「ご覧の通り精神界と物質界は相互に影響する。精神界での問題を解決すると、それは即ち物質界──こちら側の世界を調律する結果に繫がる。精神界の秩序は物質界の秩序に直結している。だから私は、精神界を救うことで、この世界を救っている──」
雲雀がその繊手を持ち上げて、将臣を手招きするように揺らす。
その手の動きからまるで強制力を受けたかのように、将臣はその言葉に頷こうとして、
「──という妄想かもしれないわね? 私には本当の意味であなたに証明する手段はないわ」
くるりと裏返す手から伸びた白磁の指が、髪留めをなぞる。決別を記す印のようだった。
「もう少し気味悪そうな顔をするかと思ったけど、意外に冷静なのね」
まったく冗談じゃない。いい加減にしろ。とんだ彼女だ。ふざけんな。
「まあでも、これで分かったでしょう。私は所詮こんな女よ。怪しい妄想を撒き散らして、トリックか何かであなたを傷つけて脅して、そうやって寄って来た男を追い払う地雷女──ここまで実演したのはあなたが初めてだけど、これまで何人もの男子に、そうやって返品されてはあれこれ言い触らされてきたわ。あなたも知っているはずよ。だからそんな不良債権、あえて選ぶ必要はないわ」
「やめろよ、そういうの」
「……ごめんなさい。あなたを責めているわけじゃないわ。単なる私の愚痴よ。忘れて」
気色悪い女。俺を巻き込むな。同情を誘おうってのか。何だその設定アニメかよ。
──きっとこれまで、そんな男達の一方的で見当違いな罵声を、何度も浴びたのだろう。
「そうじゃない」
将臣は切って捨てる。何も分かっちゃいない、この貴家雲雀という女。
自分が持つ楠木将臣に対しての価値を、重さを、何も。
「そうやって絶対に理解されないって決めつけるの、やめろよ。前に何度も他の男に口説かれてるみたいなこと言うのもだ。……俺の彼女のモテっぷりに嫉妬しちまうだろ。ま、この初めてが俺ってのは、そう悪くない気分だけどな。ちょっと痛いけど、まあそんなもんなんだろ、たぶん」
雲雀の目線は相変わらず将臣をロックしたまま──しかし瞬きが不自然なほどに増えてぱちくり忙しなくなっている。何を言われているのか分からない、と顔に書いてあるようだ。
分からないのは将臣の方だ、と声を大にして言いたい。
「俺は君の彼氏だ。彼女がそう言うなら、それを信じる。そのために今日、この地球が不機嫌かってくらい暑い中デートをしてたはずじゃないのかよ」
「そうだけど、でも」
「でもはナシだ。俺が信じると言ったら信じる。そりゃ実際俺はその精神界とやらを見ることが出来ないから、共感とか同調とか、そういうことは無理だ。だからって、君の人格全てを否定する理由にはならないだろ。精神界が中心──いいよそれで。だからそれ以外の君を、全部俺にくれ。君が不要だと切り捨てた気になってる現実の君を、俺が好きになるから」
一口で一気に全速で言い切った。一度止めたら今度は思索が過ぎて、次の言葉はきっと渋滞すると思ったから。
「何で……? 分からないわ。何でそこまで私に構うの? ただの同級生じゃない。半日デートしただけじゃない。あなたやっぱりおかしいわ。ズレてる」
その指摘は甚だ心外だ。将臣の理屈では、いたって普通の結論だと思う。
何故なら。
「見た目が好みだから、ってんじゃ理由にならないのか?」
「そんな理由っ──」
「じゃあ他にもあるぜ。猫の話をする時のうきうきした表情が可愛いとか、クールぶってるけど実は茶目っ気があって面白いとか、男なんて大したことないわって顔してるくせにこうやって真っ直ぐ目を見てクサいこと言われると頰が赤くなって推せるとか、色々な」
「ほと、ほとんど見た目だけじゃないっ! わざとクサいことを言ってる自覚あるなんて性格悪いし、推せるって意味分からないし、それに私っ、赤く、なってない!」
もちろん赤くなっている。何なら湯気でも間欠泉でも噴き出しそうなくらいだ。
「ほれみろ。普通じゃん。ちょっと自分の世界が強いってのと、べらぼうに美人ってだけで、他は普通の女子だと思う。全然ズレてない。俺も、君も。だったら、ズレてない二人が彼氏彼女だって、おかしくない。そういうのは、噓より嫌いか?」
「…………」
雲雀は頰を染めたまま、自分の両腕を抱いて押し黙ってしまう。何人の男がこれまでにリタイアしてきたのか知らないが、きっとここまで食らいついたのは将臣だけなのだろう。これまでずっと彼女が漂わせていた『繰り返し』感が綺麗さっぱり消えて、初めての表情を浮かべているのを見れば、自分の選択が誇らしくさえ思えた。
将臣だって、そう単純に全てを信じたわけではない。雲雀が言ったように、ミミズ腫れは何らかの仕込みなのかもしれないし、雲雀自身がそういう思い込みを信じ切っているだけの病気か何かなのかもしれない。可能性だけで言えば何とでも言える。
正直、そこの事実実情には、あまり興味がなかった。
興味があるとすれば、飼いならした倦怠の手放し方だ。どうでもいいと投げ捨てた日常の、やはり退屈だと諦めた平穏の、容易く覆ると失望した理想の、その先にあるもの。
普通でしかない将臣に、今さら劇的な変化は望むべくもない。だが、ベーグルを買い占めるくらいのことは、将臣にだって出来るはずだ。噓みたいな現実を手繰り寄せるための、努力。能動的に出来ること──雲雀を好きになること。彼女の電波に便乗すること。
精神界。精神離脱者。救世者。聞けば聞くほど実に噓臭い。だが将臣には雲雀という超美人の彼女がいる。これだって信憑性のなさで言えば同等かそれ以上のもの。だったらどっちの噓の方が心地よい可能性なのかなんて、比べるまでもない。
少なくとも偏見の目だけで相手を見るような真似はしたくない。あの感覚は、かつて自分が散々される側になって身に染みている。決して気分のいいものではない。自分の言ったことが人とズレているような違和感を抱える気持ちくらいは、将臣ならば理解出来る。
それに、と将臣は思う。
精神界という非日常、そして〝ガーディアン〟としての使命は、ゲームとして、あるいはお話としての整合性よりも、聞けば聞くほどに何故か自分にとってしっくりくるような気がするのだ。こんな荒唐無稽な世界観が、かつて自分が味わった虚脱感を覆す、最高のデジャヴであるかのような。
「……とに?」
「ん?」
しばらく黙り込んで俯いていた雲雀が、これまでの凜然とした態度を崩して、消え入りそうな声で何かを口にした。
「本当に、こんな私でいいの……? 変わらなくて、普通にならなくて、いいの……?」
「ああ。俺は貴家雲雀がいい。この世界にも精神界にも二人といない、個性的な君がいい」
後にして思えば、殺し文句だったのかもしれないな、と自画自賛する。
だってきっと、貴家雲雀の電波を肯定した男は、これまでいなかったと思うから。
あの事故で平坦に均された自分のメンタルが、ある意味では功を奏したのかもしれない。
相手にどんな凹凸があろうと、衝撃を吸収して、そのまま受け止めることが出来る。
そんな一般人こそ、変人に相応しいに違いない。
雲雀もそう思ったのだと思う。
だから彼女はこれまでに見たことのない、夏空よりも晴れやかな笑顔を浮かべて、
「それじゃあ、改めて私の〝ガーディアン〟になって──将臣くん」
「おいおい、昨日から俺はずっと君の〝ガーディアン〟だろ。解雇された覚えはないっての」
「──ありがとう」
この瞬間に、本当の意味で楠木将臣の世界が色を取り戻したと言ってもいい。
どうせいつかは死ぬ。人は簡単に死ぬ。特に大した理由がなくても死ぬ。だったら本気を出すのなんてバカらしい。せいぜい普通に生きればいい──去年の春先に一命を取り止めた将臣に刻まれた世界の摂理。それは退屈というモノトーンで塗り潰された、平坦な世界の影絵に過ぎなかった。
それがどうだ。雲雀の笑顔を見た瞬間に、将臣の止まっていた時間が動き出したような気さえした。時差ボケ甚だしい脳内が現実の色味についてこられないほど、鮮やかな夏の刺激にくらくらと酔っぱらっている。
鼓動が速い。掌が熱い。呼吸が浅い。──彼女が、まぶしい。
クーラーが電力の限りを振り絞って世界を冷やし続けているというのに、この一角のクソ暑さたるや、周囲の客に熱中症を引き起こしてもおかしくない。当事者なんていわんやだ。現に将臣の脳は沸騰しそうなくらいに熱を帯びている。
退屈な日常なんていうぬるま湯とは違う、灼熱の青春時間。
「じゃ、さっさとデートの続きをしよう。こちとら散々熱に浮かされてるんだし、こんなエアコンの中に居たら、せっかくの熱気が冷めちまう──そうだろ、雲雀」
「……ええ。そうね。私も今は、外に出たい気分よ」
遠くアスファルトの先に立ち込める陽炎の中へと、現実の中の二人は飛び出していく。