春休み最後の日。
これから暮らすことになる福来市の街中を、那霧浩介は自作のマップ片手に歩いていた。
この無闇に縁起のいい名前の街に引っ越してきたのは数日前。荷物の整理などに時間を取られていたため、外出するのは今日が初めてだった。
「お、こんなところに中古CD屋がありやがる。チェック、と……」
喧騒に満ちた街並みを見回しながら歩き、有益な店を発見すれば大学ノートにいそいそとマッピング。明日には新しい学校での高二ライフが開幕するのだ、この春休み最後の日にやるべきことは他にいくらでもある……と自分でもわかってはいるが、今朝方ふと思い立ってしまったのだから仕方がない。何かに突然ハマってしまうのは浩介自身も自覚している癖だった。同じくらいに突然飽きたりするのでバランスが取れていると言えなくもないが。
(うん、大通りはほぼ完成したな……)
浩介は手元のマップを見下ろしてほくそ笑む。素晴らしい。自分にとって必要な店が過不足なく描き込まれたマイ地図。ここに記された店の第一印象や品揃え、おおよその価格帯などの情報は今後の生活を円滑にサポートしてくれるだろう。生活破綻者で性格破綻者の従姉妹と二人暮らしすることになったときにはどうしようかと思ったが、これさえあれば恐れるものは何もない。
「じゃあ次は裏道も制覇してみるかな。隠れた名店とかを見つけられればさらに俺マップは完成に近付くぞ……」
呟きつつ、人通りの少ない裏道へと適当に足を向ける。今までと同じく周囲を見回し、マップに描き込むべきものを探索。特に気になる店がなくとも、初めての場所で触れるものはどれもそれなりに新鮮だった。割れたライブハウスの看板。薄汚れた自動販売機。猫。換気扇からの油の匂い。女の子が怒鳴るような声……声?
それはどうやら裏道のさらに奥にある路地から届いてきたようだった。正確には、路地というよりも単にビルとビルの間にある数十センチの隙間と言ったほうが正しい。好き好んでそんな場所に入る人間がいるとは思えなかった。
「……」
浩介にも人並みの正義感くらいはある。もし女の子が暴漢に襲われたりしていたら大変だ。なんとかできそうならなんとかすればいいし、なんとかならなそうでもこっそり携帯で助けを呼ぶくらいはできるだろう。
そのビルの隙間に足を踏み入れ、少し進むと微妙に開けた空間に出た。ビルの裏口の前に作られたスペースらしく、空間の隅には膨らんだゴミ袋が無造作に積まれている。
「……誰もいないな。やっぱ聞き間違いか」
それならそれに越したことはない。ほうと安堵の息を吐き、浩介は何気なく頭上を見上げる。四方に聳えるビルの角で、小さな四角形に切り取られた空。窮屈そうだなあ、とどうでもいい感想を思い浮かべたとき──その感想と相反する、やたら解放感のある音が周囲に響く。
ガラスの割れる音だった。
「な、なんだ!?」
反射的に身を退く。そして頭上に見えたのは、きらきらと輝くガラスの破片と──
何か大きなものと一緒になって落ちてくる、
学校の制服の上に白衣を着込んだ少女の姿。
意味がわからない。理屈がわからない。状況がわからない。
「ちょ、マジかっ……!?」
少女は正しく足から落ちてくる。落下先にいる浩介の存在に気付き、小さな目をぎょっとしたように見開いている。浩介にはどうにもできなかった。受け止めようという考えが頭に浮かぶよりも早く、純然たる物理法則に則った少女の身体が浩介の上に降ってきて、
「うおおお!?」
少女の両足が浩介の両肩をそれぞれ掠める。つまるところそれは浩介の顔面が少女の身体を、あるいは少女の下半身を受け止めたということであり──
「……!」
「ぎ、ぎゃーっ!」
女の子の悲鳴として「ぎゃー」はどうなんだというどうでもいい感想を思い浮かべつつ、浩介は少女の体重を受け止めるクッションとなって激しく背後に転倒した。
足元は硬い硬いコンクリート。
死んだと思った。
意識が途切れていたのは一瞬。
「い、生きてる……!?」
後頭部にはガサガサしたビニールの感触。どうやら積まれていたゴミ袋が上手い具合に頭を受け止めてくれたらしい。
白衣の少女は浩介の胸の上に乗っていた。ぱちくり、と瞬きをする彼女と視線が合う。やたらちんまりした体躯に、髪は適当なボブカット風味。胸元には白衣姿に相応しい銀色の聴診器がぶらぶらと揺れている。肌ははっとするほどに白く、そして自分の胸の上というか彼女の足の間には白以外の色が──
「ぎゃわーっ!? み、見るなーっ!」
そこで少女のほうも我に返ったらしい。女の子らしからぬ悲鳴をさらにレベルアップさせ、慌てて立ち上がってスカートを押さえる──と思いきや。
少女は浩介の予想をまったくもって意味不明に裏切り、
さらに自分の身体を前にずらした挙句、スカートを浩介の顔に被せてきた。
「見るな、見るな、見るなったら見るな!」
「見たくて見てるわけじゃないっつーかむしろ見てはいけないものしか見えなくなったぞ!?」
「……ぎゃー、そっちも見るなっ!」
「そっちってどっちだ!? とにかく無事なら降りろ!」
「降りられるわけないでしょうがっ! ああもう、こうなったら──なんだったっけ。いつか陰子さんに教えてもらったんだけど……顎先を掠めるようにして、脳を揺らす……だったっけ。そうすれば痛くないのよね」
「オイ待て」
「ええと、狙いよし角度よし。で……えいっ」
制止の言葉も当然のように間に合わない。そこだけなぜか可愛く聞こえた掛け声と同時、浩介の顎に衝撃が走る。スカートで顎が見えなかったために狙いが外れたのか、掠めるどころかクリーンヒット気味の一撃だった。
「お……おふ……」
「成功? 成功したわね? さすが私、スカート内潜伏病患者の治療も容易く完了!」
いろいろ反論したいところだったが、言葉は当然のように出ない。顎の痛みがじんわりと脳髄に伝わり、意識が呑気に長期休暇を取り始める。ああ、わけがわからない。もうどうでもいい。勘弁してくれ。
意識を失う間際、顔に被さっていたスカートが外される感触。そして浩介は最後に聞いた。
んん? と怪訝そうな少女の声があり、こちらの顔を覗き込むように吐息が近付いてきて、
「でも、よく見るとこいつ……ヘンね。すっごく変ね。ありえないくらい変だわ……?」
お前にだけは言われたくない。
そんな至極真っ当な反論だけを最後に思って、浩介は暗黒に落ちていった。
「……はっ!?」
目覚める。まず見えたのは先刻と同じ、四角く切り取られた路地裏の空。空の色は午後の呑気な青色のままで、つまりそれほど時間は経っていないらしい。浩介は慌てて上半身を起こして周囲を見回す。背後には潰れたゴミ袋もしくは命の恩人様。地面には透明のガラス片。背中がチクチクするのに今更ながら気付いたが、この程度で済んだのは奇跡的だと言ってもいいだろう。そして──
あの白衣の少女の姿は、ない。
浩介はあの出来事を夢だと思えるほどメルヘンな性格をしてはいない。自分が気絶している間に逃げたのだろう、と思うしかなかった。
ただし彼女の代わりに、このスペースには新たな人間の姿が増えている。
二十歳前後と思しき若い男だった。筋肉質な肩を剥き出しにしたタンクトップにジーンズに金髪、というワイルドなファッションをした男が壁にもたれかかるようにして寝ている。近付かなくてもわかるほど酒臭かった。顔から首筋にかけてが液体で濡れており、傍にはビールの空き缶が転がっているという、まるで誰かが酒をぶっかけて酔っ払いの姿を演出したかのようなわかりやすい状態だったが、なんにせよ酔っ払いの兄ちゃんは酔っ払いの兄ちゃんでしかない。
浩介は思い出す。あの少女と一緒になって落ちてきた、何か大きなもの。さっきまではそんなことを考える余裕もなかったが、あれはやはりこの男だったのだろう。
「う……お……?」
そんなとき、眼前の兄ちゃんが薄目を開けた。頭を振りながら上半身を起こし、なぜこんなところで寝ているのか、というような雰囲気で周囲を見回す──視線が合った。あ? 何見てんだ? と言いたげなメンチを切られたので浩介は慌ててその場を逃げ出す。男は追ってこなかった。浩介と同じく傷一つない様子だったので、単に寝起きで億劫だっただけだろう。
路地を脱出して大通りに戻り、浩介はほっと息をつく。後ろを軽く振り返りつつ、
「ふむ。あの兄ちゃんが酔ってあの子に絡んだ。で、なんやかやあって窓が割れて二人一緒に落下……ということだな。なるほど。よくわからんけどわかったことにしよう、うん」
細かく考えると頭がどうにかなりそうだった。落ちてきたのは今見えているのとは少し違う状態の兄ちゃんだった気もしたし、白衣女がそれを自分のスカートの内部以上に見られたくなかったのだとすればあの謎行動の理屈は通るが、それは現実にはありえないことだ。
「ああ……本当に、ありえないな」
呟きながら、浩介は頭上を振り仰ぐ。初めて歩く街でも、そこにある青色はいつも通りだ。
空から不思議少女が落ちてくる。そこからラブでコメなドキドキ物語が……なんて、漫画でも今更使い古された感のあるベタベタなシチュエーションだ。創作物の世界でも見ないものが現実に起こるはずがない。ただでさえありえないのだ。だからさっき見たものも見間違いに決まっている。そう、少女と一緒に落ちてきたものが、そのときに見えたものが──
首がパックリと裂けたあの兄ちゃんの死体だったなんてこと、ありえるはずがない。