ブギーポップ・クルシファイ リミットグレイの妖精逆説
Color 6 錯誤の紫色 -false purple- ③
(やれやれ──一時はどうなるかと思ったが、なんとか切り抜けられそうだな。やっぱり霧間凪への攻撃を、予定されていたリミットの戻る時刻ギリギリまで待っておいて良かったな。こうして僕が失敗しても彼女に責任を押しつけられるし──そして仮に、ここでアイツが炎の魔女にやられたとしても、それはそれで好都合──リミットには僕の〈オイフォン〉能力はまったく通じないからな。正直いなくなってくれた方が色々と都合が良い。それに炎の魔女は、あえて今は言わないでおいたが、噂通りの〝正義の味方〟のようだ。もしも彼女が情け容赦ない性格だったら、僕はあの面接室に入った瞬間にやられていただろう──僕がどういうヤツなのか確かめるまでは、致命的な攻撃を避けていた。ということは──いざとなったら生命乞いをして、彼女に無抵抗で降伏してしまえば、それで僕は助かるはず──これが賢い立ち回りというものだ。赤でも青でもない、どっちつかずの中間の紫色のように、だ──なあ、わかるか? 竹田啓司。あんたのように、馬鹿みたいに夢に真正面から挑戦、なんてのはただ敵を増やしてリスクを高めるだけなんだよ──僕のように、うまく立ち回って他のヤツに責任を押しつけるやり方こそがスマートな生き方だ……カッコつけて、それで精神をすり減らして、いったいなんになる? いずれヘトヘトになって、不安に圧し潰されるだけさ──)
俊輝が屋上の柵に背を預けて、すっかりリラックスしている間にも、階下からは何かがぶつかる衝突音が響いてくる──。
*
雨宮美津子は、フロアの隅に積まれていたパイプ椅子の山をあえて蹴り崩した。
激しい音が周囲に響いたが、それでなにか反応があった訳ではなかった。無音だった。
(霧間凪──すでに身を潜めて、こちらを迎撃する体勢に入っている、というのか──確かに、只者ではないようだな──)
雨宮は自ら発生させた騒音を、次の瞬間にはぴたり、と消してしまう。空気を制御できるということは、その中を伝わる振動──音も自在に操れる、ということでもある。
静寂が落ちる。
その中を雨宮は歩いていく。
最初は、凪を拘束するだけに
(油断はできない──)
雨宮は妙に切羽詰まった感覚に
彼女は認知していなかったが──その頭上ではずっと、妖精たちがひそひそと囁き続けている。
〝やっちまえ〟
〝やっちまえ〟
〝魔女をやっちまえ〟
〝悪いのは向こうだ〟
〝アイツが悪いんだ〟
〝みんなが悪いんだ〟
〝見境なく叩いちまえ〟
〝様子を見るのはそれからでいい〟
〝まず苛立ちをぶちまけてしまえ〟
〝どうにもならないなら全部ぶちのめせ〟
妖精たちはケラケラ笑いながら、雨宮美津子を
〝おい、別にこんな奴ら、もうどーでもよくね?〟
〝狭っ苦しい予備校とか、つまんねー受験とか、学校とか勉強とか、なにもかもどーでもよくね?〟
〝考えてみれば、こんな窮屈なトコでいつまでもウジウジウダウダやってんのも馬鹿らしいよな?〟
と囁きあっている。その声はだんだん大きくなっていく。
〝どうせみんな心の中で文句しか言ってないくせに、外面だけでマトモぶってるだけなんだから〟
〝正直にブチまけちまえば良いんだよな〟
〝世の中の人間が、自分の気持ちに正直になれば〟
〝きっともっとスッキリしてサッパリした世界に生まれ変わるだろうぜ〟
〝殴られるヤツの気持ちなんざ、いちいち考えたってしょうがない〟
〝先に殴っちまえばいいだけなんだから〟
〝そのことを伝えてやらなきゃな〟
〝アイツが気に食わない〟
〝アイツはスカしててムカつく〟
〝アイツは偉そうにしてるから許せん〟
〝そういう気持ちに正直になるだけで〟
〝新しい世界がばーっと広がるぜ……!〟
妖精たちは高笑いしながら、ちりちりに熱したフライパンの中に水を垂らしたときのように、四方八方へと
これらの状況を一切、認識できない雨宮美津子は、根拠の知れない不安と焦燥に駆られながら、それでも霧間凪と戦う以外の選択肢を持てずに、予備校の廊下を進んでいく。
これが単なる一対一の対決であれば、合成人間リミットと不良少女霧間凪など勝負にならない。凪がいくら気配を消して身を隠そうとも、周辺の空気そのものを支配できるリミットは凪の呼吸を容易に探知できるから、一瞬で決着がつく。
だが……今のこの状況は、建物の中に数百名の生徒や講師たちがいて、かつその全員が気絶しているという異常事態の下にある。そこら中に呼吸の反応があるので、どれが霧間凪なのかわからない。それに下手に周囲すべての空気を固めてしまうと、
(一般人を巻き込みすぎる──気絶さえしていなかったら、息苦しくなったら逃げてくれるだろうが、今だと──そのまま窒息してしまう危険性が高い。こんな任務程度で無駄な犠牲者を出すと、私の査定に響く──くそ、古嶋俊輝が余計なことをしてなければ、話は簡単だったのに──)
オイフォンの〈ヒス・バズ〉は建物そのものに振動を
(細かい調整は難しいかも──手加減はできない)
彼女はとりあえず、廊下という廊下に空気の塊を通過させていく。それに手脚の先が引っかかったら、それだけで骨折は
(出てこい、霧間凪──)
──そのドアが閉まっていく音が、凪の方からだと妙にくぐもって聞こえる。接している壁面や天井面に伝わっている振動から来る音しか彼女の位置には届いていない。
(──やはり、な)
凪は今、リミットのいる階よりもひとつ上の階にいる。平気で歩いていて、足音さえも気にしない。
凪は、既に見切っている──リミットの空気を固める能力は、確かに射程距離の範囲内のすべての音を感知し、制御できるが──逆に言うと、その外側の空気の振動は内側に伝わらなくなってしまい、遠くの物音を聞き取れなくなってしまうのだ。だから防御態勢を固めているリミットから離れた位置にいれば、呼吸を抑えたり忍び足をする必要さえなく、平気で動き回れるのである。
そして凪は──トイレを見つけると、その中に入って、掃除用具入れを開ける。中から洗剤と紙タオルの束を取り出すと、洗面台の排水口に蓋をしてから、中に洗剤を一気に流し入れる。
凪は空調の通っているパイプの整備用ハッチを開けて、フィルターを露出させると──そこに洗剤を浸した紙タオルを貼り付け始めた。
(──? なんだ……?)
リミットは違和感に気づいた。かすかな……だが確実な、経験したことのない感触があった。
(なんだこの──ぷちぷち、という変な手応えは?)
リミットの防御範囲の際に、奇妙な反発がある。それは一箇所ではなく、まんべんなく広範囲にわたっている。
(いったい──)
と彼女が不審がっているときに──最初のそれが目の前に漂ってきた。
シャボン玉だった。
顔の前までふらふらと飛んできたかと思うと、ぱちん、と弾けた。
「…………」
一瞬きょとんとしてしまったが──すぐに我に返る。
(──なにっ!)



