ブギーポップ・クルシファイ リミットグレイの妖精逆説

Color 2 幻影の銀色 -phantom silver- ④

 この疑問がある。それがずっと気になっていた。飴屋はうなずいて、


「キャビネッセンス。私はそれをそう名付けて、呼んでいる──人の生命に価値があるとして、それに匹敵するものは何か、その存在を人間自身はどれほど意識しているのか、その辺りに、私の興味がある」


 飴屋はずっと同じ表情で、優しげで柔らかな眼差しなのだが──あまりに変わらないので、どこか人形のようにも見えてくる。


「あなたは──」


 と柚純が呼びかけようとした、そのときだった。彼女の携帯端末が着信を告げた。見ると、古嶋俊輝からの連絡だった。雨宮美津子との話が終わったので、柚純を呼び出したのだろう。


「えと──」


 と顔を上げると、そこにはもう、誰もいなかった。

 がらんと広い、共用自習室のフロアがただ広がっていて、何の気配も残っていなかった。ただ、紙に包まれたあめだまが一個、テーブルに残されているだけだった。


「…………」


 柚純は少し茫然としていたが、すぐに気を取り直して、携帯端末の通話に出た。


「話は終わった?」


 開口一番にそう言うと、古嶋は悪びれもせず、

〝安心してくれ。審査は続行だ。まだまだ君にはチャンスがあるよ〟

 と言ってきた。胸の奥から湧き上がるムカムカした気持ちを押し殺しながら、柚純は、


「あんたの出世のためにも、よね」


 そう言うと、古嶋の笑い声が聞こえてきて、

〝わかってるじゃないか──お互いに頑張ろう〟

 とれしい調子で言われた。柚純は苦虫を嚙みつぶしたような不快感にとらわれながら、


(まあ、こいつには飴屋のことは教えない方がいいよな──)


 と決心していた。



 霧間凪は、末真和子が無事に帰宅するまで、陰からずっと見守っていた。彼女を追跡していた連中の正体は摑めなかったが、おそらく例の〝プルハ・メルハ〟がらみの者たちだろうと見当は付いていた。


(末真は〝お守り〟を確認してしまっている……何らかの干渉がされることは避けられないだろう)


 凪は、末真宅の周辺も慎重に探り、何者も潜んでいないことも確認する。そして……違和感を覚えた。


(あの、街をふらふらしている連中もそうだが……今回の相手は、どうにも隙が多いような感触があるな……)


 うかつな手掛かりを残しすぎるし、逃げ出した奴らの中には凪が顔を確認して、既に身元が割れている者も数名いる。その全員が、問題の予備校に在籍していて、


(おそらく、あそこに〝元凶〟の〝真犯人〟がいるんだろうが……あれだけの人数を支配下に置いている割には、統制が今ひとつ取り切れていないというか……色々とツメが甘い)


 だが、そのユルさこそが恐ろしい、と凪は思っている。ずさんな計画は、取り返しがつかなくなるとすぐに暴走し、とんでもない凶行につながってしまうことが多い。敵の愚かさとはあなどってよいものではなく、それが呼び寄せてしまう悲劇をおそれなければならない、と凪は数々の経験上、知っている。


(誰が犯人であろうが……そいつは今、タカをくくっている。自らの才覚に自惚れて、足下から崩れ落ちることを予期できていない……これは、こっちも慎重にやらざるを得ないだろう)


 凪は末真和子がいるであろう方角に視線を向けながら、深い息を吐いた。

 すると、それまで何の気配もなかった背後から、


「もしかすると、末真さんをおとりに使うしかない、とか思っているのかな?」


 と声が掛けられた。いきなりの声だったのに、凪はそれに驚いた様子もなく、ゆっくりと振り返った。

 そこに立っていたのは、奇妙な人影だった。

 黒帽子をぶかかぶり、全身を黒いマントで包んでいて、人間というよりも筒のようなシルエットをしている。だが何よりも異様なのは、その白い顔に黒いルージュの引かれたその顔は、さっきまで末真和子と一緒に歩いていた宮下藤花その人の顔だったことである。しかし表情が違う。感情が明け透けになっていた藤花に対して、この黒帽子は左右非対称のいわく言いがたい不思議な表情をしている。


「ブギーポップ……どういうつもりだ」


 凪の方はシンプルな怒りを込めて、黒帽子を睨みつけている。


「ぼくに〝つもり〟なんてないよ。ぼくはなにしろ自動的だからね。意図も策略も何もないのさ」


 とぼけたように言う黒帽子に、凪は、


「末真和子に近づいて、何をするつもりだ? おまえの方が先に、彼女を巻き込んでいるんじゃないのか」


 と鋭く問う。これに黒帽子はマント越しに、肩をすくめるような素振りをして、


「だから、それはぼくじゃないって。いまひとつ報われない宮下藤花にだって、友達の一人くらいいてもいいだろう」


 と軽い調子で言った。凪は顔をしかめて、


「その辺の御託に、オレは付き合うつもりはない──だが末真和子にはぎりぎりまで、自力で耐えてもらうしかないだろう。そのときにおまえが邪魔になったら、オレは容赦なくおまえを排除するからな」


 と迫る。黒帽子はこれにまったく動じることなく、


「宮下藤花はともかく──君はどうなんだい。末真さんと友達にならないのかい。向こうはそれを望んでいるようだけど」


 と訊き返した。言われて、凪の顔に暗い影が落ちる。


「オレは──オレにはもう、友達はいない」


 その横顔には、深い後悔の傷がはっきりと刻まれている。だがこれにも黒帽子は投げやりな口ぶりで、


「君はまだ、勘違いをしているようだね。自分の力不足で、大切な人を失ってしまった、とか思い込んでいる。そんなことはない。それは傲慢な発想だよ」


 と告げる。凪が顔を上げると、黒帽子は左右非対称の顔を向けながら、


かみしろなおは、君の未熟さの犠牲になったのではない。彼女が生命を賭けて果たそうとした想いを、君やにいときさんたちが受け継いだんだよ。話が逆だ──君がそんな風に縛られていると知ったら、紙木城さんはさぞ腹を立てることだろうね」

「知った風な口を利くな……!」


 凪の眼に、はっきりとしたぞうが浮かび上がった。そこには硬質な殺意さえにじんでいる。しかしこれにも黒帽子は反応せずに、


「君はいつまで、無力な子供を心の中に抱え込んでいるつもりだ。そんなに自分を憎んだって、なんの価値もないことぐらい、とっくに悟っているだろうに」


 と白けきった口調で突き放すだけだった。凪は顔を伏せて、奥歯を嚙みしめるが、もう反論はしようとしなかった。

 その代わりに、ふう、と大きく息を吐いてから、


「……価値、価値か……おまえは知っているのか──〝生命と同じだけの価値あるもの〟の意味が?」


 と、改めて質問した。もう声には乱れはなかった。これに黒帽子は、ここで初めてひようひようとした気配を消して、真顔になって、


「いや──君はきっと、それには近寄れないだろうね、炎の魔女」

「あ? どういうことだ?」

「君はあの〝紙切れ〟には関係できないだろうって言っているのさ──君の運命がそれを許さない。向こうからしても、君の存在はノイズが大きすぎて、興味対象からは外れるだろう」

「何を言っているんだ?」

「さて、ぼくは自動的なんでね。今の言葉も、口から勝手に出てきているだけだ。きっと今の世界には、これを説明するための適切な〝視点〟がないんだろうね」

「まともに答えてくれないことだけは理解できるが──オレでは手に負えない、と言ってるようにも聞こえるな。その忠告に従って、その謎を気にしすぎて無駄なことをしないように気をつけるよ」

「そんなところでいいんじゃないかな」

「しかし──末真和子なら理解できるのかもな」

「彼女はとてもそうめいだからね。いつかそういう〝視点〟も持てるようになるかもね」

「だから──」


 と言いかけて、凪は口をつぐんだ。デリケートな問題は口にしない慎みだった。しかし黒帽子はその沈黙を破って、


「だから、佐々木政則事件──フィア・グールにも狙われることになったんだろうね。彼女がになうはずの、あまりにも膨大な〝未来〟を奪うために。君はあのときもうまくやった。今回もなんとかなるよ、きっと──ぼくとは違うところでね」


 と話の先を続けてしまう。凪は舌打ちして、


「あのな──」


 と顔を上げると、もうそこには誰もいなかった。最初からそんな影などどこにも存在していなかったのだ、とでもいうかのように。


「…………」


 凪は厳しい表情に戻り、ふたたび末真和子の自宅方向に眼を向ける。


(末真……オレはあんたを助けてやったわけじゃない……あんたに感謝なんかしてもらう資格はないんだ……)


 心の中で独りごちて、そしてもう一方の冷静な彼女が、さらに、


(今、ブギーポップは〝違うところで〟と言った……あいつが標的としているものは、オレとは違うということなのか、だとしたらそいつは──なんだ?)


 とも考えていた。