カナエにべったりとくっついた、波打つ金髪を肩より長く伸ばすレヴィを講師は指差した。
「すいません、じっとさせとくので許してくれませんか? こいつしまわれるの嫌っぽくて」
レヴィは溶けた制服を「触り心地がすべすべでいい」と言っていた。
カナエはそんなレヴィを制服から剝がして、机の端に設置した。
レヴィは唇に指を滑らせ〝お口にチャック〟をした。
「……いいでしょう。ついでに、チャイムギリギリに教室に駆け込んだ努力を認めて、弁解のチャンスを与えよう。授業を一学期分丸々サボっているだけで、もしかしたら君は僕の担当するところの〝現象妖精学〟に長けた優秀な生徒なのかもしれない。そんな生徒が留年するのは惜しい。だから答えてくれるかな、室月君。七年前に日本を崩壊させた、その事件の詳細を」
講師の顔付きはまるで期待はしていなかったが、一応として考慮するといった形を取った。
「……一五〇〇万人もの人間の命を奪ったとされる最大規模の『現象妖精災害』、都心部から半径一五キロ圏内を厚さ六〇〇メートルの永久凍土に閉じ込めた『東京アブソルートゼロ』です」
だから講師は、カナエから思いもよらない的確な回答が返ってきたことにまず驚いた。
「……ほう、なかなか正確だね。続けようか。灰谷義淵による実験暴走は一つだけではなかった。『東京アブソルートゼロ』を皮切りにして、灰谷義淵が研究拠点を敷いていた日本国内の七ヶ所にて『現象妖精災害』が立て続けに発生した。これらを総じて何と言うか?」
「それらの一連の異常現象は、一纏めに『七大災害』と呼称されるものです。順番的には東京を始めとして、札幌、福岡、仙台、名古屋、広島、そして神戸。ちなみにその研究拠点っていうのも、灰谷義淵がそう公言しているだけで、存在は眉唾ものです。灰谷義淵が個人で所有するラボは、公言されていた東京以外、現在に至るまでその全てが未発見だったかと……」
「──俗に言う『秘密基地』だね。その発見を目的とする人たちは国や企業、個人のオタクにと枚挙に暇がない。いかにも都市伝説的で、確かに眉唾物ではあるが、しかし、唯一住所が公表されていた東京のラボで、その日灰谷義淵は『現象妖精』の実験をしていた。そしてその実験が最悪の『東京アブソルートゼロ』へと至った。その後の六ヶ所は、彼の公言していた『秘密基地』と同じ場所。……後は不在の魔女裁判だ。それに、消極的な選択にはなってしまうが、七年前でも、そして今でも、そんなことができる人間は彼以外にいないのだよ」
「やっぱり灰谷義淵は、どこかで道を間違えたんですかね……」
改めてカナエは、灰谷義淵の偉大さと、彼の犯した罪の大きさを認識した。
「室月君はよく勉強しているね。久しく語り合えた気がするよ」
どうやら講師はカナエが現象妖精学を存外よく勉強していると認識して、これまで無出席だった非礼を半ば許してしまったらしい。
カナエも少し拍子抜けしたように苦笑いした。
──現象妖精学とは、二〇四〇年代から全国一律で追加された教育カリキュラムである。
土曜日の始業開始からお昼までぶっ続けで三時間という国の熱意に、生徒のやる気は反比例した。
そんな生徒に釣られてかつての熱意を失っていた講師にとって、カナエの存在は新鮮だったのだろう。
しかし教室内は、ぽっと出のカナエがでしゃばるのが許せないといった空気だった。
「……日本崩壊後は、国際連合がその後始末として介入し、常任理事国による共同統治が図られることとなった。日本という国は、日本のものではなくなった。アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、中国の五カ国、後述の一企業を加えて六つの存在による統治体制が築かれたのだよ。『七大災害』の影響によるものか、日本国内では取り込み可能な『現象妖精』の数が劇的に増加した。灰谷義淵のお陰で日本が研究の最先端を行っていたこともあり、『現象妖精』が日本を滅ぼしたにもかかわらず、共同統治を隠れ蓑にした理事国間の技術競争は加速した。以前にもまして苛烈に、そして自由に研究開発が行われることとなった」
講師はそこで一息をついた。お茶で喉を潤して、語りを再開する。
「『七大災害』という特殊な土壌は、『現象妖精』の研究に貪欲な理事国にとって見逃せないものだ。……しかし神戸に関しては、その五カ国全てが白旗を上げた。何せ、重力が反対に作用している。元々の街が地表から根こそぎ剝がれて、〝逆大気圏突入〟によって地上のほぼ全てが燃え尽きた。単純明快にして、手の施しようがない。東京のように、閉鎖区域として領土を廃棄して、指をくわえて眺めているしかないと、誰もが思っていた。……たった一つの存在を除いて」
「──アズガルドファクトリー……」
「そう、ドイツ連邦共和国に本拠地を置く多国籍工業企業、現在世界一の資本を保有するアズガルドファクトリーだ。理事国ですら匙を投げた『神戸重力反転』にいち早く対応してみせたのだよ。同企業が神戸跡地に有していた開発途中の軌道エレベータを基にして、重力の反転する境目から、軌道エレベータに肉付けを施すかのように人が居住できる階層を作り上げた。アズガルドが秘密裏に開発していた未公開建築用『エフティ』を駆使して、居住可能階層は一段、また一段と積み上がっていく。その行いはまさしく前人未到であり、不可能を可能にしてみせるような、かつての『ドクター・ギエン』を彷彿とさせる神の御業であったのだよ……。あ、あ、ゴホッ……、ちょっと喋りすぎたか。室月君、続きを頼めるかな?」
「はい、えっと……重力の反転自体は兆候が見られていました。事前に避難することはできたので、『現象妖精災害』の規模に反して、神戸での死傷者は他の『七大災害』に比べると少ない方でした。それでも、一三六名の命が失われたのは事実です。生き残った避難民も、住む場所を失いました。『逆さまの街・神戸』を完成させたアズガルドはそんな避難民を無償で受け入れてくれました。……その功績を国際連合は無視するわけにはいかず、当時理事国同士で成り立つ統治会議に、アズガルドの最高取締役エーゲンフリートを招き入れました。そしてアズガルドは、一企業でありながら日本を統治する六つ目の存在になりました、……で合ってますよね?」
「お手本のような回答だよ。室月君の進退に関しては、僕の口からオッケーと言っておこうか」
「ありがとうございます……」
「カナエさまがこんなに勉強熱心だなんてっ……。わたし感動いたしましたっ!」
「おい室月、そこの妖精ピーピーうるせえぞ」
カナエは「授業中だから」と、レヴィに向けて唇に人差し指を付けるジェスチャーをした。
「本当によく勉強しているよ。その意欲はどこからくるんだい?」
カナエはその問いに詰まった。
確かにカナエは、取り立てて現象妖精学を勉強した覚えはない。
教科書だって今日初めて開いた。
それでも、こうやってすらすらと言えてしまえるのは……
「……たぶん『現象妖精』のことが、好きなんです」
ガバッと跳ね起きたレヴィの頭を、カナエは呆れ顔でいなすように指先で押さえ込んだ。
「しかし室月君が先ほど述べてくれた知識は、『現象妖精』の負の側面とも呼べるべきものだよ」
それでも好きなのか、と講師の目は言いたげだった。
まるで見当違いだとカナエは思った。
「『現象妖精』に負の側面なんてものはありません」
「……『現象妖精』は、現代の戦争に取り入れられている。そのことについてはどう思うかね?」
「『現象妖精』は武器でも兵器でもありません。『現象妖精』はちゃんと生きてるんです。『現象妖精』の純粋さに付け込んで、利己的に使役する人間側が全て悪いんです」
「室月君は、『現象妖精』は誰にも使われずに、伸び伸びと生きて欲しいと思っているのかね?」
「……いえ、そこまでは思っていません。『現象妖精』は幸せとか何も知らないし、それに寂しがり屋なんです。だから、優しく使ってやって欲しいと、俺は思っています」
「幸せとか何も知らないって何様だよ」
「寂しがり屋だってよ」