ブギーポップ・クルシファイ リミットグレイの妖精逆説

Color 7 激怒の闇色 -rage black- ③

 心の中の〝炎〟を吹き熾されて、霧間凪は、その身体はぐらり、と大きく傾いて──そして、


「──ああん?」


 と、ぎょろりと眼が大きく開かれて、睨みつけてきた。

 そして──その全身に、奇妙な紋章がびっしりと浮かび上がっていた。革のつなぎを透かして、光輝いていた。


「なんだ──おまえ……」


 凪は……いや、凪の顔をしただけのその〝何者か〟は、柚純に向かって訊いてきた。

 停止している、どころではなかった。激しく燃え上がっていて、あらゆるものを吞み込んでしまいそうなほどに、荒れ狂っていた。焦げくさいなどという段階は遙か彼方かなたに消し飛んでいて、その恐ろしいまでの熱が、柚純のすべてを焼き尽くすかのような圧倒的ごうとして迫ってきた。その炎はあまりにも激しすぎて、もはやすべての色彩を失っていた。底なしの暗闇と同じ質感しか、そこにはなかった。


(ヴァルプルギス──)


 その名が、何の脈略もなく脳裏に浮かんできた。

 炎の魔女という異名は、もはや二つ名ではなく、それこそが真の呼び方であるとしか思えない。


「ひいっ──」


 柚純が能力を出したのは、出すことができたのは、ほんの一瞬だけだった。それ以上は彼女の精神の方が保たなかった。全身に大火傷おおやけどを負った者は凍死するかと思うほどの寒気を感じるというが──その切り裂くような冷凍の刃が、柚純の勇気や願望や根性といった、すべての前向きな思いを真っ向から斬り捨てていた。

 彼女は、ぺたん、と腰が抜けて座り込んでしまって──そして次の瞬間には、なりふり構わず這いずって逃げ出した。

 凪は──〈ローリング・アンザェティ〉が解除されて、その全身に浮かんでいた紋章は、すうっ、と消えていったが……心に浮かび上がった激情の方は彼女から去らず、凄まじい怒りが彼女を捉えていた。見開かれた眼が、その中で眼球が不安定に小刻みに動いている。


「ぐ、ぐぐぐ──」


 それは凪にとって、初めての感覚では──なかった。

 彼女はこの激情を、過去に二度、経験したことがある。

 最初は父親が死んだとき、そして次は──。


「ぐぐぐぐっ……!」


 凪は、なんでこんな気持ちになっているのか理解できていないが、しかしそれが今、目の前から逃走した府名井柚純によるものであることだけは、なんとなく推察できていた。彼女としては、雨宮に無理矢理協力させられていたらしい柚純をどうこうする気など本来はなかったが──そんな節度を吹っ飛ばすほどに、激怒に燃えていて抑えられない。


「──ふざけるな……」


 口から自然と、言葉がこぼれだしていた。


「……ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな──ふざけんじゃねえ……っ!」


 それはほとんど絶叫となって、凪の喉から絞り出ていた。

 彼女の足が床を蹴って、そして逃げ出した柚純のことを追っていく。

 捕まえる気なのか、それとも──それは凪にもわからない。

 階段の向こうに柚純が逃げていくのを、凪はあっという間に追いついてしまう。彼女が身を乗り出したとき──そこには、もう一人の人物が脱力した府名井柚純を抱きかかえて、こっちを見ていた。

 末真和子だった。



 わたしが階段をひいひい言いながら上っていると、またしても大きな音が上から響いてきた。

 なんだなんだ、と思っていると、続けて獣のほうこうのような怒声がとどろいてきて──そしてそれに押し出されるようにして、府名井柚純が廊下の向こうから転がり出てきた。つんいになっていて、顔面は蒼白になっている。


「ふ、府名井さん?」


 私が呼びかけると、彼女はまるで迷子が親を見つけたときのように、がしっ、としがみついてきた。

 彼女の全身は汗でびっしょり濡れているのに、奥歯がかちかちと凍えて鳴っているのが異様だった。


「どうしたの? 何があったの? 雨宮先生は?」


 と私が訊ねても、彼女は何も返事をせず、わたしの方を見もせず、虚空を見つめながら、うわごとのように、


「たすけて──百合原さん……たすけて……」


 と、か細い声で泣くだけだった。


(百合原、って……この前に行方不明になった、うちの高校の百合原美奈子のこと?)


 わたしが茫然としていると──廊下の向こうから、さらに人が現れた。

 世にも恐ろしいふんの表情をしている、それは霧間凪だった。


「…………」


 絶句してしまっているわたしに、凪は一瞬だけ顔を引きつらせたが、すぐに、


「どけ──そいつから離れろ」


 ドスの利いた声で、そう命じてきた。


「え?」


 わたしは思わず、柚純の方を見る。しかし彼女はもう気絶してしまっていて、わたしの腕の中でぐったりと動かなくなっていた。


「え──」


 どうすればいいのか、わたしは困惑した。この府名井柚純は、藤花をおとしいれた元凶である可能性が高いし、霧間凪はわたしの生命の恩人で、彼女には返しきれないほどの借りがある。


(でも──)


 今の、柚純が助けを求めてきたときの、あの表情──。


(わたしは──何を選択する?)


 このとき、わたしの脳裏に浮かんでいたのは、あの不思議な銀色の少女が言っていた言葉だった。

 

〝博士──これからあなたの前には、難しい選択肢が現れる。あなたの『気持ち』に素直に従って、後悔するか──逆らって、納得するか〟

 

 わたしにとって素直な気持ちは、もちろん凪に協力して、府名井柚純を引き渡すことだ。わたしみたいな中途半端な事情しか知らない者があれこれ悩んだって無駄なんだし、そうするだけの義理も理由も充分にある。

 でも──そうしたらきっと、わたしは後悔する。

 どうしてあのとき、あの無力な少女を見捨てたのか、と──きっと後から悔やむことになる。

 だから──わたしは口を開いて、


「……落ち着いて、霧間さん」


 と、炎の魔女のことを制していた。

 凪の表情が、ぎしり、と歪む。


「──ああ? なんだと……?」

「あなたは今、明らかに冷静さを欠いている……府名井さんを必要以上に追い詰めすぎている。この娘と雨宮先生が、あなたに何をしようとしたのか、わたしにはわからないけれど──」

「だったらスッこんでろ!」


 凪の声は芯からの怒りと憎悪が籠もっていて、わたしは心底震え上がってしまう。でも、それでも──


「──あなたは今、明らかに怒りすぎてる……それは、この娘に対してのものだけじゃないはず」


 と言い返していた。恐怖は恐怖として、伝えなければならないことは言わなければ、という奇妙な割り切りがあった。

 わたしが怖いことなど、どうでもいい。

 これは相手の方の問題なのだから、わたしの及び腰な姿勢だの勇気の欠如だのは理由にならない。不安は言い訳にならない。


「知った風なことを言うな……!」


 凪は、階段を降りてわたしたちに迫ってきた。

 わたしは動かない柚純を階段の壁にもたれかけさせて、自分は凪の前に立ちはだかった。

 凪は見おろし、わたしは見上げる。


「どけ」


 凪は端的な言葉で凄んできた。わたしはそれには応えず、


「百合原さんがいなくなったことと、霧間さんは関係あるの?」


 と唐突に質問してみた。

 すると、凪の顔色が歴然と変化した。どす黒さを感じさせるほど赤みを帯びていたのが、一気に蒼白になった。血の気が引いていた。

 そして……怒りがさらに大きくなったのがわかった。

 


(なんだ、この娘──末真和子……)