然、のぞみだよ!」
「そりゃすげえ」
どうだまいったかと言わんばかりに、美咲が偉そうに両手を腰に当てる。
「腐っても美術科の生徒なんですね、先輩も」
「なんで?」
「だって、椎名のこと知ってるのって、そのせいでしょ?」
「ううん。昨日、千尋ちゃんに全部聞いたの」
「それにしては、やけに偉そうだったな、おい!」
「一秒でも先に知った方が勝者なのだよ。ふははははははははっ!」
わけのわからん高笑いに対して、再びチョップを振り下ろす。すると、美咲が白刃取りで受け止めた。
「あたしに、同じ技は二度通用しない!」
ならばと、がら空きになったおでこに逆水平をお見舞いした。
「うごっ! 痛いな〜もうっ! 好きな子についついちょっかい出しちゃう幼稚園児か、こーはいくんは!」
「先輩に対して、苛立ち以外の感情を抱いたことなんてありませんよ!」
「自分を偽りたい年頃なのはわかるよ。自分を大きく見せたい年頃なのもわかる! でも、嘘はいけないんだからね! こないだお風呂に入ってきて、裸のあたしを襲おうとして鼻血ぶ〜したくせにぃ! しっとり濡れたあたしの体に興奮しちゃったくせにぃ! 照れちゃってかわゆいんだから〜もう!」
「んなっ! あれはっ! 先輩が風呂の時間のルールを無視して起きた事故でしょうが! 俺は被害者ですよ! 俺の赤血球とか白血球を返せ!」
「あたし、脱ぐとすごいんだよ!」
「脱がなくてもすごいんですよ!」
そこで、はたと思い出し、空太は恐る恐るましろを見た。ましろの表情には何の感情も見つけられない。ちょっと不思議そうに、空太と美咲を眺めているだけだ。
「えっと、ドン引きしてる?」
「なにが?」
「いや、今の流れ的に」
さらにわからないと言った様子でましろが首を傾げる。
そのかわいらしいしぐさに、空太は言葉を詰まらせた。
「やべえ、超かわいい……とか思ってるのがばればれだよ、こーはいくん」
「だったら、それ黙っといてくれませんかねえ!」
拳ふたつで、美咲の頭をぐりぐりとする。
「あだだだだだだっ!」
「あんたら、相変わらず仲良しねえ」
振り向くと、ゾンビのような足取りの千尋がいた。空太の呪いが効いたのか、合コンは外れだったようだ。
千尋の後ろには、駅ではぐれた仁の姿もあった。どことなく不機嫌な顔で空太と美咲を見ていた仁の両手には、買い物袋が下げられている。中身は、鍋の材料一式と、お菓子やジュースだ。
空太と目が合うと、
「彼女の歓迎会で必要だろ?」
と口の端を片方だけ持ち上げて仁が器用に笑った。
「先生も早かったですね。やっぱり、婿はだめでしたか」
「私も軽く見られたもんよ。医者なんてひとりもいないじゃない! 全部、嘘よ! 経歴詐称とはいい根性してるわ」
「先生も、年齢詐称してるんだから、お互い様でしょ」
前に千尋が言っていた。合コンの場では永遠の二十七歳なのだと。
「は〜、もう、今、幸せなやつらは全員死ねばいいのに」
「千尋ちゃん、ファイトーだよ。婿が見つからないときは、こーはいくんが嫁にもらってくれるって言ってるから」
「言っとらん!」
「そうね。あと五年くらい待てばありよね」
「ないだろっ!」
「しっかし、ほんとに来たのね」
千尋の目が、試すようにましろへと向いた。何か意味深な視線に見えたのは、たぶん、勘違いではない。
「うん」
ましろが小さな声で返事をする。
「あの、先生、質問いいっすか」
「無性に誰かを傷つけたい気分だから手短にね」
「んじゃ、一個だけ」
本当は他にも色々と聞きたかった。
海外で本格的に美術の勉強をしていたやつが、何でわざわざうちにきたのか、とか。
両親はどうしているの、とか。
数ある質問の中で、空太は一番気になることを口にした。
「なんで、椎名の引っ越し先はさくら荘なんですか? 一般寮も部屋は空いてますよね?」
「そんなの決まってるじゃない」
「いや、全然わかんないんですけど」
「ましろには、ここがふさわしいからよ」
「はあ」
「すぐにわかるわ。特にあんたはね」
千尋の目が怪しく光ったわけが、やっぱり空太にはわからなかった。
4
「ねみ〜、寝そうなほど、ねみ〜」
なぜ、今日はもう春休みじゃないんだろうかと、意味のないことを考えながらも、どうにか空太はベッドから重たい体を起こした。
寝不足の原因は美咲にある。最近は何かあれば全部美咲のせいだ。地球温暖化も、世界同時株安も、円高も、コンコルドやブルートレインが廃止になっていく世の中も、全部美咲のせいだと思っている。きっと、そうに違いない。
寝るのが遅くなったのは、ましろの歓迎会をしていたからだ。合コンのショックを引きずった千尋と、赤坂龍之介は、部屋に閉じこもっていたから、空太と美咲、それに仁の三人でましろをもてなした。
仁の用意した鍋を囲み、美咲が一方的にまくし立て、空太はましろに被害が及ばないように盾となった。ましろは美咲を迷惑に感じている様子はなかったが、仁の気の利いた冗談にも殆ど表情を変えなかったので、本心の方はよくわからなかった。
少し変わったところはあるけど、根は純粋で物静か。誰かが見ていてあげないと、いなくなってしまう儚い存在。それが、空太がましろに改めて抱いた印象だった。守ってあげなければ、このさくら荘では生きていけない。だから、守ってあげようと空太はひとり心に誓った。
しめの雑炊を食べ終わると、美咲がまだ一度も使っていない三年の英語の教科書に、体操選手が鉄棒で大車輪からムーンサルトを決めるぺらぺら漫画を作って、余興としてましろに披露した。そのクオリティは異常に高く、アニメの動画レベルの代物だった。
そのお返しにと、今度はましろがトランクからクロッキー帳を取り出して、おこぼれにあずかろうとやってきた七匹の猫を描いてくれた。
見た瞬間に鳥肌が立ち、空太は感想を言葉にできなかった。クロッキー帳に描かれた七匹の猫は、今にも動き出しそうで、本物よりも本物に思えた。
その絵は、空太の部屋の壁に貼ってある。