妖精の物理学 ―PHysics PHenomenon PHantom―

一章「神戸グラビティバウンド──Reverse city──」 ⑦

 生徒から茶化されて、カナエは自分が少し語りすぎていたことに気がつく。

 しゆうしんを感じた。


「……むろつき君は、単に知識だけでなく、もっと深い所まで『現象妖精フエアリー』を知っているのだね」

「あ、なんか、すいません!」

「すまない、嫌な言い回しをした僕が悪い。……実は僕も、むろつき君と同じ考えだ。人間は使うものがなんであれ、簡単に人を傷つけることができるからね。『現象妖精フエアリー』だって、勝手に抽出して使役しておいて、いざ何かを起こせばそれのせいだなんて言うのは、筋が通っていない」


 講師は柔らかな笑みを浮かべながら、教科書を手にとった。


「さて、長話をしてしまったかな。生徒諸君、待たせてすまなかった。授業を再開しようか」


 カナエはごこの良さを感じるあまり、大切なことを忘却していた。

 ──なぜこんなに楽しい授業をサボっていたのか?


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 それからの一時間は、カナエの高校生活の授業の中で最も有意義なものと言えた。


「……少し脱線しすぎたね、授業に戻ろう。では、『おとぎの語り手』とも称される『Fairy Tale'r』、僕たちが携帯で使う制御アプリ『エフティ』は、『ストレンジコード』と呼ばれる特殊言語でプログラミングされている。この『ストレンジコード』とはそもそもどういうものかね、むろつき君?」


 またそいつにるのかよ、とクラス中が突っ込みを入れた。


「コアプログラムを記述する未知の言語です。ただ『ストレンジコード』自体、『エフティ』の発明から八年った今でもブラックボックス扱いです」

「まさしく、『ストレンジコード』は今現在でも解析できない未知の言語だ。そして唯一の答えを知っていたはいたにえんは『東京アブソルートゼロ』と共に消えてしまった。ただし、発生させる物理現象とその工程といったものは、『ストレンジコード』でなくても、この世界のプログラミングコードで書き表すことができる。何せ一方通行ではあるが、『現象妖精フエアリー』は人間の言語を理解することができるからね」


 そうやって講師は右手の時計を見やる。時針は一〇時四〇分を指していた。


「もうこんなにっていたのか」


 カナエ自身、ここまで時間の経過を実感できない授業は初めてだった。

 大いに満足していた。

 しかしカナエは、久しく感じた談論の楽しさによって、肝心なことを忘却していた。

 なぜ、自らの選択でもつて、土曜日の授業を出席してこなかったのか。

 ──座学の次に、待ち受ける科目を。


「さて、座学はここまでだ。実習に取り掛かろう」


 先ほどまで座学に一切の関心を示さなかった生徒たちは、実習の段階になっていきいきとしだした。

 談笑しながらおのおのスマホを取り出し、『エフティ』を起動させる。

 幽体化によって収納された『現象妖精フエアリー』を現実世界へと顕現させた。

 三〇にも及ぶ空間の揺らぎが発生する。

 広がり合う波紋は結合と飛散を繰り返し、やがて生徒と同数の『現象妖精フエアリー』が教室に現れていた。

 生徒たちは、ニヤニヤとカナエとレヴィを見つめる。

 まるで何かを期待するように。


「さて、むろつき君。君の持つ『現象妖精フエアリー』の能力を見せてくれるかな?」


 そう言われたカナエは、──笑顔のまま固まっていた。


「あっ、と、その、えっと……」

「どうしたのかね? 『現象妖精フエアリー』の能力を見せて欲しい、と僕は言っているのだよ?」


 はっとしたように、レヴィは目を見開いた。

 何か言おうとする口を、必死に自らの手で塞ぐ。


「その、レヴィは……」

「センセー、その妖精なんもできないんすよ」

「そうっすよ。むろつきのやつ、口だけは達者でも持ってるのは無能力のポンコツ妖精だぜ」


 生徒の飛ばす野次の一つ、「ポンコツ」という言葉にレヴィは肩をビクリとさせた。

 少し前までじようぜつだったカナエをののしることができることが、生徒たちには愉快だった。

 講師は不審がるように首をすくめた。


「どういうことかね? 君の『現象妖精フエアリー』は固有の物理現象を発揮できない、とでも?」

「…………」


 カナエは無言を貫いた。

 しかしその沈黙こそが、何よりの肯定だった。


「それはおかしいだろう。何せ、『現象妖精フエアリー』として存在している時点で、それは物理現象そのものと同義なのだから。何もできない『現象妖精フエアリー』だなんて、そんなものは存在しないよ」


 そんなものは存在しても意味がない、カナエには言外にそう聞こえた。

 カナエは何かを言わんとして、口を開いては閉じる。

 その口をパクパクとさせる仕草を面白がった生徒たちが、連なるようにカナエをからかった。


「あいつ金魚みてーだわ。餌でも待ってんのか?」

「急にしゃしゃり出て来たからねー。ざまあみろって感じ?」

「妖精がポンコツなら、本人もポンコツだよね──」


 ざわめきの中、誰かが発した言葉に対して、レヴィは声を荒らげることを我慢できなかった。


「──カナエさまはポンコツじゃありませんっ!! ポンコツなのはわたしだけですっ!」


 レヴィは怒鳴ったあと、無力感にさいなまれるかのようにみした。

 カナエは教室のざわめきを無視して、焼け溶けた制服の袖で濡れるレヴィの目元を拭った。


「カナエさまっ、くすぐったいです……」

さわごこがいいんだろ? いくらでも触らせてやるから機嫌直せ」


 レヴィはごしごしと頰をこすりつけながら、カナエにキッと上目遣いを送る。


「でもっ、わたしが何もできないせいでっ!」

「何もできないってなんだよ。紅茶れてくれるし、ケーキだって作ってくれるじゃん」

「わたしには『現象妖精フエアリー』としての能力がありませんっ!」

「いらねーよそんなもん。友達が火吹いたり空間凍らせたりできないと絶交するのかよ?」


 教室中の嘲笑はより高まった。

 カナエを擁護しようとした講師でさえ……口をぽかんと開けて固まった。

 講師はこれまでの好意的な対応とは打って変わって、理解できないものを見る目でカナエを見やった。

 そして思わず尋ねてしまう。


「──君はいったい誰と話しているのかね?」


 カナエはつい口が滑ってしまったとでも言いたげな、気まずそうな表情を浮かべた。

 しばし頰をき、波風を立てないようない切り抜け方を思案したが、何も思い浮かばず、ゆえにカナエは愚直なまでに正直に答えてしまった。


「そこのレヴィと、話してました……」


 講師は言葉を失っていた。


「センセーそういえば土曜日以外見ないよね」

現象妖精フエアリー学だけの非常勤なんじゃね?」

「じゃあアイツのこと知らないのも仕方ないな」

「いやいや、知ってたらあんな親しげに話さないって」

「……どういうことですか?」


 講師の問いに対して、一人の男子生徒が答えた。


「そいつ、妖精と会話できるとかいう頭おかしい変人ですよ」


 次いで教室内の攻撃的な流れに合わせて、群れにまぎれる女生徒が痛恨なる一撃をたたき込んだ。


「いい加減お人形遊び卒業しろって」


 ワンタッチ操作で携帯に録音されたカナエとレヴィのやり取りが、教室内に響き渡る。

 カナエを除く他の人間にこえる一連のやり取りは、とても会話と呼べるものではなかった。


 ──さわごこがいいんだろ? いくらでも触らせてやるから機嫌直せ。

 その鳴き声はから発せられる高音に似ていた。

 音声録音に取り込まれたレヴィの激情は、異なる音階を行き来する不協和音となって再現される。

 ──何もできないってなんだよ。紅茶れてくれるし、ケーキだって作ってくれるじゃん。

 再びかなでられるワンフレーズの不協和音は、先ほどよりも悲壮感が強まっているようだった。

 ──いらねーよそんなもん。友達が火吹いたり空間凍らせたりできないと絶交するのかよ?


「……むろつき君は、妖精と会話ができると?」

「……はい」


 悪意を振りまくクラスメイトのように、講師はカナエを責めることはなかった。


「それは興味深いことだ。本当にそうであれば、『現象妖精フエアリー』の研究史に残る出来事だ」


 そして講師は、カナエを肯定するわけでもなかった。


「しかしね、『現象妖精フエアリー』に詳しい君なら知っていることだろうが、妖精の話す言語は、今現在のところ『ストレンジコード』そのものであると推測されている。これは『エフティ』のコアプログラムを書き記す解読不能の未知の言語と、全く同質のものだ」


 現象妖精フエアリー学を正しく教える立場ゆえに、カナエの言葉をみにすることはできなかった。



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