妖精の物理学 ―PHysics PHenomenon PHantom―

一章「神戸グラビティバウンド──Reverse city──」 ①


 ……土曜日はお昼まで授業がある。

 先週はサボってしまったが、今日だけはちゃんと行くと決めていた。

 本当は行く気なんて全くないが、言われた通りにしないと面倒なことになる。

 だから寝る前に目覚まし時計の確認もした。

 じゃあ、なんでベルが鳴らないのだろうか……


 むろつきカナエは閉じたまぶたでうつらうつらと思考をさくそうさせながら、右斜め上、目覚まし時計の普段の定位置に右手を落下させた。

 ぷにゅっ……。

 その感触は時計らしからぬ柔らかな弾性を示していた。

 押したり引いたりつまんだり、指の動きに順応して変形する様はどう考えても時計のそれではない。

 ついでに振動も鈍く伝わってくるようで、いよいよもつて不穏を感じたカナエは、意志の力で重いまぶたをこじ開けた。

 ──振動する二つのベルの間に挟まれた小さな女の子の尻を、カナエの右手はつかんでいた。


「この状況で……寝てるのか……ッ!?」


 ゴシック調の大きな時計、その上部についたテニスボール大の二つのベルの隙間に、ピッタリと顔面をめり込ませて少女は爆睡していた。

 本来ならば大音量で起床を知らせるベルの振動を、両頰を押し付けた少女の顔面が余すこと無く吸収している。

 ウェーブのかかった自らの金髪に埋もれた少女の寝顔は、高速でブレる最中であるにもかかわらず大変安らかなものであった。

 ベルの振動によって、開いた口からこぼれるよだれせわしなく左右に飛び散っている。


「ブルドッグかよおめーは」


 幸せそうに爆睡する少女の頰を、右手でむぎゅうと変形させるが、当然の如く無反応で小さな寝息を立て続ける。

 カナエは強硬手段に出ることにした。

 曲げた人差し指が元に戻ろうとする力を親指で押しとどめて、少女のひたい中央に照準を合わせ、いわゆるデコピンをさくれつさせた。

 ペチンッ、とキツめの音を響かせて──それと同時に少女はガバッと顔を上げた。


「──キャ、キャナエしゃまあぁあぁ。らいへんれしゅ、だいずいしん! いましゅぐなんを!」

「揺れてるのはレヴィの頭だ」


 カナエはレヴィと呼んだ少女の腰へと右手を回し、ユーフォーキャッチャーの要領で持ち上げた。


「ひゃっ!」


 ──ジリリリリリリリリリリッッッッ!

〝つっかえ〟が取れてベルが鳴り出す。

 カナエの右手につかまれたレヴィは、俗に言うメイドさんの格好をしていた。

 黒のロングワンピースの上から白のフリルエプロンを着けた姿は、人間で言う背中半ばまで伸びるナチュラルウェーブの金髪も相まって、一見してコスプレではなく本場英国人のようなちをしていた。

 しかし、それを着用するレヴィの身長は三〇センチ前後とお人形サイズである。


「……もう時間ですねっ。カナエさまっ、朝食をとりましょう」

「もう時間がない」

「ほえ? 目覚ましが鳴っているので七時じゃないんですかっ、って……え、はち、八時じゃすと……ひゃああぁぁぁぁあ! ちこくですうううう!」


 レヴィはこの世の終わりとばかりにしゅんと落ち込んだ。

 カナエの手から離れて時計のすぐ隣に降り立つ。

 いまむなしく鳴り続ける時計の、突き出された長さ数センチのスイッチを両手で押す。

 そのままレヴィはスイッチにすがりつき、下を向きとつとつと事情を語り出した。


「……今日こそはメイドらしくっ、先んじてカナエさまを起こそうとしましたっ……」

「また起こされたんだけどな」

「ひゃい!」


 図星の指摘にビクリと反応したレヴィが、その衝撃で再度スイッチをかちあげる。

 またみみざわりなベルがけたたましく鳴り響くが、レヴィにはその音を消す心の余裕はなかった。


「カナエさまのお目覚めに、れたての紅茶とあまいケーキを、召し上がって欲しかったのですっ」

「……」

「目覚まし時計のすぐ隣で寝れば、カナエさまよりも先に起きられると思ったのですが、ですがっ…………時計をまくらにしてしまいましたぁ……」


 レヴィの瞳は澄んだすい色をしていて、その瞳とは別に、の中にはデコレーションシールと見間違えてしまいそうな淡く黄色い星模様が刻まれている。

 申し訳なさで少し潤んだ瞳の中で、星がきらめいているようにも見えた。

 カナエは鳴り続けるベルを、レヴィの両手ごと、そっと下ろして音を消した。


「過ぎたことは仕方がない。『現象妖精フエアリー』だけじゃなく、人類だって睡眠欲にはあらがえないからな」

「早寝遅起きの『現象妖精フエアリー』なんて、メイドとしてちっともカナエさまの役に立ってませんっ」

「寝る子は育つって言うだろ。レヴィはすこやかに寝て大きくなって、ボンキュッボンでスタイル抜群のスーパーメイドに将来なってくれ。今はその布石だ、多分」

「でもわたし、実はスタイルいいほうなんですよっ?」


 レヴィは安っぽい色目でカナエを見やる。


「……定規と分度器で測ってやろうか?」

「わたしのバストは図形じゃありませんっ!」


 僅かな自信を速攻でぶち折られたレヴィは消沈する。

 しかしの前にあった時計を見て初心を思い出したレヴィは、ガバッと顔を上げてまくしたてた。


「そうですっ! カナエさま、学校です学校! どうしましょう」

「よし、サボろう」

「遅刻してでも行きましょう! 先週もサボられましたので余計にっ!」

「その日は前日にバニラエッセンスと下剤入れ間違えたケーキ食わされたせいだろうが」

「ひゃあごめんなさいぃいぃい」

「なんかもう今日はダラダラしたい気分なんだ。もう行かない。レヴィはどっか行きたい?」

「分かりました」


 切り替えが早い。


「では喫茶店とケーキ屋とアイスクリームの屋台とあんみつ屋とそれから……」

「胃がもたれるわ! たまには人間用に主食挟め」

「──わたしたちはあまいものしか食べられませんっ。わたしにとっては、あまいもの以外を食べたいって人間の気持ちが分からないんですっ……」

「えっとなレヴィ、『現象妖精フエアリー』がとうがら入りのおつまみやマーボーどう食べたらどうなる?」

「前にカナエさまのものを一口頂いて、洗面台に直行しましたっ……」

「人間はそれほどじゃないけど、あまいものしか食べないってのは中々こたえるんだぜ」

「『現象妖精フエアリー』はあまさしか栄養にならないのでっ、カナエさまにはいつも同じようなものを……」

「いやいや、そこまで責めてないから! のうの回転には糖分が必要とかどっかで聞いたし、特に朝とか頭がぼんやりしてるから目覚ましがてらに丁度いいんじゃない? ……ということで頼むよ」

「ほえ?」

「メイドさんになってくれるんじゃなかったのか? ほら、紅茶とケーキ」

「あ、はいっ! お膳立てしてまいりますので、今しばらくお待ちくださいっ!」


 そう言い残して、シングルベッドの真向かいにある台所へと、レヴィはすっ飛んでいった。


現象妖精フエアリー』というが、彼女たちには羽がない。

 重力を制御して飛行するわけでもなく、単に彼女らは地表や重力といった概念に縛られずに空を歩いているのだ。


 レヴィは自分と同じ大きさの給湯ポットの『温める』ボタンの上に着地し、半ば浮いた状態で時間と温度調節のステップを刻んだ。

 次にポットから離陸して、冷蔵庫のすぐ横にある食器棚に降り立つ。

 そこにあるスプーンを一つつかみ、柄の部分を冷蔵庫の扉の隙間に差し込んで、テコの原理で力を加えて開けてみせた。

 一番上の段に手を伸ばし、昨日カナエと買いに行った飾り気のないスポンジケーキの一切れを皿に載せて、その重量と戦うように危うげに取り出した。

 頭に載せて、うんしょうんしょとゆっくりとした速度でテーブルに運んでいく。


 その後もレヴィは冷蔵庫とテーブルを何往復もして、裸のスポンジをケーキへと飾り立てていく。

 クリームとチョコをめいっぱい絞り、ぎんぱくで覆われた粒状のをまぶし、カットされたいちごとパイナップルを上に載せる。

 あっという間に絵になるものが出来上がった。


 カナエはそれを見届けてから、レヴィと入れ替わるようにして台所に向かう。

 台所で歯磨きを終えて帰ってくる頃には、レヴィは熱湯の入ったカップにティーバッグを垂らしていた。

 そのカップを、レヴィではなくカナエがテーブルまで運ぶ。

 ケーキと違って、落としでもするとレヴィに被害が及ぶからだ。

 それを見たレヴィは、少しだけしゅんとした表情を浮かべた。


「お砂糖とミルクはどうされますか?」

「棒のやつ二つとフレッシュたっぷりで」

「棒のやつ……これを二つですね!」


 レヴィがどこからか持ってきた細長い容器を見て、カナエは目をいた。


「それも下剤だ! また土曜をオジャンにする気か!」

「ふええ、なんでこんなに下剤がいっぱいあるんですかあ」

「この前買い物任せたらレヴィが沢山買ってきたんだろうが! どんな間違え方をした!」

「色と形が似てたのでついっ……」


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