扉の外

第1章 ⑩

 最近はシャワーを使う生徒も少なくなっていた。自分の身だしなみなどに気をつかわなくなっているのだ。

 和泉は画面の前に立つ紀之に気づいて、ちらりと視線を向けたが、無言で自分のシートへと戻っていく。タオルを背もたれのハンガーにかけてからシートに横になった。

 紀之はそんな和泉から視線を外して、再びマップを見つめた。ぼんやりと立ったまま考えをめぐらしていると、背後に気配を感じた。

 背後には和泉いずみがぼうっと立っていた。

 和泉はのりゆきの視線を避けるように販売機へと進む。販売機の前に立ってから視線をうろうろとさせていた。


「ねえ」


 視線を画面に戻した紀之に、和泉が声をかけた。


「何?」

「あのさ、何か必要なものがあるなら言って」


 和泉は販売機を見つめたまま言った。


「いらない」

「……でも、君、最近だれからも食べ物とかもらってないような気がするわ」

「いらないって。おまえの優越感を満たすために、食べ物もらう気はない」

「そんなつもりはないわ」

「じゃあどういつもりだ? ひまつぶしに話し相手にでもなれっていうのか」

かんちがいしないで。別にあなたなんかと話したいわけではないわ」


 和泉は紀之をにらんだ。


「じゃあ放っとけよ」

「分かった」


 和泉は冷静に答え、販売機に視線を戻した。

 紀之はそんな和泉を見て思った。この密室の中で、紀之に対して態度を変えないのは和泉だけだと。

 距離を置くことも近づくこともない。和泉との関係には変化がないのだ。

 彼女は自分のプライドから、こうして紀之に声をかけてきたのかもしれない。同じく、そのプライドが精神を保っているのか。

 和泉は販売機で何かを買ってからシートに戻りかけた。


「なあ」


 紀之は和泉に声をかけた。


「なにかしら」


 和泉はぴたりと立ち止まった。


「ちょっと、こっちに来い」


 紀之が言うと、和泉は警戒するようにがまえた。


「何もしねえよ。いいから画面を見ろ」


 紀之はマップを指差した。

 和泉はしんちように画面に近づくと、紀之から距離を置いて画面を見た。マップの変化に気づいて目を大きく見開く。


「気づいたか?」

「どういうこと? この黄色いスペードは」


 和泉いずみひとみまばたかせながら、マップとのりゆきに視線を行き来させた。


「気づいたらこうなっていた。このスペースで筋トレをやっている時に気づいた」

「そうなんだ」


 和泉はじっとマップに視線を向けたまま考え込む。


「ソフィアは、スペードマークはコミュニケーションマークだと言っていたような気がするわ」

「このマークで交流するのか。だれと……」


 紀之は、はっと気づいた。和泉も同じ事柄に気づいたのか、ふたりで顔を見合わせる。


「このマップには、別の国が存在するということね」

「そうだ。考えてみれば当然だ。そうでなけりゃ、マップのシステムの意味がない」

「でも、何故なぜそんなことをするのかしら」

「ゲームじゃないのか。この状況に危機感を持たせたり」

ほかの色のスペードが丸の上にのると、収入がゼロになるって言っていたっけ。警戒しないといけないということかしら。……君はどう思う?」


 和泉は紀之に意見を求めてきた。


おれは、戦略ゲームをモチーフにしているんだと思う」

「戦略ゲームって?」


 和泉はぽかんとしている。


「がり勉だからゲームもしたことがないんだろ。マップに戦車や戦闘機なんかのユニットを配置して戦うゲームだよ」

「チェスみたいなもの?」

「そうだな。ただ、戦略ゲームには都市などの概念もあったりする。例えば、都市を占領すると、収入が上がったり。それでさらに軍事力を強化し、相手の軍隊を倒すんだ」

「面白そうなゲームね」

「ゲームなんか、ヘルメットかぶればできるだろう。ゲームはファミコンのレトロゲームから最新ソフトまで、数千種類あるって言ってたぞ」

「私は、ちょっと映画を見たくらいだわ。でも最近は使っていない。あれを使い続けていると、どっちが現実だか分からなくなってきて」

「じゃあ何してひまつぶしてるんだよ」

「いろいろ考えたりして。ヘルメットは被らずに、シートに横になって、この場所でトレーニングする千葉君の姿とか見ていたわ」


 和泉はかすかに表情をゆるめた。全員ヘルメットを被って横になっていると思っていたが、そうでない生徒もいたようだ。


「それより、どうするんだ? こっちもスペードを動かしてみるべきじゃないのか。周囲のマップがどうなっているか確認する必要もあるし、色の違うスペードがどうコミュニケーションを取るのか知る必要があるだろ。なにより、ダイヤを使ってスペードを購入する必要がでてくるかもしれない」


 のりゆきは自分の考えをまとめた。この状態では何も分からないのだ。行動してみないことには、情報を得ることができない。


「動いてみたほうがいいわよね。でも勝手に動かしていいのかしら」


 和泉いずみはちらりと視線を向けた。ずらりと並ぶヘルメット付きのシート。生徒たちは皆現実から目をらして横たわっている。いや、ヘルメットをかぶって過ごす時間のほうが長いのだ。そちらのほうを現実と呼んでもいいのかもしれない。


「十二時過ぎた時に言ってみるんだな。あのブザーで機械のようにいつせいに始動するんだろ」

「皆で話し合ってみるいい機会よね」


 和泉は自分に言い聞かせるようにうなずいた。


「そうだな」


 この状況が好転するいい機会になるかもしれない。ただ時間をろうさせているこの状況が、精神的にいいわけがないのだ。

 それに、生徒たちの精神状態が回復すれば紀之の立場も回復するのでは、という考えもあった。距離を置かれている現状よりはマシになるのではと。


「意見ありがとうね」


 和泉はぎこちなく笑顔を作った。


「いいさ」


 紀之は和泉と視線を合わせた。やつれた顔の和泉だったが、ひとみだけはキラキラと光っていた。目の大きな人形のように見える。

 紀之は妙な気分になり、自分のシートへ戻ろうと背を向けた。そんな紀之に声がかけられる。


「ねえ、コーヒーでも飲むのなら……」


 和泉が販売機を指差していた。

 紀之は首を振って、自分のシートへと戻った。


 紀之はブザーの音に意識をかくせいさせた。

 寝ていたのだか、ぼんやりとしていたのだか分からない。全身に綿わたを押しつけられているようなけんたいかんがある。

 そんな紀之をよそに、他の生徒は体を起こしてカードを受け取るアクションを起こした。

 紀之はシートに横になったまま薄目を開ける。いつもと同じ光景だったが、今回は違った。

 ぼやけたきりの中から、現実を認識させる声が響く。

 和泉いずみが例の状況を生徒たちに説明しているようだった。

 しかし、生徒たちはスペードマークのことなど興味ない様子で、ただクラブカードの分配を求めている。


「このままでは、クラブに変換するダイヤのポイントが奪われる可能性があるわ。ソフィアが言っていたことを覚えている? ほかのカラーのスペードが国の上に乗ると収入がゼロになるって。要するにダイヤがゼロになるわ。そうしたら、食べ物とか、ゲームだってできなくなるわよ」


 議論をほうする生徒たちに、和泉はブラフを交えてのせつとくを試みている。


「この現状を維持したいのなら、皆で打開策を考えるべきだと思うの」


 和泉の言葉は、じよじよに生徒たちを支配していった。生徒たちは最初の状況と同じように、前方のスペースで和泉の話を聞いている。

 時間がつにつれ、生徒たちからも意見が出始めてきた。スペードを動かしてみるべきだ、待機するべきだ、など。久々に生徒たちはまとまっていた。状況の変化が、生徒たちの関係を好転させたのだ。