妖精の物理学 ―PHysics PHenomenon PHantom―

プロローグ「東京アブソルートゼロ──Zero-point emotion──」

 ──全てが氷に覆われた地表を少女はただ一人歩いていた。


 氷点下二百数度を下回るごつかんの凍夜。雲の切れ目から差しこむかすかな月明かりが、夜空の中に無尽蔵に滞留する霧状の何かを透過する。そして光は虹色にうつすらと乱反射した。

 宙に浮かぶそれらは、大気中の水蒸気が細氷化したダイヤモンドダストと呼ばれるものだ。

 吹き付ける強風はごつかんの冷気と共にダイヤモンドダストを舞い上げ、虹色の光彩がオーロラの如く淡く揺らめく。


 少女は凍った地表を見下ろして歩く。

 寒さは感じない。風は痛くも冷たくもない。

 氷点下二百数度の冷気ですらも、少女の肉体を凍結させることはあたわない。

 今この空間において全ての現象が、少女を物理的に傷つけることはなかった。


 少女の瞳が揺らぎ、涙があふれだす。しかし、その涙は流れることはない。外気に触れた涙滴はその瞬間に細切れの結晶へと相転移し、風にさらわれその痕跡を消し去った。


 涙はて付き砕け散る。


 何を考えるでもなく、少女は歩を進める。その一歩には重さも軽さも、何もかもがもっていない。次々にあふれ出る涙滴は目元から結晶化して飛散する。そうして途方もない時間を掛けて氷の上を突き進む。

 目的地はなかった。理由もなかった。

 この氷の世界がどこまでも永遠に続く途方もないものだと、少女はそう思っていた。


 ──だから突然、足元がなくなっていることに少女は気づかなかった。


 何かの膜のようなものを少女は貫通していた。宙に突き出した右足は着地点を失い、体勢は崩れて、その拍子に左足もり所を失う。浮遊感と共に少女の肉体は空へと投げ出された。


 ──夜空を落下する少女は、その状況とは全く違うものへと心を奪われていた。


 ごつかんの世界から飛び出した少女がまず初めに感じたものは、風だった。次いで寒さ、そして寒さに反比例して体感する自身の体温、最後に涙が目元を流れる感覚だった。


 涙が凍ることはなかった。液体として瞳からあふれた涙の感触は、とても不思議なものだった。

 涙は頰を伝うことなく、空を落ちる少女から離れていくように、上へ上へと飛んでゆく。


 涙のゆくを追い掛けようとして、少女は上を仰ぎ見る。

 そこで、空から降り落ちる無数もの白い欠片かけらに少女は気づいた。

 白の欠片かけらは頰に触れる。じわりとにじんで、溶けて消えるような気がした。

 それは氷のような、何物をも寄せ付けない硬さとは違った。

 触れた頰は冷たいけれど、それでもどこか優しげな感じすら覚えるその柔らかさに、少女は憧れのようなものを抱いた。


 ──夜空を落下する少女は、無限にも降りしくる白い欠片かけらの名を、生まれた時から知っている。


 唇を開き、声をわななかせる。そこに僅かなどうけいを込めて、初めての言葉を口にした。


「──ゆき……」





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