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二〇三二年三月八日、スウェーデン・ストックホルム某学会にて、その男は前代未聞の物理学理論を提唱した。
のちに彼は、齢三五にして世界に最も大いなる影響を与えた物理学者『灰谷義淵』として、あらゆる史実に深く刻まれることとなる。
「世界は古代ギリシアの偉人たちの言う火風水地からなる四大元素でできている? 全然違う。それは何千年前の終わった思想哲学だ。では世界は全てが数式で記述可能なニュートン力学でできているのか? いいや、当然違う。アインシュタインが『絶対』という概念をエーテル論ごと物理学から駆逐した。真空中の光速度を基準とした相対性理論がね。加えて量子力学、素粒子論の提起により、今や世界というものは記述不可能の──それも観測不可能の──ミクロコスモスの振る舞いの集積でかたどられた極めて曖昧なものとなった。そして今ホットな物理学は超弦理論だろう。素粒子を『一次元の広がりを持つ振動するひも』と定義する。これは相対性理論と量子力学を融合した、全物理学者の悲願となるあらゆる相互作用法則の統一──『万物の理論』となりうるものだ。日進月歩の科学の発達は、あと少しというところでこの統一を目前にしている。そう、もう少しで物理学は完成して、世界は完全に定義される──はずだった。そんな完成寸前の物理学を、今この時を以て私がリセットしよう。それはさながら〝逆行する世界の定義〟。君たちが築き上げてきた最新の物理学を台無しにして白紙に返す、滑稽なちゃぶ台返しをして見せよう。いや、外国だとこの言葉では伝わらないか? ……そうだな、お膳立てされたものを全てひっくり返すんだ──こんなふうにね」
そう言うや否や、義淵の目の前に設置されていた長方形のテーブルは──くるりと跳ね飛び天井へと勢いよく激突した。
鈍い振動と甲高い破砕音が同時に伝播する。
吹き抜けフロアで三階分、床からゆうに八メートルは離れているであろう天井に、四つの軸足が綺麗に突き刺さっている。
テーブルの上に敷き詰められていた論文の留め金がことごとく外れて空中で紙吹雪のように舞い上がり、詰めかけた学者や記者の頭上へと降りしくる。
彼らは一様に口をポカンと開けた間抜け面で頭上を仰ぎ見て、ぎこちないブリキ人形のように頭の角度を戻して義淵を視界内に収めた。
聴衆は目の前で起きたことが理解できなかった。
義淵はテーブルに一切手を掛けていなかった。
座ってすらなく、テーブルから少し下がって立ったまま演説していた。
しかし、何らかの見落としがあったとしても、数十キロはあるテーブルを素手の膂力で天井へと突き刺さる威力で投げ飛ばせるものではない。
彼らは義淵の右手にあるものに注目した。
それは誰もが知るスマートフォンだ。
「皆、君のことを知りたがっているんだよ、出ておいで」
義淵がそれを片手でフリック操作すると同時に、空間が水面の波紋のように揺らめいた。
波紋が同心円状に拡散し、かき消えると同時に──小さな人型の何かが義淵の目の前に現れた。
それは人形大の裸体の少女の風貌をしていた。
鮮やかな黄昏色の髪が素足の先まで伸びており、纏まってはためく様子は白絹のカーテンに透けて映る夕暮れを想起させた。
眼球に収められた瞳は深い藍色を基調としており、水晶細工で編み上げたかのような神秘的な幾何学模様が数ミリの瞳の中にぎっしりと埋め込まれている。
聴衆は少女の放つ神聖性に恐れ慄いたように、気まずそうに視線をその裸体から逸らす。
少女はその視線に気づいたのか、単なる気まぐれなのか──それとも小さな少女の持つ人間的感情のようなものの表出なのか、背後の義淵を振り向き、言語ではなく、高音の鳴き声を上げた。
それは一流の音楽家が弦鳴器で奏でる最高級の音質に似ている。
「おっと、服を再現していなかった。すまないね」
義淵が再びスマートフォンで何らかの入力を行う。
今度は先ほどよりも小さな空間の揺らぎが少女を中心に生まれては消えて、その最中に少女趣味の真紅のフリルドレスで着飾られていた。
少女がまた鳴き声を上げる。
その音の響きは、人間の持つ喜怒哀楽における喜びの情緒を纏っている。
再び前を向いた少女の顔付きは、同じ無表情でも先ほどより緩んで見えた。
義淵は両手を広げ、人形のように小さくて美しい少女の存在を声高々に宣言した。
「これが新しい世界の法則だ。物理現象を引き起こす原因たる妖精、略して『現象妖精』と言うべきかな? 宝石の瞳を持つ人形みたいな女の子──〝抽出〟されて現実世界へと顕現した場合における〝彼女ら〟の特徴だ。……さて、ついさっきのちゃぶ台返しはこの女の子によるものだ。こちら側の言語で言うならば『斥力』の力を作用させた。斥力、君たちが必死に探しだそうとしていた、重力とは対にして同一なる未知の法則だよ。今ついでに立証したからね?」
聴衆は一切口を挟もうとしない。
魔法が如き現象を目の前にして、つばを飲んで息を殺して、彼らはただただ義淵の講演を見て聴くことしかできなかった。
「『現象妖精』は、空間に遍く存在している。〝抽出〟以前の彼女らは誰にも見えず、しかしどこにでもいて、どれだけでもいる。『現象妖精』の大多数は、この世界で発見され定義された物理現象通りにそのまま振る舞っているものと思っていい。電磁相互作用の妖精やファンデルワールス力の妖精、エントロピー弾性の妖精からロンドン分散力の妖精、Ⅱ‐π相互作用の妖精まで、君たちの知る物理現象はこの可愛い『現象妖精』が見えないところであくせく働いた結果なのさ」
義淵はここで語りを一時中断した。
どうやら舌が回りすぎて喉が渇いたらしい。
「あー、レプちゃん、あそこの紅茶取ってきて」
斥力の名を冠する『現象妖精』の小さな少女は、頷くように首をこくんと動かした。
そして水晶細工の瞳を講演場の隅に置かれたティーポットと付属の紙コップに向けた。
すると誰が手に取るでもなく勝手に紙コップが容器から抜け、バーがひとりでに下に落ち、安物の紅茶をなみなみ注いだ。
縁まで満たされたコップは極めて精確な水平移動で義淵の手元まで飛来する。
義淵からの「ありがとう」という日本語をレプルシオンはその蒼眼で受け止めた。
「この香りの安っぽさは癖になるね、もう少し予算を割いた方がいい。……さて、まとめといこうか。常識は否定された。最新の科学は終わりを告げ、非科学が科学となった。この世界の法則は、超弦理論でもなく、相対性理論や量子力学ですらない。勿論ニュートン力学でもなく、もっと遡って、コレはどちらかと言えば君たちが取るに足らないと一笑に付したエーテル論や四性質説に似ている。そう、実にファンタジー! 我々が探し求めた真実は、もっともっと馬鹿馬鹿しくて、途方もなくて、呆れ返るような、しかし実際目にしてみると『可愛いからどうでもいいや』と引き笑いで諦めてしまいそうな、そんなものだったんだよ。
……たった今、世界の法則を再定義しよう。
──妖精の物理学、とね」
その後の世界の発展は目覚ましかった。
義淵のスマートフォンに込められていたアプリは『Fairy Tale'r』。
略して『エフティ』と呼ばれるそれは、この世界のものではない妖精言語『ストレンジコード』でプログラミングされていた。
義淵は『エフティ』を無償で提供した。
先進国ではもっと使いやすい実用的な『エフティ』を、あるいはもっとスマートな戦争のための『エフティ』を作るため、開発ラッシュが続き、停滞していた経済成長が再び始まってゆく。
灰谷義淵が本拠地を置く日本では、先進国の中でも群を抜いて『エフティ』開発の最先端を独走していた。そして──
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──そこで資料映像が途切れた。
教室が明るくなり、スクリーンが自動で巻き取られていく。
「しかし高名なる物理学者灰谷義淵は、二〇三五年一一月一九日の──今からだいたい七年前の話だね──とある『現象妖精』実験の暴走によって、一転して世界最悪のマッドサイエンティストへと位置づけられた。そしてその事件によって、日本という統治国家は崩壊した」
教壇に立つ熟年男性講師は、ちょうど前列の目の前に在席するカナエと、摩擦熱で繊維が溶けたカナエの制服に頰ずりするレヴィを見やった。
「室月カナエ君、その『現象妖精』はどうにかできないのかね?」