放課後、ぼくは体育館裏の空間に立っている。
周囲に人気はなく、視界に見えるのはぼくを呼び出した女子だけ。
普通だ。これが何のイベントなのかは、容易く予想できた。だがそれが悪いというわけじゃない。ただほんの少しばかり、ぼくにとっては……つまらない、というだけのことだ。
ぼくはいつものように隠れた溜め息を吐き、諦観と惰性に満ちた愛想笑いを浮かべる。
眼前にいるのは、艶やかな黒髪を長く伸ばし、どこか暗い面影を持った女の子だ。
彼女は見ているこちらが可哀想に感じるくらいにテンパっておられるようで、ぼくの名前を一回呼んだきり、口籠ってもじもじと佇むばかりになっている。そうだろう。キャラ的にはそうだと予想できる。『普通』だ──とは言え、このままだと夜になっても話は進みそうにない。
「で、砧川さん」
「は、はぃぃっ……」
身体に拷問針を刺し込まれたように、びくんっ! と彼女は背筋を伸ばした。
「何か話があるんですよね? 何?」
「え、えと──それは」
「ないの?」
「い、いえ! あ、あり、ありま、す!」
ぶんぶんと、捥げるんじゃないかと思うくらいに首を縦に振る。なかなか面白いのだが、それからまた俯いてだんまりモードだ。ぼくはいい加減疲れてきて、初めて話す人間にはとりあえず使うようにしている敬語も止めて軽く言った。
「そんな緊張しないでもいいと思うけどな……だいたい予想はついてるし」
「……え」
「だから単刀直入に理由を聞こう。どうして?」
砧川はそれでようやく覚悟を決めたようだった。頰を紅潮させながら、地面を見つめながら、腰の前で鞄を摑む手をぎゅっと握り締めながら、震える声で答える。
「理由。理由、は──宵本くん、優しい、から。一回、助けてもらったことがあって、えと、でもそれだけが理由じゃなくて、いつも見ているうちに、その……なんだか、目が離せなくなって。胸がどきどきして」
砧川はそんな普通の理由をひとしきり並べ終わった後、また数十秒無言で俯いてから──
やおら顔を上げて、まっすぐにぼくを見つめた。
「わたし、宵本くんのこと……好きです」
正直に言おう。そのときばかりは、彼女に敬意を抱いた。それがどんなにエネルギーと決意を必要とするものかということは、いくらぼくでも知っている。ましてやそれが、ぼくを含む大部分のクラスメイトたちにとっては存在感の欠如した無味乾燥な空気でしかなく、それ以外の一部の人間にとっては便利な使い走りでしかない、砧川冥子だ。彼女は弱いように見えて、傷つくのを恐れずに他人に好意を伝えられる程度には──強かったのだ。
ああ、それは正しい強さだ。だがただ一つ間違っているのは、その相手がぼくだということ。
「わかった。でもごめん。今のところ、ぼくは誰とも付き合う気はないんだ。だから」
そう言ったときだった。
「ち、違うんです!」
突然、砧川は今まで以上に顔を真っ赤にして手をわたわたと振った。ん? 違うのか?
「あぅぅ……その、それはできれば、そう、なんですが、でも駄目で、その、だから」
「駄目ってどういうことだ?」
その質問を投げかけると、彼女はどこか深遠な黒瞳を地面に向けた。虚無的な呟きを小さく発する。それはあるいは独白だったのかもしれない。それほどまでに、呟きは脆弱で空虚で陰鬱で──絶望的だった。
「駄目、なん、です。わたしは……」
「じゃあ砧川。お前、何がしたかったんだよ」
「それは……あの、恥ずかしい、お願いなんですけど」
その前置きの後、数秒の空白をおいて発せられた言葉は。
ああ、ある意味においては『普通の』言葉だった。
それを口にしたのが、この内気で陰気な苛められっ子の砧川冥子という女でさえなければ。
だから当然のことなのだろう。
ぼくはそれを、不可思議なまでに『普通ではない』言葉だと感じざるを得なかった。
つまるところ、そこが基点だったのだと、そう思う。
代償、自傷の傍観、闇滓、代替魔術師、契約、喪われる感覚、祝福、悪意の予言書たる現実、笑顔の忘却、微笑の喪失の忘却。それ以後関わることになるこれら全てを一語に集約して言うなら、陳腐な表現だが、逃れられない終焉の始まり──基点。
今までは空気のような存在だった少女に対して、ぼくが疑問を抱いたその瞬間。
その瞬間こそが、ぼくにとっての決定的な変革基点だった。
今にして思えば、それは彼女の最期の後の最初で最後の勇気。
今にして思えば、ぼくはそこから死にかかり始めた。
そして、今にして思えば、ぼくはそこから──
『普通ではない』彼女に、惹かれ始めていたのだった。