妖精の物理学 ―PHysics PHenomenon PHantom―

一章「神戸グラビティバウンド──Reverse city──」 ③

 リュックの開け口のふちに手を掛けたレヴィの表情はとてもしてやったり感が満ちている。

 少ししゆんじゆんしたが、どうせ遅刻するんだからいくら遅れても変わりやしないと考えて、カナエはレヴィの指示に従うことにした。

 今、レヴィの瞳の中のお星様を数えたら幾つになるだろうか。

 そんなことをカナエは考えながらこうの街を疾走する。

 街並みは新しく、色とりどりの建築物が所狭しと並び尽くす。

 カナエ宅のようなプレハブ作りもあれば、木造建築から異人館風のレンガ作りまで、ジャンルの区分なく乱立している。

 マンションやビルといったものも所々見かけるが、高さは一律で八階相当までのものとなっている。

 その建築高度制限は景観を乱すからというものではなく──単に光源の邪魔だからである。

 街の上に広がるものは青空ではなく、高さの限り有る灰色の天井なのだ。

 等間隔で敷設された高明度の──『フオトン』をつかさどる『現象妖精フエアリー』によって稼働する──照明装置が照らしだす。

 光源だけではなく、街を維持するシステムの一部として『現象妖精フエアリー』は必要不可欠である。


 ──カナエはこの光が嫌いだった。


「このあとどうすればいいんだ? この先行き止まりなんだけど」

「その行き止まりでいいんですっ。街の端っこまで向かいましょう!」


 走りながらカナエは周囲の人々を見渡す。

 こうの街には、外国人が当たり前のように沢山いた。

 ぱっと見では、日本人の次にゲルマン系のドイツ人が多いようだ。

 走ること約五分。

 帰宅部で運動不足だったカナエには、たった五分の走りこみでも限界に近い。

 面倒になって、もはや走るのをやめて疲労時特有の斜め上を向いたスタイルで歩いていた。

 どこまでも代わりえのしない天井の灰色を眺めていたが──突如青色に切り替わった。


 西三四五度と書かれた標識が落下防止用安全さくに固定されている。

 久しく街の外を眺めていなかったカナエは、ふとその光景を写真に収めたくなった。

 携帯を正面にかざすと、ここぞとばかりにリュックから飛び出したレヴィが隅っこでひそやかにピースした。

 カシャッ──

 ──鮮明な青に、線を引く無数のにびいろ

 目の前には雲ひとつなく広がる青空があった。

 しかしその空の絶景を台無しにするかのように、にびいろのポールが何本も何本もまばらに乱立していた。

 さながら青色のキャンパスの上から灰色の絵の具を浸した絵筆を上から下へと乱雑に塗りたくるような景色だった。

 ポールは真っ直ぐに伸びるものだけではなく、右に左に勝手気ままに傾くものも見て取れる。

 見方を変えれば、このポールであみだくじができそうだな、とカナエは勝手な感想を抱いた。

 彼方かなたまで望む空と安っぽいポールの群れ、それがカナエの住むこうという街の端っこだった。


 カナエは満足げに携帯をポケットにしまうと、さくから身を乗り出して下をのぞいた。

 眼下には数メートルものぶ厚い地盤を隔てて、一九六階層のオフィス街が広がっていた。

 オフィス区画はその用途から居住区画よりも高さがある。

 連綿と続く階層と階層は、積層するミルフィーユのように幾重にも連なり続けている。

 カナエははるか下のその果てを探すように、階層の一番下までわせようとしたが、ある距離からは白いもやに包まれて何も見えなかった。


「ここまで来ちゃったよおい。ここから二三階層下の俺の高校までどうやって行くつもりなんだ? …………おい、まさか落ちろとでも言うつもりか?」

「はいっ! お察しの通りでございますカナエさまっ!」


 ガクッ、とカナエはさくに体重を預けてしまう。


「街と街を行き来するためには、『エレベータ』を使うしかないんだぞ」

「……ええっと、カナエさま、これがなにか分かりますか?」


 レヴィがゆるやかに飛行してポールをトントンとたたく。

 それはどんよりとしたにびいろをしている。

 街のあちらがわから伸びてきて、ゆるやかに曲がりながらさくこちらがわの地層へと深く刺さっていた。


「なんかの鉄パイプ?」

「違いますよっ、階層と階層を外側から補強する『接続ポール』です。ちなみにそれは鉄じゃなくて炭素結晶で、『現象妖精フエアリー』によって加工された絶対折れないすごく硬い棒なんですよっ」

「お前めっちゃ詳しいな」

「社会の先生の言葉を借りました! カナエさまは幸せそうによだれを垂らしていましたがっ」


 珍しくレヴィに何かを教えられ、カナエは思索した。


「じゃあ何、街の上に街を作るときに後乗せ後乗せで、この景観丸潰しのったい棒どもが何重にも重なっていったわけか。見慣れた光景だったけど、改めて見るとすっげー無計画だな」

「お菓子にあまさが足りないからって砂糖をドバドバまぶしていくわたしみたいですねっ」

「市販の糖度基準値に慣れろ! ……で、レヴィは俺に、滑り棒をしろって言ってるのか?」

流石さすがはカナエさまっ、すぐに分かってしまいますっ」


 カナエは昔を思い出す。

 小学生の頃──正確に言うならば一〇歳前後の記憶だ。

 このの度胸試しと言えば一階層分下へと続く滑り棒だ。

 カナエはそれをはやし立てる側ではなく、やらされる側だった。

 しかし同類の要求は何度かんだことはあれど、この滑り棒だけは一度たりとも決行したことはない。

 それ以外にもカナエが後ろ暗い少年時代を過ごす要因となった出来事は数多あまたあり、目を背けたくなるようなさんたんとした記憶がノンストップで脳内再生されていった。


「うへえ」

「どうされましたっ? 口元がヒクヒクされていますが?」

「ちょっとなつかしんだだけだ。……よし、やろう」


 カナエは腕まくりをして再びさくへと近づこうとした。


「カナエさまっ、お待ちください! わたしが接続先を見てまいりますっ!」

「おう、任せた」


 レヴィはシュバッと空の中へと飛び出した。


「ええっとですねっ、うーん……、あ、これです!」


 レヴィが指し示したポールはさくから手の届く場所にあった。

 これならそこまで危険なくつかまることができるだろう。

 レヴィは戻ってくるなりリュックの口から頭を出す定位置に収まった。


 カナエは思う。

 決して過去のトラウマめいたものに決別を告げたいとかそういうわけではない。

 目の前に棒があったら滑りたくなるのが男ってものなのだ。

 そう、意地になってはいない。

 カナエは身を乗り出してポールにつかまり、一声を放つなり足場を離れ落下感に身を任せた。


「おら見てろよあのクソガキどもめがッ!!」

「?」


 カナエはスルスルと滑り落ちていく。

 数メートルの厚みを持つ地盤を通過し、階下の街並みを見下ろす。

 カナエの住む街では見当たらない高層ビルがところ狭しと並び続けていた。

 すぐ目の前のビルでお仕事していた人たちは、無数にひしめく『接続ポール』の一つを絶叫しながら滑落するカナエを見て表情を固まらせた。


「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

「風気持ちいいですねっ! ねっ!」


 約四〇メートルの滑り棒だ。

 怖くないわけがなかった。

 重力加速度が上乗せされて速まる落下感は、鉄のびたジェットコースターさながら生きたここのしない時間をカナエに提供した。


「やっぱ無理やっぱ無理やっぱ無理やっ……」


 しかしそれももうすぐ終わる。

 本当の意味でのエレベータのように、目の前にあるビルの階数が段々と下がっていく。

 もうすぐこの『接続ポール』はさくの内側へと侵入する。

 そして空に投げ出されたカナエをさくの内側へと運び届けるのだ。


「地面。恋しい。帰ろう」


 そしてオフィス区画の地表へと近づき、──目の前をそのまま通り過ぎた。


「……は?」


 今度は一九五階層自然再現区画、通称『ブナの森』がカナエの眼下に展開された。

 ビルの代わりに巨大な広葉樹林が隙間なくい茂っている。

 森林の合間には『エレベータ』──地表から天へと伸びる計二六本もの灰色の巨大な柱──があちこちに点在している。

 豊かな緑と灰色の建造物を縦横断するようにして、透き通った川が迷路のように線を引いていた。


「緑がれいだなあ空気がしいや! じゃねえだろちょっと待てレヴィどういうことだ! すぐ下の階層で終わるんじゃなかったのこれ!?」

「何を言っているのですかカナエさまっ」


 後ろから顔を出したレヴィは、きゃぴっとした笑顔でさらりと言い放った。


「──一九七階層から一七四階層まで直通ですよっ」

「はあああああああああああああああああああああ!? 二三階層分って何メートルあると思ってるんだ一キロぐらいあんぞテメエ!」

「途中でお仕事階層や自然いっぱい階層を挟んでるので、精確にはあと一・二キロですっ!」

「余計ダメじゃねえかあああああああああああああ!」


刊行シリーズ

妖精の物理学 ―PHysics PHenomenon PHantom―の書影