妖精の物理学 ―PHysics PHenomenon PHantom―

一章「神戸グラビティバウンド──Reverse city──」 ④

「カナエさま、これも社会の授業でやっていま──きゃっ!」


 取り乱したカナエが激しく後ろを振り向き、その反動でレヴィがリュックから投げ出された。


「おい大丈夫かっ!」

「きゃああああああああああああああ」


 上昇気流に乗せられたレヴィは上へとカナエの手の届かない所まで離れて行くかと思えた。


「あっ、わたし飛べるんでしたっ」


 くるりと向きを変え飛んできて、落下するカナエに並んだ。


「良かった! レヴィは無事かあ、じゃねえよ!! ふざけんな! 手が熱くて溶けるって!」


 カナエは死を直感した。

 飛ぶのはナシにしても、生きて帰るには取りえず落下速度の加速を止めなければならない。

 カナエは風ではためく制服の裾の上から『接続ポール』をにぎり込む。

 同時に靴底で『接続ポール』を力の限り挟み込んだ。

 つかんだ制服の繊維が熱されて溶けていく。

 キュルキュルキュルキュル! と靴のゴムが擦り切れる音は、落下がむまで続くこととなる。

 自然再現区画とその地盤を突き抜けて、カナエの住む階層と似たような街並みが広がった。

 落下速度は緩やかになり、一九四階層の落下防止用安全さくと丁度同じ高さで停止した。

 さくまでは五メートルほど離れている。

 自力で地面に帰還することは不可能だが、幸いにして、目の前にはさくに手を乗せて外の景色を眺める少女がいた。


 少女はアレンジを施したセーラー服を身にまとっていた。

 その襟元や袖口などの随所には星やハート形、動物を模したしゆうが施され、スカート丈も街の規律を無視したかのように太もも半ばまで詰められている。

 少女は黒髪のロングストレートに、フレームが水色の眼鏡を掛けており、その童顔には理知的なふうぼうが見て取れた。

 丁寧にセットされた黒髪の上からは、げつけいじゆを模したカチューシャ──束ねた葉でかんむりを成しているような髪飾り──が留められている。


「……さっぱり意味が分からないわ……………………」


 いきなり上から滑り落ちてきて、目の前の位置で停止したカナエを見て少女は思わずぼやいた。

 ──直後、か少女は口が滑ったとでも言うように、左手の指で唇を押さえつける。


「……? と、ともかく! そこの学生さん! いきなりだけど理由を聞かずに大人を呼んできてくれるか!? 今ちょっと手が離せなくて……」


 カナエは必死に懇願するが、少女は唇に手を当てたきり無言だった。

 棒につかまるカナエを、少女はげんな目つきでじっと見つめる。

 じやつかん引いているようだった。


「何か言ってくれよ……まだリアクション取ってくれたほうがうれしいんだけど!」


 さくの外側で棒につかまるカナエと、五メートルを隔ててさくの内側にいる少女との間には、なんとも言えない沈黙が漂っていた。

 カナエは気まずそうな表情を浮かべ、言葉を続けようと──


「──さっき電話で、例の違法業者の引渡し成立が確認できたぞ」


 ぶっきらぼうな声が、少女の遠く後ろから聞こえてきた。

 ビジネススーツをラフに着こなしたオールバックヘアの青年が、少女の元へと歩いてくる。

 どうやら青年の位置からは、少女に隠れてカナエが見えていないようだった。


「現場のブツはあるだけ全部おうしゆうした。後は専門家にでも任せて、お前の里帰りにでも付き合ってやるよ──って、何だコイツ!?」


 ある程度近づいたことで、青年はカナエの存在に気づく。

 青年の視界内に収められた少女の体から、『接続ポール』につかまるカナエの姿がはみ出たのだ。


「何だよこのブタの串焼きみてえなのは……」

「そこの学生さんの保護者ですか!? ……てか若くね? ……と、ともかく、俺今めちゃくちゃピンチなんですよ! どうか俺をこの『接続ポール』から助けてもらえないでしょうか!?」

「すまんが全く意味が分からねえ。でも確か、こうじゃ『接続ポール』の滑り棒は度胸試しみたいなもんだろ? ……ニイチャンは自分で滑っておいて、いざ怖くなると助けを呼ぶのか?」

「いや、違うんです! 一般的なこうの度胸試しと呼べるものは一階層分の距離を滑るだけなんですが、今俺が直面しているアクシデントは──」


 言い訳じみた言動を早口でまくし立てるカナエを、青年はピシャリと一蹴した。


「──ちょっと情けねえなあ。自分のケツぐらい自分で拭いとけよ」

「…………」


 カナエの表情筋が高速で振動する。

 それを面白がったレヴィがカナエの頰をつついた。


「わあ、カナエさまがマナーモードみたいですっ!」


 静観していた改造制服の少女が、たまらず小さく、ぷっと吹き出した。

 相変わらず指で唇を押さえつけたままではあるが、それは発言を我慢するというよりも、笑いをこらえているようだ。


「まあ、頑張って滑ってみな。何事も最後までやり切るってのは大事だぜ」


 青年はカナエから興味をなくしたとでも言うように、きびすを返して去っていった。

 青年に釣られて少女も、カナエからくるりと背を向ける。

 唇を封じていた指を外し、両手を背に回して青年を追いかける。

 どこか優雅さを感じさせる後ろ姿から、ささやき声が発せられた。


「──滑ってみなさいよ、このなし」

「ンン……!!」

「カナエさまが激しくマナーモード!」

「さっきから何言ってんだおめーは」

「カナエさまっ、通報して助けてもらいましょう! リュックから携帯をお取りしますねっ!」

「ああ、そうすりゃ良かったな。でも、もういい」

「ほえ?」

「うん。滑ろう。一キロちょい」


 カナエはすがすがしい表情で言い切った。

 ……そうやって、ある種の余裕が生まれると、それまでとは違った思考が頭をよぎる。

 例えば、改造制服の少女が元々眺めていた方向、など。

 青年の会話によると、どうやら少女は里帰りをしているらしかった。

 同じこうの生まれと聞くと、先ほど少女に植え付けられたしゆうしんは忘れ、どこか親近感すら湧いた。

 カナエは自分が生まれた場所に──ふと真上に視線を向ける。

 レヴィもカナエにならって、あんぐりと上を向く。


 ──約一〇キロ先に、街の上にある天井とは姿形が全く違う、見渡す限り果てまで続く別の天井が覆っていた。

 殺風景な焦げ茶色の天井がどこまでも一面に広がっている。

 しかしそれは、天井と呼べるものではなく、天蓋と言った方が正しいだろう。

 はるか遠方を見やれば、焦げ茶色から深い青色へと色彩がくっきりと変化しているのが見て取れた。

 そう、大地から海へと。

 本来ならば人の立つべき大地の天蓋が、積層都市『逆さまの街・こう』を覆い尽くしていた。


 ──その街はことわりに反していた。

 さながら天から地へと伸びる、反転するバベルの塔が如く。

 街は地表から静止衛星へとつながる一本の構造物、軌道エレベータに沿うようにして建設された。

 成層圏下部、高度二〇キロに存在する〝重力反転境界面〟を基盤とし、居住、オフィス、研究、自然再現区画などを重ね続けて現在二九八階層。

 全高、直径共に一五キロを超える規模を持つ積層都市──


 ──『逆さまの街・こう』は、『七大災害』における復興都市のモデルケースである。



刊行シリーズ

妖精の物理学 ―PHysics PHenomenon PHantom―の書影