妖精の物理学 ―PHysics PHenomenon PHantom―

一章「神戸グラビティバウンド──Reverse city──」 ⑧

むろつき君とその妖精の間で言語による意思疎通が成立している。それはつまり……あらゆる国家がどれだけの費用を投じて、どれほどの人員をてがって、どこまでの時間をいても、その記述の一端を知ることすら許されない『ストレンジコード』を、──どこにでもいる一人の高校生が、ただくだけで理解できるということになるのだが」

「そうですね。ただ昔からそうだったんで、おかしいって言われてもよく分からないというか」

「僕を含む君以外の人たちには、単なる一人劇としか認識されていないよ」

「カナエさまぁ……、わたしのことは無視してください……お願いします……うぅ、えっぐ……」

「……いやでも絶対に否定し切れないんじゃないすか? こっちとしても、ないとされているものを出せなんて言われても証明できないというか。なんちゃらの証明とかありましたよね?」

「それは悪魔の証明だよ。確かにむろつき君の言葉を僕は絶対に否定することはできないのかもしれない。しかし同時に、この世界は絶対に君を理解できないのだよ。そもそもとして『ストレンジコード』の解析が一切進んでいないのだから、仮に君が正解を答えていたとしても、今現在の科学水準では君の正しさを照らし合わせるためのを用意できないのが現状だ」

「すいません言ってる意味がよく分からないです」

「じゃあ仮にこうしてみよう」


 そう言うと講師はキーホルダー付きの財布を取り出し、キーホルダーを目線と同じ位置まで持ち上げる。

 赤のドレスを身にまとう小さな少女。

 たそがれ色の長い髪と、水晶細工のへきがん

 それはあの伝説的なはいたにえんの講演の、主役とも言える『せきりよく』の妖精レプルシオンを模していた。


「僕がこのレプちゃんとおしやべりしたとする。──髪の毛がサラサラだ、クンカクンカしてもいいかな? ダメかな? じゃあでるだけは? それもダメ? じゃあ見てるだけでもいい。えっ、視界に入れるな気持ち悪いだって? 君のそんなせきりよくなところも素敵だよ」

「うわー……」


 カナエを含む全クラスメイトがドン引きしていた。


「さてむろつき君。僕はレプちゃんとの会話できているつもりだが、君は賛同してくれるかね?」

「すいませんちょっと無理です」

「ちなみに僕を見てどう思ったかね?」

「率直に言って気持ち悪いと思いました」

「それが君に抱く他者の感情だよ」


 カナエは何も反論することができなかった。


+++++


「カナエさまをバカにするなんてっ! こんのっ! 潰れろっ! えぐれろっ! うりゃー!」


 ──ドギャギャギャギャギュイーン! グリュ。ガスッ。ゴスッ。

 調理場から、怨念のもったレヴィの声とともに鋭い金属音や鈍い打撃音がこだまする。


「ちょっとノゾミ先生! レヴィ一体何やってるんですか!」


 首から上を何かに覆われたカナエの視界は真っ暗だった。

 きつな音を耳にしてつい叫ぶ。


「フルーツティーを作っている」

「フルーツティーってこんな凶暴な調理音しませんよね!」

「果物を圧搾すればより糖度は高くなる。レヴィ君だってあまさで気をまぎらわせたいのだよ」

「どちらかと言えばこれ物理的に気をまぎらわせてません!?」


 カナエとレヴィは校内の旧実験室にいた。

 現在は授業に使われていない校舎の端の実験室を、物理学の講師であるノゾミはか私室のように扱っている。

 以前は室内に並べられていた実験テーブルは、部屋の中央に一つ見える限りであり、その周りには用途不明の実験器具が所狭しと設置されている。

 カナエはその中の一つであるトンネルを輪切りにしたような装置──ノゾミがどこからか仕入れてきて改造を施した小型MRI──に頭を突っ込み、脳内データをスキャンされていた。


「ストレスをつかさどるベータ波が特殊線形を描いている。どうやら君は今承認欲求に飢えているね」

「この機械ってそんなことまで分かるんすか!?」

「ワタシを誰だと思っている? 教室で話し相手が見つかったと思ったらすぐに見放されたな?」

「隠し事できないすね。ノゾミ先生は天才科学者です。……講師とひともんちやくあったんです。俺とまともに話してくれる人とか久しぶりだったんで、うれしかったんすよ。キモい所もあったけど」

「随分とナイーブになっているね……ちなみに職員室でうわさになっていただけだが」

「俺の関心と純情を返せ!」

「──カナエさまぁ! ノゾミさん! 昼食の準備ができましたっ!」


 ノゾミにはレヴィの言葉は鳴き声にしか聞こえないが、そのニュアンスは伝わったようだ。


「ふむ。こちらもちょうどスキャンが終了したよ」


 プシューと空気の抜ける音と共に、寝台がスライドして暗闇が晴れた。

 小型MRIの上には、白と黒のフリルエプロンを着けたレヴィが座っている。

 レヴィは下を通るカナエを見てほほんだ。


「パンツ見えてるぞ」

「カナエさまになら見られてもいいですよっ」

「色目送られてもにんじんからゴボウが二つ生えてるぐらいにしか思えない」

「カナエさまのいけずっ!」


 カナエは興味なさげな視線で姿勢を正すレヴィを見届けていると、ふと視界が陰った。

 寝台の横にノゾミが並び立っていた。

 整った目鼻立ちはどこかだるげな表情を浮かべていて、退屈そうに両腕を前に組み、豊満なバストをぐにゃりとゆがませていた。

 カナエが乗せられた寝台の高さは、ちょうどノゾミのおなか辺りである。

 下へとはみ出したノゾミの胸部は、カナエの顎にかすかに触れていた。

 うつむき加減で、眼下のカナエにささやく。


「──食べるぞ」

「何をッ!?」


 寝台とノゾミに挟まれたカナエの顔はり、転がり落ちるように横から抜けだした。


「昼食をだが」

「意味深なことしないでくださいマジ困ります」

「はてさて、どうやら脳波がいやらしく乱れているぞ」

「いやらしくって何ですか! てかもうスキャンしてないでしょうが」

「さてはこの線形はスケ・ベータ波だな?」

「新しい脳波を作るな!」


 床から立ち上がるカナエを見て、ノゾミはくっくっくとこらえるように笑った。


「すまないね。童貞をいじるのは楽しくてな」

「俺がいつそんなこと言いました?」

「君は昔、同性の友達すらできたことがないとボヤいていたじゃないか。ましてや異性なんて」

「ぐっは」


 ──ゴスッ、ゴスッ。

 小型MRIに座っていたレヴィが、不機嫌そうに足場にかかとをぶつける。


「ノゾミさんはズルいですっ! なんでわたしには無反応なんですかぁ!」

「レヴィ君は一体何に怒っているのかね? それが仮にしつだとして、大人の魅力にカナエ君が鼻息を荒らげさせて、ちんちくりんのレヴィ君には無反応なのは仕方のないことじゃないか」

「分かってて言ってません?」

「ノゾミさんのちちぶくろおばけっー! ヘンタイ白衣エロ教師っ!」

「通じないからって言いたい放題だなオイ」

「カナエ君はお人形サイズに欲情しない健全な人間に生まれたのだよ。良かったね、レヴィ君」

「良くないですっ! なんでカナエさまは変態に生まれなかったんですかぁ!」

「誤解を招く発言をやめろ!」

「わたしは知っているんですよっ! カナエさまが目を盗んでは横目でノゾミさんのおっきな胸をじりじりと観測していることをっ!」

「誰情報だよそれ!」

「ノゾミさんから教えてもらいました! 女は男のえろい視線に鋭いなんとかだとっ!」

「男子高校生の条件反射なんだから許してくれよ……って、え?」


 カナエはレヴィの言葉に引っかかりを覚えた。


「いやちょっと待て、ノゾミさんから聞きましたってどういうことだよ?」


 聞く、という行為は会話の成立を意味する。

 レヴィとノゾミは同じく「しまった」とでも言いたげな表情を浮かべる。

 やがて観念したかのように、ノゾミは白衣から携帯を取り出した。


「一応、ワタシとレヴィ君で会話は成立している。こっそりテストに付き合ってもらっていた。このアプリは試作段階だから、カナエ君には完成してから教えるつもりだったんだがね」


 数時間前の教室で、妖精言語『ストレンジコード』を解読することは誰にもできないと断言され、カナエは否定された。

 それをあっさりとくつがえすようなノゾミの発言に、カナエは絶句した。


「ごめんなさいっ! つい、うっかり漏らしてしまいました」

「今の言葉を日本語に変換して音声再生すると」

『申し訳ありません。我慢するつもりが、思わず失禁してしまいました』

「思いっきり変換ミスってんぞ!」

「もうお漏らしなんてしていませんっ!」

『三ヶ月ほど前まで時々していました』

「なるほどねえ」

「うわあああああああああああああん!」


 ノゾミは実験台に近づくと、カナエの向かいに腰掛けた。

 縮こまりもんぜつするレヴィの頭をよしよしとでつつ、ティーポットからフルーツティーを注いで、渇いた喉を潤そうとした。


「ゲロあまい……」

「それ余計喉渇きそう……」



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