九重に久しく匂へ八重桜 のどけき春の風と知らずや
──金葉和歌集 中納言実行
刻が始まる。歯車が回る。
がらがらがらと轟雷の響きで、金剛の巨塔が天降る。
林立する摩天楼を、その名に反してむしろ摩らんと迫る。円形をした底面は直径三百余丈。高さは無慮、千万丈──実に三万五千八百キロメートル。
「──千万丈塔の顕現を確認」
見上げて、塵霧の帝都の高層ビルの谷間。佇む二人の術師が告げる。
いずれも少年、純白をした武官の袍に釼を佩く。革の剣帯、手甲と軍靴に身を固め、夜闇に煌めく髪留めは八重咲きの山吹、──皇室直属の特務機関〈八重山吹〉の花鈿。
直上で降下を止めた金剛の塔を、見据えたまま少年術師の一方が言う。
「踏破儀式を開始。──それじゃあ行くな、天茜」
「気をつけろ、碧燈」
りん、と玲瓏たる音を立て。碧燈の姿がかき消える。
踏み出すと同時に頭上の千万丈塔、その内部へと転送されたのだと天茜は知っている。
同時にもう一つの儀式が始まる。
千万丈塔と共に現れる敵性霊異存在が、今宵も空間を裂いて姿を現す。
それはのたりと太い流線形の体軀だ。うち振るたびに猛烈な風を巻き起こす尾びれだ。感情のない──感情を司る脳の部位自体を持たない、深海の虚ろそのものの真っ黒な目だ。そして半ば開いた大顎から覗く、三角形の乱杭歯だ。
大牙の古代鮫──俗にメガロドンと呼称される太古の大鮫が、黒々と巨影を落としてビルの頭上を遊弋する。
半開きの顎から垂れ下がる、か細いおさげの髪束を見咎めて天茜は目を眇めた。
「七堕の出現を確認。──これより破竜儀式を開始する」
天茜の宣告に、応じたわけでもなかろうが。
滅びの獣が雄叫びをあげる。
闇色の眼球に天茜を捉え、高空から逆落としに吶喊。人の掌ほどもある牙を剝きだし、尾びれの生みだす暴風で不運なガソリン・トラックを吹き飛ばして迫る。
ごう、と風を押しのける大質量を見返して、天茜もまた釼を抜いた。
のろりと凄い輝きの、分厚く重い蛤刃の刀身。鍛えぬいた武人のための重い釼を細い少年の体軀で軽々と振るい、髪一筋の揺らぎもなく体の前にぴたりと構える。
「《この釼は 我がにはあらず》──……」
りん、と、釼が鳴く。
抜き放たれて外気に触れ、目覚めた刀身が水晶の共振する高音で咆哮する。
「《鬼を狩る 大口狼の 威の釼なり》」
詠唱確認。霊紋照合。
特務霊術機関〈八重山吹〉所属術師の、戦闘機能の完全解放を──承認。
霊重鋼の刀身が水晶のように透過し、ついで青く焰を纏って燃えあがる。賦活と防護の霊術陣が純白の袍に浮かびあがり、艶やかな光を放って染めあげる。
天茜の影から飛び出した鋼鉄の翼が、上空で鋭い旋回を見せて左の手甲に舞い降りた。──大人の背丈をゆうに越える翼開長の、黒鉄の総身をした熊鷹型機巧自在。
翼を広げ、うち振って飛び出し、墜ちくる古代大鮫を真っ向から迎撃。半歩遅れてこちらは地上を、舗装路に罅を入れる激烈な踏みこみで天茜が迫る。六刀交差の賦活の刀剣紋、二つの菱十字が相互反転する防護の八鱗紋の色彩は、天茜の場合には真紅と月白の桜重ね。
空中と地上からの挟撃だ。古代大鮫は一瞬、対処に惑う様子を見せ、当初の予定どおりに天茜に嚙みかかると共に機巧自在へと呪詛砲の霊術陣を向ける。
見据えて天茜もまた一歩を踏みこみ、眼前の顎へと青焰燃える釼を振りあげた。
「──《響け》」
玲瓏。
珠玉を打ち鳴らす凜冽の音響。同時に古代大鮫の巨体が撥ね飛んだ。
膨大な霊力にものを言わせた、身体強化霊術と打撃霊術の併用。加えてその強烈な反動を受け流せるだけの、関節構造から分子構造まで操作されて強靱な全身の骨格と筋肉と腱。身体動作を最効率化するべく小脳に書きこまれた身体制御プログラムが、それら霊術と全身の膂力を一切の無駄なくまとめあげ、古代大鮫の下顎へと叩きこませたのである。
───────────────ッ!?
悲鳴にも似た驚愕を長く引いて、古代大鮫は宙をかっ飛ぶ。
背後のビルへとまともに突っこみ、壁面の硝子が刹那、波紋を広げるようにたわんで波打つ。次の瞬間それらは一斉に破裂して、豪雨のような破砕音と硝子片をぶちまけた。
頑強な高層ビルが激震に揺らぐ。怯懦を持たぬ機械仕掛けの猛禽が、追撃するべく濛々たる硝子塵の壁に吶喊。
ふらつきながらも浮かびあがる巨大な魚影を見据え、天茜もまた追撃のための霊術を紡ぐ。
千万丈塔の内部は階層ごとに全く様相が異なるが、高さ三十丈、直径三百余丈の円形フロアと、緩く回転しながら繚乱の光彩を振り撒く万華鏡天井だけはどの階層でも共通だ。
眩々、狂々と千変する色彩の乱舞の下、フロア中央に出現した碧燈は真神の釼を振るい、左目の人工角膜上にこの階層の踏破路を呼びだす。
釼と己の機能は解放ずみだ。周囲、索敵のため展開した式神が旋回する気配。
見上げた左の視界に四角形を連ねた光の回廊が表示され、この階層で辿るべき踏破路を示す。
それ自体が滅びそのものである七堕は、死しても骸を残さない。
桜の花弁が零れるようにわずかな灰が散るだけが、巨体の名残だ。その合間、かつんと儚く落ちて転がったきらめきに、天茜は歩み寄って拾いあげる。
いかにも子供がつけるようなちゃちなプラスチックの、けれど愛らしい四弁花の髪飾りだ。まだ細い髪をまとめるために金具も小さな、……おそらくはごく幼い子供の。
古代大鮫の七堕に喰い殺された、あの幼いおさげの持ち主の。
中央、無惨にひび割れた珠玉がぱきんと砕けて消滅するのに、そっと一つ息を吐いた。
この儀式場に至るまでに古代大鮫が喰らった、数多の人と獣の唯一の名残。七堕が骸を残さないのと同様に、七堕の犠牲者もまた、まともな遺体が残ることはない。
……形見の一つも、帰ってきたなら遺族にはせめてもの慰めだろうか。
儀式場を封鎖する三重の結界を越えると、その外で警衛についていた衛門府の衛士たちが、常の儀式とは異なる事態に何事かと振り返った。
近くにいたまだ若い、同い年くらいの少女の衛士が慌てて駆け寄る。
「術師さま。いかがなさいましたか」
臣民禁足範囲の拡大、周辺住民の避難命令。そういう、なにか緊急事態かと緊迫しているのに、そうじゃないと首を横に振ってみせてから髪飾りをさしだす。
「これだけ、回収できたから。……家族を探せるなら渡してやってくれないか」
は、と衛士の娘は息を吞む。
そのために、常にはこの穢れた帝都ではなく清浄なる皇京に住まう八重の術師がそのためだけに、儀式場の結界の外まで出てきたのだと知った。
彼にとっては顔も名前も知らない、下界を這いずる民の死を、たしかに悼んでその家族の心を思いやってくれたのだと。
受け取って強く、衛士の娘はうなずく。ひび割れた髪飾りを壊さぬようにそっと、けれどしっかりと抱きしめた。
「了解しました、たしかにお預かりします。──ありがとうございます」