妖精の物理学 ―PHysics PHenomenon PHantom―

一章「神戸グラビティバウンド──Reverse city──」 ⑨

 カナエは照れ笑いを浮かべながらノゾミを見ていた。

 そこには尊敬の色があった。


「このアプリ、俺ののうを調べてできたんですよね? ところどころおかしいところはありますけど、本当にノゾミ先生は、『ストレンジコード』を翻訳してみせたんですね……」

「ワタシは翻訳なんてしていないよ」

「……どういうことですか?」

「翻訳というのは、通訳者が双方の言語を正しく認識していることを前提にしている。しかしさっき教室で講師が言っていただろう。答えがないテストの採点はできない、と。カナエ君が『ストレンジコード』を正しく認識しているかどうかなんて、この世界の誰にも理解できない」


 カナエの照れ笑いが、苦笑いへと変わった。

 思い上がっていた感情を戒めたくなる。


「……そうですよね。やっぱり誰から見ても、おかしいのは俺だけって言うか──」


 諦観を抱くカナエの吐露に重ねるように、


「──だからワタシだけは君を信じることにしたよ」


 ノゾミは晴れやかな笑顔で言い切った。


「えっ? でもさっき理解できないって……」

「理解できなくても、信じることはできるさ」


 ノゾミは白衣からリモコンを取り出し、壁に取り付けられた液晶ディスプレイを操作した。

 まず、人間の脳を詳細に描いたイラストが出現した。

 そこから無数に黄色の線が飛び出していく。

 黄色の線は、脳の周囲に浮かび上がったドイツ語の文章と順次結び付いていった。


「ワタシは現象妖精フエアリー学ではなく、最新の脳科学からアプローチを図った。大雑把に言えば、『ストレンジコード』に対する脳の認識や反応を逆算した。〝カナエ君が『ストレンジコード』を正しく理解している〟という本来あり得ざる仮定を元に設計したこれは、妖精の翻訳アプリと呼べるものではなく、カナエ君の解析アプリと言った方が正しい。ある意味ではきような行いだ」

「でもこれで妖精の言葉が俺以外にも分かるようになったんですよね!? 偉大な発明です!」

「残念ながら、今のところこのアプリは、カナエ君と契約した『現象妖精フエアリー』にしか機能しない」


 今度はノゾミが苦笑を浮かべた。

 次いでテーブルに並んだ昼食を眺める。

 液晶ディスプレイに浮かんだ資料映像を消して、昼時定番のニュース番組へとチャンネルを切り替えた。


「ところで、早く食べないとパンが冷めてしまうよ。せっかくの焼きたてなのだから」

「焼きたてというか、焦げたてというか」

「むう? ワタシの手作りが不満なのかね?」

「タダ飯なんで不満はないですけど、ちゃんとした市販のオーブンで焼きません?」


 かべぎわの調理場に目を向ける。

 一見して用途不明の怪しい実験器具にしか見えないアイテムの群れは、全てノゾミが手を加えた家庭用品らしい。

 カナエは目の前の菓子パンを手に取り、焦げていない部分を千切った。

 それにオレンジマーマレードを塗りたくり、背を向けてふてくされるレヴィの口元へと持っていった。


「……ありがとですっ」

「痛っ! 俺の指はあまくないからな?」


 残りの焦げたパンを大口で平らげ、取り置きのミルクティーが注がれたカップを口元に運ぶ。

 誰も寄り付かない秘密基地めいた旧実験室に、カナエは安心感のようなものを覚えていた。



『……今朝の八六階層で捕まえられた違法妖精業者は、多国間国際条約『キンバリー・プロセス』に抵触したとされております。現在は大阪都の国際刑事警察機構インターポール国際犯罪者収容所に連行され……』



 流れてくるニュースに、カナエは顔をしかめてしまう。


「『原産地の証明キンバリー・プロセス』ねえ。元は非政府組織NGO間で締結されていたアフリカの『とあるモノ』をめぐる条約も、時代を隔てるとその定義も変わった。……日本の首都が大阪都に再定義されたように」

「仕方ないでしょう。東京で『七大災害』が起きて、大阪では起きなかったんですから」

「……?」


 どこか暗い表情を浮かべるカナエとノゾミを見て、レヴィは首を傾げる。


「レヴィ君は大丈夫だよ。きっとカナエ君が、守ってくれるからね」


 ノゾミはレヴィのブロンドをで付けると、チャンネルを手にとってニュース番組から何の変哲もないバラエティー番組へと変えた。

 テレビからいかにもな群衆の笑い声が沸き、人気芸人のコントが繰り広げられる。

 レヴィは両手をうれしそうにたたいてテレビを眺めていた。

 カナエは千切ったパンを、自分の口元とレヴィの口元へと交互に運ぶ。

 レヴィに渡すときはジャムやマーマレード、バターを過剰に塗りたくることを忘れずに。

 時折カナエの指までまれるが、もはや慣れたものだった。わざとやってるんじゃないかと、カナエはたまに思う。


「……レヴィ、帰るぞ。ノゾミ先生昼飯ゴチです」


 お昼時をノゾミの旧実験室で過ごしたカナエは、頭を下げて扉から出ようとする。


「待ちたまえカナエ君」

「お代請求ですか?」

「のようなものだよ。ちょっとしたお使いだ」


 そう言って立ち上がったノゾミは、旧実験室のさいおうまで歩いて行く。

 解析用デスクトップパソコンを操作してROMデータを取り出し、ケースに封入した。


「学会に身を置いていた時代のツテで頼まれものをしてね。完成品を暗号変換型共有ストレージに投げ込む予定が、サーバーが不調らしくて使えないんだ。すぐにでも持ってきて欲しいと言っていたが、ワタシは昼から職員会議が続くので、カナエ君が代わりに行ってくれないか?」

「他の方法でデータ送るのはダメなんですか?」

「このデータは最新の研究の一端だよ。クライアントが情報ろうえいを気にしているのでね」

「……でも俺が行くのまずくないですか?」

「自意識過剰だなあカナエ君は。その点については安心したまえ、もちろん誰にも漏らしていない。第一あり得なさすぎて信じてくれない。捕らえられて解剖されたりやしないから安心したまえ」

「はあ……。で、俺はどこまで行けばいいんですかね?」

「二九三階層」

「いやいや遠すぎでしょ! しかもめちゃくちゃ最新の区画じゃないですか!」

「帰宅途中に寄ってくれるだけでいい」

「俺の家は一九七階層です! 九六階層分のぼって帰るとか帰宅途中じゃないですよそれ!」

「ほう、カナエ君はワタシのお願いを断るつもりなのかね?」


 両腕を前に組んだノゾミは、背を反らして胸を強調して、「ふうん……」と上から押さえつけるような目つきでカナエを見やる。

 たじろいだカナエはつい承諾の言葉を口にしてしまう。


「いいですよ、分かりました。行きますよはい」

「そうこなくっちゃあねえ」

「カナエさまの顔付きがなんだか不純ですっ……」


 うむ、とノゾミはうなずいて、ROMデータ入りのケースをカナエに手渡した。


「カナエ君に向かってもらう目的地は、こうの街の中でも最新の研究区画だ。『現象妖精フエアリー』についての研究の最先端をになっている場所でもある。カナエ君はもう高校生なのだから、ものの分別はわきまえているはずだ。……だから、くれぐれも馬鹿なマネはしないように」


 その言葉に、カナエの心臓がバクリと跳ねた。

 ノゾミを安心させるように、カナエは言う。


「──『現象妖精フエアリー』の声がこえるからって、もうしませんよ。あんな馬鹿なことは」


+++++


 ──その声は、カナエにだけこえた。

 その声に、酷使されるうらみや怒りはなかった。


 ……カナシイ、サビシイ、ツライ、ダレカキテ、──タスケテ……


 主語も述語もない、ただ自らの悲痛を表す言葉が耳に届く。

 それはカナエにとってののろいの言葉だった。

 そしてそののろいにあらがえるほど、一〇歳のカナエの心は冷たくも強くもなかった。

 声のこえた場所にがむしゃらに走り出し、街のシステムの一部としてとらわれたその存在を助け出そうとする。

 自分と同じくらいの子どもから、大人にまでみ付いていった。

 しかし、巨大なる権力を前にして、子どものカナエがいたところでそれは無意味に等しい。

 カナエはその存在を助け出すことができず、諸設備の無意味な破壊活動だけが結果として残っていく。


 中学生になっても、カナエは蛮行をやめることができなかった。

 その声に対して、かないフリをすることができなかった。

 罪は蓄積され、やがてその内の一つが決定打となり、刑務所や留置施設を取りまとめた一一二階層犯罪者更生区画に放り込まれることとなる。

 刑務作業をこなしつつ灰色の壁を見つめる数ヶ月の日々の中、カナエは一つの決心をした。

 ──こんなことはもうやめよう。

 声がこえないフリをして平穏無事に生きよう、と。


 少年院を抜けたカナエは、まず自分が通うことのできる高校を探した。

 カナエの家から二三階層下にあるその高校は、点数さえ取ればそれ以外を不問にしてくれるぴったりの場所だった。

 カナエは参考書を買い集めて独学で励んだ。

 真面目に勉学に取り組んだことのなかった中学三年のカナエに、これまでのツケが回ってきた。

 あらゆる自由な時間をすべて勉強に回す。

 全てはごく当たり前の青春を送るために。


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