ブギーポップ・クルシファイ リミットグレイの妖精逆説

Color 6 錯誤の紫色 -false purple- ④

 あわてて周囲を見回す──シャボン玉が、そこら中に飛んでいる。どんどん増えていく。彼女の周囲のみならず、予備校の至るところがシャボン玉で埋め尽くされていく。

 はっ、となって上を見ると、はたして──エアコンの排気ダクトからおびただしいシャボン玉が噴き出している。

 辺りの空間を、ほとんど質量を持たない空っぽの玉が塗りつぶしていく。

 そのことの意味を──リミットは即座に悟った。


(空気の流れが──一目瞭然に……!)


 彼女の〝見えない攻撃〟という利点が、完全に消失していた。そして何よりも、


(私自身の〝呼吸〟に必要な、外気の取り入れ箇所まで──相手から丸見えだ……!)


 リミットの〝防御〟には隙がある。それは彼女自身も肉体を持つ生物である以上、呼吸するために常に新鮮な空気を必要とする。空気をただ固めているだけではすぐに酸欠になってしまう……取り入れ口が必要なのだ。ただでさえ空気の移動を制限しているため、その〝吸気〟のための勢いは他者の想像以上に激しい。そのルートが──シャボン玉の流れとしてはっきり視認できてしまっていた。そこに催涙ガスなどを流し込まれたら──普通の人間以上にダメージを受けてしまうだろう。


(くそ──ここはいったん〝防御〟の結界を解除しなければ……!)


 霧間凪に対して警戒を怠らなかったことが、逆にリミットを追い詰めていた。

 彼女は周囲を囲んでいた空気の装甲を消して、その代わりにいつでも能力を展開できる態勢に入った。


(まだだ──まだ私の圧倒的優位には変わりがない。ヤツの攻撃など来る前にたたとせば良いだけだ。仮にヤツが軽機関銃などを持ち出して射撃してきたとして──すべて跳ね返せるだけの自信が私にはある!)


 シャボン玉が周囲を漂っている。

 その中でリミットが集中を高めていると──背後から足音が響いてきた。

 結界を解いたので、離れたところの音もリミットの耳に届くようになっている──そのギリギリの際に、霧間凪が隠れることもせずに、堂々と立っていた。


「──ぬ……」


 リミットは、ここで初めて霧間凪を直に見た。


(確かに……霧間誠一の面影がある。顔立ちが似ているというよりも……目つきが同じだ)


 写真でしか見たことのない作家の、こちらを覗き込んでくるかのような視線の印象が、目の前の娘と重なって見える。


(しかし……だからといって──今、私はこいつを倒さなければならないことには変わりない!)


 凪が、ほとんど無防備に、こちらに向かって全速力で駆け込んできた。これまでの策略が噓のような、真っ向からの突撃だった。


(馬鹿め! 私が動揺しているとでも思ったか──なんの容赦もなく、空気の塊をおまえに叩きつけて──)


 とリミットが、攻撃を相手めがけて放った──その瞬間だった。

 リミットの足が、床の上でいきなり滑った。その表面は濡れていて──そして、わずかに色がついていた。

 洗剤混じりの水が、いつのまにか廊下中に広がっていたのだ。

 そして、周囲を補強することなく衝撃波を放ったリミットは──その反動を吸収できずに、スケートリンクの上にいるかのように滑走してしまったのだった。

 後方に吹っ飛んで、転倒して、その上でさらに滑る。

 その間にも凪は突進してくる。彼女の履いている靴は厚いゴム底の安全靴であり、洗剤程度の潤滑性ではびくともしない安定性がある。

 リミットがあわてて身を起こそうとしたところに──もう、凪は電磁ロッドをその喉元に当てている。


「──空気で壁を作るよりも、電撃のショックがおまえの全身に流れる方が早いぞ」


 冷静な声で告げられる。ぐ、とリミットは呻いて──そして、ここで彼女は勝負を捨てた。

 警告を無視して、凪との間に空気の壁を作って、彼女を突き飛ばした──当然、間に合わないので、電気ショックは彼女の身体を貫く。

 だが──同時に凪から離れたときの勢いで、リミットの身体はさらに床の上を滑っていき、そして階段のところまで到達する。

 しびれる身体は自由に動かせない。それでもリミットは強引に空気操作を駆使して、自分の身体を階段の下へと転がり落とした──逃げに徹する。


(私は──私だけでは敵わないなら──もはやメンツなどどうでもいい──ここにはまだ、もうひとり〝化け物〟が残っているんだから……!)


 一方、吹っ飛ばされた凪は、体勢を立て直して、相手を追いかけようとしたが──その前に見えない壁がそのまま残っているのがわかった。シャボン玉がその部分だけ、ひとつ残らず潰れて消滅していて、さらにそこに流れ込んでいかない。


「む──」


 凪は一瞬迷ったが、その壁が消えるのを待たずに、きびすを返して反対側の方へと走っていく。



「え……なにこれ……シャボン玉?」

「なんで? どこから?」


 気絶した焼津芽依を、換気の良い場所まで運んできた末真和子と府名井柚純の周りにも、その業務用洗剤で構成されたシャボン玉は漂ってきていた。

 彼女たちは廊下の窓を全開にして、そのすぐ横にいるので、シャボン玉は外へと流れ出していく。不快なまでに充満するというほどにはならないが、しかし不自然ではある。


「誰かの悪戯……? でも、どうやって──」


 柚純がイラつきながら周囲を見回している隣で、末真は、


(これって、まさか──霧間さんが何かしてるの……?)


 と直観していた。炎の魔女がこの予備校のことを気にしていた、ということは、ここで何が起こっても不思議ではないからだ。

 身がすくむ思いがする。またしても自分の周囲で、自分とは関係のない決定的な事態が進行してしまっていて、そして末真本人はそれに一切かかわることができないのだろうか。

 彼女たちがそれぞれに慄然としていると、急に上の方から大きな音が響いてきた。ばん、ばん、とタイヤがパンクしたときのような、破裂音が何度か連続する。

 びっくりして啞然としていると、彼女たちの近くにある階段から、どんどんどん、と何かが滑り落ちてくる音が響いてきた。

 そして確認する間もなく──その落下物である合成人間リミットが廊下にまで転がり出てきた。


「いたな──府名井柚純……!」


 リミットは身体をびくびくと震わせながら、柚純のところににじり寄ってきた。顔面にも痙攣が走っていて、異様な表情になっていたが──怒りたけっていることだけは明確にわかった。


「な、なな──」


 驚愕している柚純に、リミットは、


「おまえの〝呼吸〟はとっくに把握している──おまえの方なら、簡単に位置がわかるんだよ……!」


 と相手には理解できない独り言を漏らすと、柚純の腕を乱暴に摑んできた。


「来い──おまえがヤツの、炎の魔女の相手をしろ……!」

「は? なんで? なんのこと?」

「私の〝不安〟を読んでみろ……どれだけダメージを受けたかわかるはずだ……!」


 リミットはまぶたをぴくぴくとらせながら、柚純に迫ってくる。柚純は動揺しつつも、


「わ、わかったから──そんなに強く摑まないで」


 と命令を受け入れた。

 リミットはその返事を待たずに、柚純の身体を強引に引っ張って、また階段の方に戻っていく。


「おまえならやれる──あいつだって、人間である以上、おまえの能力が効かないはずがない……!」


 ぶつぶつと呟いている。目つきはかなり危うくなっている。

 そこに、完全につまはじきにされていた末真和子が焦って、


「あ、あの──いったい……」


 と声を掛けたが、リミットは無視し、柚純の方も面倒くさそうに、


「ああ──末真さんは焼津さんのことをていてちょうだい。私は、ちょっと先生と急用があるから──」


 と言い残して、階段の向こうに消えていった。


「え? ええ──なんで……」


 末真は愕然としてしまっていた。

 そもそも、彼女が本来は休みであるこの予備校にやってきたのは、講師の雨宮美津子に会うためだった。だが今の、彼女の尋常でない様子を見ると、まともに会話ができるかどうかも怪しい感じだ。