あの夏に捧ぐ逢いことば

chapter.1 電子の訪客、白昼夢のインストール ①

 きっとあの瞬間に、ボタンを掛け違えたんだ。

 ズレたままめ続けたものだから、普通じゃない法則が働いてしまって。

 それがいつも、いびつに僕の口を塞ぐ。

 周りに酸素はたっぷりあるのに、息も満足に吸えなくて。

 たった一つ、何かを願うことすらできなくて。

 だけど。

 間違いだらけのあの夏は、確かに満たされていたんだ。

 だから僕は告げる。

 手のひらに収まる、小さな電子機器に。

 たった一言だけの、あいことばを。





 夏は、苦手だ。

 四季の中でもとりわけ、まぶしい青が散らばっているから。

 その青は、誰かの願望で輝いているから。


「夏休み何するよー? 俺はねー、今年はキャンプ行くぜ! 流星群見に行くんだ!」


 梅雨がようやく明けた七月の上旬。学校帰りの小学生たちが、迫り来る長期休暇の予定を楽しそうに報告しあっている。

 僕はそれを背中で聞きながら、遠くで立ち昇る白々しい入道雲をぼぅっと眺める。

 川沿いの堤防。大きな木の陰。らんらんと燃える太陽から切り離されたここが、僕の特等席だ。

 ここで日暮れまでの時間を潰す。

 何を考えるでもなく、流される雲を目で追ったり、時折通るトラックのナンバーを意味もなく暗記したり、気が向いたら川に石を投げ入れたり。

 穏やかに時間を送るのが一番楽だ。

 汗と涙にまみれて青春をおうするよりも。将来へ向けて勉学を積み重ねるよりも。スクールカーストを気にして交友関係を膨らましていくよりも、ずっと。


「……ん」


 仰向けで転がっていたスマホにLINEの通知が表示される。


『今夜は何が食べたいですか』


 送り主はおんさん──育ての親からだった。


「……何だっていいよ」


 食べたいものなんてない。食卓に並んだものをありがたくいただくだけだ。

 未読スルーしようとしたところで、もう一つ通知。クラスのグループLINEだ。

 クラスの陽キャが、期末テストの後に打ち上げをしたいだなんて提案する内容だった。

 何の疑いもなく、クラス全員が参加する前提で話を進めている。うへぇ。

 スマホのロックを解除し、LINEを開く。グループLINEではなく陽キャとの個人チャットで、打ち上げは欠席するむねの連絡を送信した。


『どうした? 何か予定でもあった?』


 どうやら『行きたくない』という可能性に思い当たらないらしい。

 波風を立たせないように『ごめんね』とだけ送信。スマホを裏向きにコンクリへ置いた。

 人と深く関わりたくない。

 その先で必要な厄介な感情が、ひどく恐ろしいから。

 あの日から、僕の中の何かはポッキリ折れてしまっている。

 を出さず、欲を出さず、可能な限りへいたんなぎのような生活。

 僕の人生は、痛みのないぬるま湯にかりきってふやけている。

 だけど、それでいい。

 これが、一四年間生きてきた僕の、はじした結論なのだから。


***


 今日も陽が沈んでいく。

 帰路をたどっている間にも、青一色だった空があかねいろに染まっていき、遠くの窓に一番星がともったかと思うと、街全体に人工的な光があふれていく。

 帰宅までの数十分。それだけあれば、いやおうでも様々な人間を目撃する。

 手をつないで談笑する学生カップル。ピシッとしたスーツで風を切るサラリーマン。つえを片手にのんびり歩くおばあちゃん。まるで、人生の縮図だった。

 これからも僕は、日陰者として生きていき、そして最後には独りで死ぬのだろう。

 流木のように、流されるままに。我を出さず。

 ふと、貸し店舗の窓に貼り付けられた広告が目に入る。


『人生一〇〇年時代に、後悔しない資産形成を!』


 赤い服を着てにこやかに笑む女性タレントに、ゾッとした。


「一〇〇年、かぁ……」


 その途方もない長さに、乾いた笑いが漏れ出た。

 こんなの、ただの懲役だ。

 僕は、あと何年で釈放されるのだろう。


 やがて、僕が身を寄せている児童養護施設『つばめ園』に到着した。

 門の前を通り過ぎ、道を一本隔てた先の小さな公園に入って、奥の古びたベンチに腰掛ける。

 夕食ができれば、LINEで呼び出しが来る。それまで公園で待機するのがいつもの日常だ。

 すっかり暗くなった公園で、暇つぶしにスマホを開く。

 型落ちと呼ぶことすら恥ずかしいほど古い機種で、通信速度はまあまあ遅い。だけど、持たせてもらえるだけありがたく思っている。つばめ園は、経営が厳しいらしいから。

 数年前に退園した姉が定期的にお金を入れてくれてはいたけど、それももう望めない。最後にまとまった額を送ってはくれたものの、ほとんどは借金の返済にてられた。

 だけど。それがなくても、僕はおんさんにわがままを言わない。

 言う気にも、なれない。


「やだ! ハンバーグがいいー!」


 公園の外の歩道で、子どもが親に引かれながら、奇声に近い声で泣きわめいていた。


「わがまま言わないの。また今度食べようねー」

「やだやだやだーっ!」


 思わず目をらす。

 胸の奥底に押し込んだ光景が脳裏に浮かんだ。

 あれから僕は日陰で生きてきて。罪から逃げるようにひっそりと時を過ごしてきて。

 だけど、僕の深部に刺さった一つのとげが、忘れるなとでも言うように痛んだ。

 痛みを誤魔化すように、YouTubeのアプリを開く。

 次から次へと新しいコンテンツを流してくれる動画アプリは、見ているだけで機能する麻酔だ。だから今日も、頭を空っぽにして時間を浪費する。

 視聴履歴から選ばれたおすすめの動画が並ぶ。科学実験チャンネル、数学の不思議チャンネル……そして、見たこともないのにか出てきたYouTuber『あいたけユウ』のチャンネル。

 あいたけユウは年齢不詳の少女配信者だ。中学生とも言われるあどけない顔つきと、時折発揮されるキレの良い天然ボケ、異様なほど短いスパンでの配信で人気を博している……らしい。

 特に興味はなかったけど、生配信中らしいのでのぞいてみることにした。


『あーっ! おうちが燃えてる!? せっかくここまで作ったのに! 何でですか!?』


 慌ただしい丸い声が出力される。音量を少し下げた。

 どうやら、マインクラフトのゲーム実況をしているらしかった。炎上中の家らしき建造物に必死で水をいている。ゲーム画面の右下の小窓には、あいたけユウ本人とおぼしきれんな少女が映し出されている。明らかに地毛ではない淡い新緑色の長髪に、動揺して目をぐるぐるさせながらも欠かさない愛らしさ。確かに、同級生にいてもおかしくないような年齢に見える。


『えー? 何で燃えちゃったんでしょう……かなしい』


 涙目になりながら消火活動をする彼女の横で、たくさんのコメントが流れていく。

【アブラマシ:雷か? 配信中に落ちるの草】【やび:さすがユウちゃん。持ってますねぇ】


『みなさんごとすぎじゃないですか〜?』


 ちょっとしたいじりも、悩みもないような笑顔で対応。

 僕は無性にイラついて、配信の詳細欄を無造作にスライドさせていく。

 しかし、『チャンネル登録者数一九五万人』の文字が見えたあたりで、


「……あっ、切れた」


 画面がブラックアウト。電池切れか。

 しょうがない、帰ろう。このままではLINEも見れない。真っ暗になったスマホを見下ろし、ささくれだったベンチから腰を上げようと足に力を込める──その、直前。

 スマホから、光がはじけ飛んだ。