第五部 『DAY マイナス1550 彼とイモトの通話』

第五部 『DAY マイナス1550 彼とイモトの通話』

第五部 『DAY マイナス1550 彼とイモトの通話』 



 男

「もしもし……?」


 イモト 

「こんにちは。お話、ちょっといいですか?」


 男

「……誰ですか? 嫌ですよ」


 イモト

「名乗ったら、いいですか?」


 男

「相手に、よりますよ!」


 イモト

「では、名乗らせてください。でも、どうか、いきなり電話を切ることはしないでほしい」


 男

「誰ですか?」


 イモト

「私は、イモト、と申します。警視庁の刑事をしています」


 男

「…………。なんの用ですか? 僕は警察に用事はなかったはずです」


 イモト

「じゃあ、こっちの用事を、黙って聞いていただけるだけでいいです」


 男

「僕が今、どこにいるか分かりますか?」


 イモト

「さあ?」


 男

「空港の出発ゲートの先です。出国手続きは済んだ!」


 イモト

「そうですか。でも、搭乗まで、お時間ありますよね?」


 男

「あなたが誰かは知らないし、名前も興味ない! でも、僕を逮捕しようとか、そういうのは、もう無駄ですからね……」


 イモト

「いやいや、勘違いしてもらっては困りますよ。今日は、あなたとお話をしたかった。本当にそれだけなんです。私は警官ですが、仕事中じゃないんですよ。この電話番号、私用の携帯でしてね」


 男

「じゃあなんでかけてきてるんですか! 意味が分からない」


 イモト

「私の話を聞いてくれれば、きっと分かります。どうか、飛行機が出るまで、お付き合い願えませんか?」


 男

「何も喋りませんよ」


 イモト

「いいのですよ。話を聞いてくれれば」


 男

「す、好きに喋ればいい!」


 イモト

「ありがとう。そうさせてもらいますよ。――私は今朝、一人の若いお嬢さんとお話をしました」


 男

「ひっ!」


 イモト

「一月ほど前、とある警察署に保護されてきた家出少女でして――、いや私が取り調べをした訳ではないのです。たまたま用事があって、その署に出向いていた。その時に、廊下ですれ違っただけです」


 男

「そうですか! 僕とは関係のない話ですね!」


 イモト

「そうですね。そして、まあ、大きな声では言えませんが、そのお嬢さんの名前と住所を、そこの署員からコッソリと頂いてしまった。いやはや、これ、見つかると大変良くないことなので、どうか黙っていてほしいんですけどね」


 男

「黙ってますよ! 僕は口が堅いので。何も言いませんよ。誰にも、あなたにも!」


 イモト

「ああ、良かった。当然ですが、本日そのお嬢さんのところに出向いて、登校中にお話を聞いたなんてことも、とんでもない越権行為でして」


 男

「そうですか。僕には関係のない話です! たとえ関係があったとしても!」


 イモト

「そうですよねえ。ええ、そうですとも。そして私は、お嬢さんと公園のベンチで、たっぷりお話をしました。傍目に見たら、よれたスーツの怪しい中年男性と制服の中学生少女だ。通報されたらどうしようかと思っていましたが、あはは、お嬢さんはとても頭がいいですね。私のことをずっとお父さんと呼んでくれたおかげで、助かりましたよ」


 男

「若い子をナンパできた自慢話ですか? 羨ましい」


 イモト

「だったらよかったんですけどね……。お嬢さんは、嬉しいことに私と打ち解けてくれて、誰にも言えないことを教えてくれました」


 男

「そうですか。良かったですね。ええ」


 イモト

「ところで、あなたが乗るはずだった飛行機、本当は昨日出発のはずだったんですってね? それが機材トラブルで今日になって、さらにもうすでに三時間も遅れているんですってね? 大変だ。だから、本当なら今頃は、とっくにアメリカ、あるいは太平洋上空だった」


 男

「刑事さん……。もし、あの子に脅迫めいたことをしたというのなら、今からでもゲートを戻ってあなたを捜してやる」


 イモト

「残念ですが、その必要はありません。私は、お嬢さんがとても苦しそうだったので、話を聞いただけです」


 男

「苦しそう? 何がです? ――なんでそんなふうに思うんです?」


 イモト

「私が過去にそうだったから、分かるんですよ」


 男

「何が?」


 イモト

「他人に言ってはいけないことがあって、それを言ってはいけない理由は十二分に分かっている。だからこそ苦しい。“王様の耳はロバの耳”ってやつですかね」


 男

「…………」


 イモト

「あれは、イソップでしたっけ?」


 男

「……ギリシャ神話ですよ」


 イモト

「お詳しい。私が苦しかった、ということはですね――」


 男

「言っちゃうのかよ!」


 イモト

「ええ。この話を聞くのは、あなたで二人目です。今日二人目だ」


 男

「なんで聞く必要が?」


 イモト

「出発までの暇潰しでいいので聞いてくださいよ」


 男

「何を?」






 イモト

「私はね、人を殺したことがあるんです」






 男

「…………。なんの話です?」


 イモト

「あれは、私がまだ、交番勤務の新米警官だった頃、もう三十年以上前の話です。あらためて口にすると、ずいぶんと昔ですね。でも、ハッキリと覚えています。――真っ昼間から酔っ払いが暴れているとの通報で駆けつけると、そこは修羅場でした。アパートの外階段が血まみれで、その下で、滑り落ちたであろう女性が包丁を腹に刺して倒れて呻いていた」


 男

「…………。それで?」


 イモト

「やったのは彼女の内縁の夫でした。普段から酒ぐせの悪い、何度も通報対象になっていた男でした。我々警官を見て激昂した男は、別の包丁を手に威嚇してきた。とてもこちらの話を聞くような状態ではなかった。同僚は女性を守ろうとしていた。自分一人で警棒での制圧は難しいと判断して、私は拳銃を抜いた。教え通りに、空に一発、威嚇発砲をした」


 男

「それで?」


 イモト

「直後に、男は突進してきました。私は撃った。男へ二発発砲した。とてもじゃないが、教え通り足を狙う余裕なんてなかったです」


 男

「そして……、男は……、死んだと?」


 イモト

「ええ。着ていたランニングシャツが、あっという間に真っ赤になってしまった。私は、男の心臓を撃ち抜いてしまったんです」


 男

「それから……、どうなったんですか?」


 イモト

「女性は、危篤に陥りましたが助かりました。退院してから、私を訴えた。殺人だとね。当時のマスコミも、警官による殺人だと散々書き立てた」


 男

「生まれた頃の話なので、詳細は知りません。どうなったんですか?」


 イモト

「途中で訴えは退けられて、マスコミも他になにか美味しいネタを見つけたのか、そこで終わりました。でも、私が人を殺したことは事実として残りました。もちろんそれで、警察をクビになるようなことはなかった。表彰もされませんでしたけど」


 男

「言えずに苦しかった、というのは、そのことですか……? いや、それは、多くが知っていることですよね……?」


 イモト

「最初の質問はノーで、次の質問はイエスですね」


 男

「じゃあ……?」


 イモト

「とっさに撃ったとはいえ、あのときの感触を、私は今も忘れてはいません。人に向けて銃を撃って、胸を射抜いて殺してしまった瞬間の気持ちを。その話です」


 男

「辛かったと……?」






 イモト

「いいえ。気持ちが良かった」






 男

「…………」


 イモト

「あれは、自分と同僚の命を守った銃撃でした。女の命も救った銃撃でした。上司、同僚、家族、部下……、この三十年で会った人達には『辛かった』などと嘘を、ずっとずっとついてきました。だから話題に上ることもなくなった。三十年間、誰にも言っていなかった。でも、正直な感想は、“気持ちが良かった”なんですよ。人を殺した自分を、心の底では誇っていたんです」


 男

「そうですか……。そうですか……。え? “今日二人目”って……」


 イモト

「はい、そうです。そのことを、私はお嬢さんに打ち明けた」


 男

「なんてことしやがる!」


 イモト

「ですよね。私も、酷い人間です」


 男

「彼女は……、なんて……?」


 イモト

「あなたの知らない少女は、泣きそうな顔をして、でも、泣くことはなく、しっかりと言った。『じゃあ、わたしも一つだけ、喋っちゃいけないことを喋ります』って」


 男

「なんなんだあなたは! 取り調べのつもりか?」


 イモト

「そうじゃないんですが……、まあ、すみませんね」


 男

「そもそも、さっきの“気持ちが良かった”って話だって、本当かどうか分からない!」


 イモト

「嘘は言っていませんよ。私の顔を見てくれれば分かりますよ」


 男

「できるか! 電話だ! ――それで、彼女はなんと言った⁉」


 イモト

「三人の男に誘拐されて山の中に連れて行かれて殺されそうになったが、偶然にも若いハンターが近くにいて、ライフルで全員を撃ち殺して助けてくれた、と」


 男

「…………。はっ! そうですか。それは、結構な話ですね。女の子が助かったのなら」


 イモト

「そうですね。お嬢さんの命と、誘拐犯三人の命、天秤にぶら下げたらどっちが重いかは言うまでもない」


 男

「そりゃそうですね。だから――、おっと、搭乗がすぐにでも始まるそうです! ファーストクラスからだから、もう少しはかかりそうですが、あまり長い電話はできませんね。残念です!」


 イモト

「本当なんですかね?」


 男

「……何が?」


 イモト

「ハンターが男三人を撃ち殺した、って話。本当なんですかね?」


 男

「何言ってんだ……? 狂言誘拐だとでも……?」


 イモト

「いいえ、誘拐と脅迫はあったのでしょう。でも――」


 男

「でもなんだ⁉」


 イモト

「ちょっと、話題を変えましょう」


 男

「何がしたいんだよあんた⁉」


 イモト

「私が男を射殺した、しばらく後のことです。勤務中に、年配の刑事が私に言ったんです。『お前、人殺しの顔になってるぞ』って」


 男

「人殺しの顔……?」


 イモト

「ええ。私はひどく心乱れましたが、平静を装って聞いてみた。『なんですかそれ?』って。すると、今はもうとっくに亡くなっているその刑事は言った。『自信に満ち溢れている顔だよ』って」


 男

「…………」


 イモト

「あの人は、いろいろな人を見てきて分かっていた。人を殺すということが、どう人間を変えるか。他人の命を自分が奪った、奪えたという経験が、全能感となり、どれほどの自信に繋がってしまうか。いざとなれば人を殺せばいいと、自分にはそれがやれたのだと、怖いものがなくなってしまうか」


 男

「…………」


 イモト

「私はハッとしましたよ。そして、それ以来、表情には気をつけるようになった。後日その刑事には、『それでいい』って一言だけ言われました」


 男

「…………」


 イモト

「あの日保護されていた少女は、実に“いい顔”をしていた。かつて警察署のトイレで、手を洗うときに何度も見た顔をしていた。自信に満ち溢れた顔をしていた。私は、あんな顔をしている若い少女を見たことがなかった」


 男

「ああ……」






 イモト

「誘拐犯三人を殺したのは、お嬢さんですね?」






 男

「な……、んでそう思った……? そのハンターが、一緒になって、殺したかもしれないじゃないか……?」


 イモト

「もちろんその可能性も考えて、私は今日一日、必死になってそのハンターを捜しました。その場所で狩猟者登録をしていて、ライフル所持ができる経験があって、でも直後に所持許可を返納し全部の銃を手放し、海外へ向かおうとしていたあなたを見つけた。飛行機が遅れていなければ、こうして電話はできなかった」


 男

「そのハンターが、一緒に殺したかもしれないじゃないか……?」


 イモト

「いいえ、あなたは殺していない」


 男

「なぜ言い切れる……?」


 イモト

「あなたは、人殺しの顔をしていない」


 男

「は……?」


 イモト

「その出発ロビー、ガラス張りでしょう? さっきから、あなたを見ているんですよ。ごめんなさいね、黙っていて」


 男

「…………」


 イモト

「あなたは、誰も殺していない。人殺しの顔をしていない。私には分かりますよ」


 男

「そうですか……。そうですか……。あはは……、そうですか……」


 イモト

「搭乗、結構進んだようですね。もう、乗れるんじゃないですか?」


 男

「あのとき――、僕は、前の年にやっと手に入れたライフルが嬉しくて、呆れるほど頻繁に、狩猟に出ていました」


 イモト

「いいですね。それは楽しかったでしょう」


 男

「獲物が獲れるときもあれば、獲れないときもあった……。でも、あの日見たのは、鹿でもイノシシでもない獣だったんです」


 イモト

「男達が、車に乗って林道の終点までやって来たんですね。その時既に、お嬢さんを誘拐した後だった」


 男

「僕がその時、獲物を待っていた森のすぐ下……、百メートルくらいの場所です。僕は、人が来たから、絶対に誤射してはいけないと……、その場所からすぐに去ろうと思って、でも、様子がおかしいって分かって――、持っていた単眼鏡を覗いて……」


 イモト

「何を見ましたか?」


 男

「男達は三人……、でも、チンピラとか、極悪人という風体ではなくて……、嫌になるほど普通の、その辺にいる男の人……、一人は大学生くらいに見えて……。キャンプにでも来たのかと思って……。でも、男達が、車から、大きな黒い袋を降ろして、それがもぞもぞと動いていて……、まさか人間なのか、って……」


 イモト

「それから?」


 男

「袋から出されたのが、全裸の女の子だと分かって……、でも、最初は、ひょっとしたらアダルトビデオの撮影なのかもって……。そういう話は、先輩から聞いたことがあった……。男の一人が、大きなビデオカメラも向けていたし……。でも、どう見ても女の子の様子が、変で……、おかしくて……」


 イモト

「お嬢さんは言っていましたよ。車の中で、逃げられないように全裸にされ、散々に酷い言葉をかけられたと。『今から山の中で犯して殺してやる』とか、『死ぬまでの映像を撮って、世界中に売ってやる』とか」


 男

「明らかに、誰の目に見ても、犯罪だと分かって……。警察を呼ぼうとしても、圏外で……、どうしようもなかった……」


 イモト

「だから、あなたはライフルを向けた」


 男

「弾をフルに……、六発込めました。予備の弾倉もすぐに取り出せるようにして……。そして、森から出るために斜面を下った……。その間ずっと、男達は、横たわっていた女の子の裸を撮ったり撫で回したりしていて……。それから、男の一人が、工事に使うような、大きなハンマーを持ち出して、それを……、女の子の周囲に打ち付けて石を砕いて……、怖がらせる様子を、笑いながら撮っていた。女の子は、もう、悲鳴も上げてなくて……。思いましたよ、アイツらみんな殺してやればいいって。思いましたよ。今の自分には、自分にはそれができるって」


 イモト

「でも、あなたはやらなかった。お嬢さんは、あなたがいきなり一人の頭を射抜いて撃ち殺して、さらに、降参した二人も、まるで銃殺隊のように、無慈悲に立て続けに撃って殺してくれたと言いましたが――、それは絶対に違いますね?」


 男

「五十メートルまで接近して、その先は森の木々が切れるので、そこで僕は銃を枝に依託して……、撃ちました。ライフルでは外しようがない距離と目標でした。車のサイドガラスを両方射抜いた」


 イモト

「男達は、さぞ驚いたでしょう?」


 男

「一時停止ボタンみたいに、全員の動きが止まって……、僕は、一発撃って再装填しただけで、急に気分が落ち着いて……、森から出ながら言ったんです。『全員動くな!』って。バカみたいにありきたりな台詞でしたけど、他に思いつかなかった」


 イモト

「男達は、どんな反応を見せましたか?」


 男

「最初は目を丸くしていて、『なんだよアレ?』みたいなことを……。そのうちに『あれ、ハンターじゃね?』と。オレンジのジャケットを着て、猟友会の帽子を身につけていましたから……」


 イモト

「なるほど」


 男

「三十メートルくらい……、だったと思います……。つかみかかってきても全員撃てるくらいの距離で僕は止まって、『警察を呼ぶ! お前ら全員、逮捕してもらう!』とか、『その場で座れ!』とか、またなんのひねりもないことを言いました」


 イモト

「男達の反応は?」


 男

「十秒くらい、誰も何も言わずに黙っていましたよ。だから、僕は、ほんの少しだけイラッとして、ビビらせてやろうと思った……。もう一発撃った。今度は、カメラを持っていた男の頭の上を……、とはいえ、三メートルは上でした。木を狙って撃って、当てた……。そして再装填。いつも、鹿やイノシシを前にやってきた行動って、こんな時でもできるんですね……、淀みなく体が動いた」


 イモト

「でしょうね。男達は?」


 男

「『分かったやめろ』とか、『撃つなよ』とか言いながら、その場に胡座に座りました。僕はホッとして、あらためて彼等を見ながら、なんて普通の人達なんだと、戸惑うしかなかった……。本当に、駅のホームで見かけるような、普通の人なんですよ! いかにも犯罪者で、下卑た顔で人を威圧するような輩だったら、もっと分かりやすかったのに! 納得できたのに……」


 イモト

「ああ、分かります。犯罪って、ほとんどは、普通の人達がやるんですよ」


 男

「もう死んでるんじゃないかと思った女の子が、ゆっくりと動き出して……、どうにか立ち上がったので、『こっちに来なさい!』って言ったんです。そしたら、彼女は『服がないです……』って、フラフラと車の方に歩いていって……、それもそうかと、男達をずっと見ていた。もし、連中が、武器を手に走ってきたら、その時は本当に本当に撃とうと思っていました。でも、そうなってほしくなかった」


 イモト

「それから?」


 男

「女の子が車に消えて、静かな時間が過ぎて……、男の一人が、いきなり言ったんです。『お兄ちゃん、それ実銃だよね?』って。何を当たり前のことを聞くのかと唖然としていたら、『それを人に向けて撃ったんだから、お兄ちゃんも、警察が来たら一緒に逮捕だよね?』って」


 イモト

「なんと、そんなことを言ったのですか」


 男

「一番年上、四十過ぎの、普通のサラリーマンのような男でした。『お兄ちゃんのやったのは、殺人未遂だよ!』とか、『俺達より重罪だよなあ!』とか」


 イモト

「連中にも、妙な知恵はあったようですね」


 男

「はい……。『俺達はすぐに出てくるけど、お兄ちゃんはどうだかな?』とか。でも、彼はそのあと、さらに言った。『彼女、顔も名前も住所も覚えたからさ、刑務所から出たら、また殺しに来るからな!』って……。それに調子づいたのか、より若い二人が、『そうだそうだ!』とか『そんときは、お前はまだ刑務所だろうけどな!』とか、大声で、楽しそうに、叫び続けた」


 イモト

「そのとき、あなたは見えていたんですね? お嬢さんの行動が」


 男

「見えてはいましたが、理解はできていませんでした……。どうして、車の中に服を取りに行った少女が、全裸のまま、再び外に出てきたのか。どうして、手に、ハンマーを持っていたのか……」


 イモト

「なるほど」


 男 

「僕を囃していた年上の男は、たぶん最後まで、気付かなかった、と思います。彼女が持ち上げたハンマーが、後頭部に振り下ろされたのは……」


 イモト

「でしょうね」


 男

「僕は……、十年間散弾銃で狩りをしていて……、動物がひどい死に方をするのは何度も見てきました。僕がそうしてきたからです……。スラッグを撃たれた鹿の頭は、割れて脳がこぼれたり、圧力に負けて眼球が外に飛び出したりする……。でも、でも、人間のそれはもっともっと、酷かった……」


 イモト

「その男、即死しなかったのでしょうね?」


 男

「一撃で前へつんのめって、頭から血を吹き出して……、言葉にならない呻き声が聞こえました……。直後に、『そーれっ!』という元気な少女の声で、再び後頭部へと……。頭蓋骨が割れて、柔らかい何かが飛び出す音が、僕のところまで聞こえてきました……」


 イモト

「一人目は、それで死んだと。では、残りの二人は? ずっと見ていたのでしょう? あなたは手を、いや、“弾”を出さなかった」


 男

「二人目は……、三十代くらいの男で……、少し小太りの、メガネをかけた、小学校の運動会に来ていそうな……。驚いて、後ずさりしようとしたところを……、前から、顔にハンマーを食らって……、仰向けに……。そこに、高く持ち上げられて……、もう一度……。ゼリーでも落としたような、濡れた音が聞こえました。あんな重そうなハンマーを、少女がどうして……、悪夢でも見ているようで……」


 イモト

「火事場の馬鹿力ってやつなんでしょうね……。最後の一人は?」


 男

「大学生くらいの男は、僕に叫んだんです。『助けて!』って。でもその時には、返す刀で――、まさに返す刀で、としかいいようがない動きで、ハンマーが振り下ろされて、その男の足に当たって、骨が砕ける乾いた音がしました」


 イモト

「それから?」


 男

「ひいひい泣き叫びながら、男が仰向けでジタバタとして、僕は、走り寄っていて……、数メートル手前に来るまで、少女は、ハンマーの先を足元に降ろしたまま立っていて……。僕が『もういいから!』って言うと……、少女が振り向いて……、でも、体中が、返り血で、あちこち赤くて……。目だけ、なんか、よく見えていて、すごく輝いていて……」


 イモト

「私も何度か、そういった目を見ました。きっとあのときも」


 男

「恐ろしい目をした獣に、僕は訊ねられました。『お兄さん、わたしを撃つ?』って……」


 イモト

「あなたは、なんと?」


 男

「『撃たないよ! 君は悪くない!』って、もう即座に返して、銃口を少し降ろして……、すると、若い男が泣きながら捲し立てました。『許してください……、逮捕してください! 刑務所でもなんでも行きます……。もう絶対に何もしません……。なんでも言う事を聞きます! だから命だけは助けてください! もっともっと、生きたいです! 僕はまだ十九歳なんです! 死にたくないです! 仲のいい友だちとか、家族がいるんです!』って」


 イモト

「そうでしたか。そして、彼女は?」


 男

「ハッキリとした声で、しっかりと、こう言いました。『わたしもさっき、たしか言った。車の中で、ほとんど同じことを言った。あなたは笑っていた。もう逃がさないぞって笑っていた。だから私も笑うことにする。どう、ちゃんと笑えてる?』……」


 イモト

「なるほど」


 男

「それから、彼女はゆっくりとハンマーを持ち上げて、勢いよく振り下ろした。庇った男の手ごと、胸に打ち下ろした。肋骨が折れる音が、幾重にも響きました。何度も何度も、男が、動かなくなるまで叩いて、手足がピクピクしていたので、さらに叩いて、叩いていました」


 イモト

「ふう……。そうですか……。いや、状況、大変によく分かりました。謎は全て解けた」


 男

「その後のことは……、彼女が言ったとおりです。僕は、無我夢中で、ひたすら証拠隠滅をしたんです。彼女の殺人の証拠隠滅を。動画を消して、携帯電話を壊し、死体を車に積んで、崖下に落とした」


 イモト

「お嬢さんの、様子は?」


 男

「落ち着いていました……。とても。泣いたり叫んだりもせず、ただ、落ち着いていました」


 イモト

「そうでしたか。そして、あなたは血を洗って服を着せた彼女を連れて山を下りた」


 男

「はい……。道を辿らず、僕が登ってきたルートで……。途中で、彼女の足ではキツくなって、僕がずっと背負って」


 イモト

「それは大変でしたね。よくぞ」


 男

「獲物を降ろすので、慣れていましたから……。ただ、ずっと温かかったのは、初めてでした……」


 イモト

「車に戻ってからは?」


 男

「家に送るのは、見られたら良くないと思いました……」


 イモト

「なるほど。そして、家出だと嘘を言うようにしてバス停で別れた、ですね?」


 男

「そうです……。そうです」


 イモト

「もし死体が見つかってしまったら、あなたが撃ち殺したことにしろと、あなたがお嬢さんに提案したんですか?」


 男

「そうです……。とっさに思いついた話ですが、もし、死体が見つかって、捜査が始まっても、それで全部……、闇に葬れると思った。僕は、幸運にも……、海外に逃げる術があったからです」


 イモト

「ちょっとだけ調べさせてもらいました。あなた、幼い頃は海外で暮らしていたみたいですね」


 男

「そうです……。今も、遠い親戚がいます。両親が死んだとき、とても優しくしてくれた人達が」


 イモト

「なるほど。なるほど」


 男

「もし、あなたが仕事として誰かを捕まえるしかないのなら、僕を捕まえてください。僕がやったんですよ」


 イモト

「いや、なんの話ですかね?」


 男

「は?」


 イモト

「あなたは、そろそろ飛行機に乗らないと。見たところ、もうお客さんはほとんど残っていないみたいですよ?」


 男

「は……? え……?」


 イモト

「さーて、私は謎が解けて大変にスッキリした。仕事に戻りますよ」


 男

「え……?」


 イモト

「ほらほら、乗り遅れますよ」


 男

「…………。刑事さん……。いえ、イモトさん」


 イモト

「はい、イモトです。なんでしょう?」


 男

「向こうに着いたら、電話しても、いいでしょうか……?」


 イモト

「いいですけど、出ませんよ? ほら、国際電話って、受ける方もお金かかるんでしょ?」


 男

「勝手で、無理な願いだと分かっていますが、どうか、一つだけ、どうか……、僕のお願いを聞いてください……」


 イモト

「お嬢さんのことなら、まあ、心配しないでください。所轄の少年課に、話を通しておきます。もちろん詳細は告げず――、ああ、家出の件がいいですかね。私も、機会があれば時々会ってお話しして、見守らせていただきますよ。お嬢さんの未来は、絶対に守られなければなりません」


 男

「ありがとう、ございます……。感謝します。感謝します……」


 イモト

「ほら、急いで乗らないと。最後の一人になっちゃったみたいですよ?」








 少女

「素敵ですよ! そっちの顔の方が、わたしは好きです!」








              電撃ノベコミ+連載版 『フロスト・クラック ~連続狙撃犯人の推理~』  終

刊行シリーズ

フロスト・クラック ~連続狙撃犯人の推理~の書影