あの夏に捧ぐ逢いことば

chapter.2 真夏の断片、壊れた世界で星を数えて ⑥

 思い出すだけで震える。わがままを言おうとすれば喉がって呼吸すらままならない。

 僕は、『したい』に呪われている。


「とはいえ、逃避行にあたって、避けては通れない問題ですよね。……よし、決めました」


 ユウは、瞳を閉じてこめかみに指を突き立てる。ぶつぶつと独り言を繰り返し、二〇秒ほどして緑色のそうぼうを開いた。

 次に口から出てきたのは、意外な言葉だった。


しゆうくん。今日の夕飯はわたしに任せてください」


***


 時刻は一九時。

 図書館の閉館時間ギリギリまで読書スペースの一角を占拠し、外へ出た。まだまだ蒸し暑いけど、太陽は傾いてあかねいろを呈している。焼けるようなしがないだけ体感はかなり快適だ。


「今から、わたしの連れていくお店に入ってください。いいですね?」


 夕焼けを背負うユウが、念を押すように指を立てる。


「僕、食べたいものなんかないよ」


 あの日から今日まで、僕はおんさんにメニューをリクエストしたことはない。それも単なるわがままだから。作ってくれたものを、ただ平らげていた。


しゆうくんが食べたいものがなくても、しゆうくんの身体からだは栄養をほつしているんです」

「言いたいことはわかるけどさ……」


 飲食店で必ずする作業が注文だ。だけどそれは『これが食べたい』と要求を伝えるということ。……あぁ、だめだ。脳内でシミュレーションするだけで、どうがする。


「大丈夫ですよ。その辺りも、きちんと考えてありますから」

「考えるも何も……」

「いいからいいから、向かいますよ。あ、五〇m先を右です」


 まぁ確かに、何も食べずに生きるのは無理だ。ユウの提案にひとまず乗ってみることにした。

 ナビアプリみたいなユウに道案内されること二〇分。

 到着したのは、大きな道路沿いにあるラーメン屋だった。

 赤を基調とした店構えは、日暮れだからか赤くライトアップされていて一層迫力が増している。どこかの換気口から、空腹の胃袋に殴りかかってくるような豚骨の匂いも漂ってきていた。


「よりにもよって、ラーメン屋って……」

「ちっちっち。ただのラーメン屋じゃないんですよ。ささっ! だまされたと思って!」


 無性に怪しいユウの誘導に眉根を寄せながらも、暖簾のれんをくぐる。


『らっしゃあせー!』と威勢のいい掛け声を浴びると、すぐそこにボタン式の券売機があった。


「さぁしゆうくん、何でもいいですよ」

「……もしかして、食券式なら買えるって思った? 悪いんだけど、それでも無理なんだ。店員さんに食券を渡すってつまり、僕はそれが食べたいって伝えるようなものだからさ……」


 言葉にするしないの問題じゃない。

 僕の要望を伝えて、そのせいで誰かの未来が変わってしまうのが怖い。

 ──お前がわがままを言わなけりゃ! あの人は死ななくて済んだんだろうがよ!!

 その先にあるかもしれない最悪の結末が、どうしても頭をよぎってしまうから。


「でも、要望じゃなければいいんですよね?」


 だけどユウは、子どもが疑問を呈するみたいに顔をかしげる。


「え?」

「だって、昨夜もしゆうくんがLINEを返さなかったせいで、おんさんの行動が変わってしまった訳じゃないですか」


 昨日。夜の公園でユウと出会った時。彼女とやりとりをしていたせいでおんさんは僕の分の夕飯を下げてしまった。その後、別途白米としるだけ用意してくれた。

 あれは確かに、僕の行動のせいでおんさんの行動を変化させてしまったとも言えなくもない。


「なのに、それについては特に発作は起きてないんですよね? となれば、『しゆうくんのわがまま』が起点じゃなければ問題ないのでは、と推理したのですが、間違いでしょうか?」

「……そんなこと、考えたこともなかったけど」


 整理してみると、そういうことなのかもしれない。

 僕がテスト後の打ち上げを断ったことで参加人数の調整をする人もいるだろうし、大体、僕が生配信を見てしまったせいで、結果的にユウの未来も大きく変えてしまった。


「もしそれが正しければ、しゆうくんはラーメンを食べられるはずなんです」

「いや、『これが食べたい』って選ぶのがそもそも……」

「選ばなくていいんですよ」


 ユウは僕と券売機の間に入り込む。そして、発券ボタン全てをぐるぐると指差しながら、


「お金を入れて、見ずにボタンを押してくれればいいんです。このラーメン店は、券を購入したら席が指定されます。そこで待っていれば、店員さんが商品を持ってきてくれるんですよ」

「……つまり、僕が食券を渡す必要もないと」

「そういうことです! しゆうくんは何も考えず、ランダムにボタンを押すだけでいいんです」


 ……本当に、そんなことでいいのかな。

 自分のことだけど、自信がない。

 だけど、空っぽの胃袋は、濃厚な豚骨の香りに当てられてじ切れるくらいぎゅるぎゅる鳴っている。とにかく、やるだけやってみることにした。

 一〇〇〇円札を券売機にみ込ませ、商品の詳細を見ずに右上くらいのボタンを押す。

 じゃらじゃらとおつりが返却されてきて、一緒に9と書かれた紙も出てきた。席番号か。


「やった! 買えましたね!」

「……本当だ」


 胸のどうも、息苦しさも、一切ない。ちゆうぼうに僕の注文は行っているはずだけど、怖くない。


「ささっ、席に着きましょう!」


 ユウに促されるまま、券売機に指定された9番の席に座る。ユウも上機嫌で隣に腰掛けた。

 やがて、気の良さそうなお兄さんが『お待たせぃ!』と勝気な笑みでラーメンを持ってきた。

 ……お前のせいで、なんて。思ってもいなそうだった。


「そうですよ、しゆうくん」


 湯気がもうもうと上がるラーメンを前に、ユウがドヤ顔で語る。


しゆうくんのわがままが全て悪い方向に行くなんて、そんなの幻想なんです」

「……、」

「ささっ! 伸びないうちに食べてください! なけなしのお金で買ったんですから!」


 僕は、無言でラーメンをすする。

 熱々の麵、濃厚な豚骨スープ、味のみたチャーシュー。

 それ以上に、初めて自分で注文した料理だという事実が、どうしようもなく心をかき乱した。

 モノクロの人生キヤンバスに一滴の絵の具を垂らしたような、そんな乱暴で、だけど明確に何かを変質させる味だった。

 久しぶりに、何かを食べたと実感が湧く時間だった。


***


 僕たちは、昨夜泊まった駅舎の近くに戻ってきていた。

 終電には早い。駅舎で声をかけられても面倒なので、フォトスポットの崖で時間を潰す。

 今日も、相変わらずれいな夜景だった。心なしか、昨日よりも色合いが美しい気がする。

 眼下に広がる人工的な星の海の中に、ひときわ目立つ真っ赤な一等星を発見する。さっきのラーメン屋だ。こんなに離れてもすぐにわかるくらい、明るい光を放っていた。


「……ラーメン、しかったな」

「よかったです」


 ぼそりとつぶやいた僕に、ユウがほほむ。彼女も彼女で、りんこうのような淡い輝きをまとっている。

 改めて見ると不思議で、だけど少しだけ高揚する。


「あの、しゆうくん……」


 ユウが、恐る恐るといった感じで切り出した。