亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第一章 不良役人 ⑧

「いや、急に呼び出されたから驚いたよ。しかし……どういう状況だ? 大使殿に政治部長、帝国のレナード参事官殿までいらっしゃって。亡命がどうとか言ってるのが聞こえたが……もしかしてその子が例の亡命希望者なのか?」


 男は、サピンの前に立ち、背後にいるラジャを見る。


「き、君は?」


 エンシュロッスがおずおずと尋ねると、男は慌てて背筋を伸ばした。


「いや、失礼しました! 私、アルトスタ日報文化部で記者をやっております、キーファ・アルゾと申します」

「き、記者?」

「はい。サピン君とは、文化面の翻訳の問題で何かと付き合いがあるんですが、今日は何か急用ということで、わざわざ魔石の通信を使って呼び出されまして。まさか、亡命騒ぎが起きていたとは!」


 アルゾ記者は、特ダネに出会った喜びに顔を輝かせた。

 ミアスは驚きをもって場の流れを見守っていた。記者。つまり、外部の第三者、それもメディアの人間がやってきたのだ。しかも、アルトスタの新聞社だから、帝国の権力ですことは難しい。これで、亡命騒ぎは公になることが決定した。無かったことにはできなくなったのだ。

 帝国外務省のレナード参事官と帝室保安局ウイグは、大使館内の内通者によってラジャの亡命を知り、公になる前にラジャを連れ戻すため、大使館にやってきた。

 サピンは、それを想定し、昨日のうちに手を打っていたのだ。

 サピンはレナードに向き直った。


「レナード参事官。我々アルトスタのような民主主義国家では、形式主義的規則の遵守は官僚の命です。少しでも不備や不正が見つかれば、世論が攻め込んできて、一介の官僚なんかすぐ更迭だ。それは、大使クラスであっても例外ではありません。まして新聞なんてのは、政府批判を飯の種にしてるような連中ですから」

「なんだ急に。けんを売ってるのか?」


 アルゾ記者は異議を挟むが、サピンはそれを無視し、不敵な笑みを浮かべる。


「国民の自由は権力の不自由です。いや、言論統制の厳しい帝国さんが羨ましいですよ。で、エンシュロッス大使! これでもまだ、規則を破ってラジャを引き渡しますか?」


 サピンはエンシュロッスの方を向いて叫んだ。もう、誰も何も言わなかった。レナードは引きつった表情で固まり、ウイグも気まずそうにレナードに視線を送るだけだ。

 沈黙を破ったのは、エンシュロッス大使だった。


「レナード参事官殿。彼の言う通り、亡命希望者の身柄については一度本国の判断を仰がねばならないようです。恐縮ですが、この場はお引き取りください」


 エンシュロッスは、笑みを浮かべて頭を下げた。その仕草は、貴族らしい、気品すら感じるものであった。レナードは、信じられないといった顔で固まっていたが、やがて大きく息を吐き、引きつった笑みを浮かべる。


「エンシュロッス大使殿……アルトスタの意志、よくわかりました! 後悔しますぞ! 帰るぞ、ウイグ!」


 レナードは肩を怒らせて去っていき、ウイグも無言で続く。


「さ、参事官殿! お待ちください!」


 政治部長とクルンバンは慌てて追いかけるが、クルンバンは立ち止まり振り返る。


「おい、アエリス!」


 サピンは面倒臭そうに顔を上げた。


「正義気取りか! こんなことをして、国のためになると思うのか!」

「だから、規則なんだからしょうがないだろ。通常通り亡命審査をして、不備があるなら受け入れず追い返せばいい」

「白々しいやつめ! そんな態度で、外務省で生きていけると思うなよ!」


 クルンバンは言い捨てると、レナードを追いかけていった。サピンは苦笑する。


「別に、一生ここで生きていくつもりはねーよ」

「アエリス君」


 また別の方向から声がかかり、サピンは少し驚いた表情になった。声をかけたのは、エンシュロッス大使だった。一礼のつもりなのか、サピンは少しだけ背中を曲げる。


「どうも……」

「ありがとう、アエリス君」

「は?」

「私は、大使として判断を誤るところだったよ。君のおかげで道を間違えずに済んだ」


 エンシュロッスは、満足げな笑みを浮かべていた。サピンは一瞬ポカンとしていたが、すぐ真面目な表情になって目をらした。


「いえ……クルンバンの言う通り、国益を考えるなら、私のやったことは間違いだったかもしれません。もし本当に、ルジュエル地方の交渉で譲歩を引き出せたのだとしたら……」

「いや、いいんだ。よく考えたら、帝国がそんな口約束を守るはずがないからね。仮にここでラジャを引き渡しても、次の日には知らん顔をされたはずだ……が、そうは言っても、庶務班の君が、勝手に交渉を行ったことはいただけないな。その責任は取ってもらわねばならない」


 サピンは顔を引きつらせる。


「責任、と言いますと?」

「君は、ルジュエルの領土交渉のチームに入れ。その力を、国益のために役立ててもらうぞ」

「え……」

「ミアス君、あとは任せる!」


 エンシュロッスは、その後の対応をミアスに引き継ぐと、秘書と共に去っていく。

 サピンは、口を半開きにしてぼうぜんとエンシュロッスの後ろ姿を見送っていた。ミアスは、こわった笑顔で、サピンに話しかけた。


「よかったですね。大使に認められたみたいですよ」

「皮肉か? 辞めるつもりなんだぞ、俺は。クソッ、これからどうするか……うお」


 そう言いながら、サピンは背後のラジャを振り返り、小さく驚きの声をあげる。ラジャは、地面に座り込んだまま、黙ってサピンを見上げていた。表情からは、何の感情も読み取れない。ただ、大きな瞳をサピンに向けている。


「まあいいか、今日のところは」


 サピンは苦笑すると、ラジャの前にひざまずいた。ダンスの誘いのように、手を出し出す。


「少し早いかもしれないが……ようこそ、アルトスタへ」


 ラジャは、少しの間戸惑っていたが、やがて、自分も手を出してサピンの手を取った。サピンはラジャを支えながら立ち上がらせる。


「何かよくわからんが、俺は君に利用されたみたいだな。サピン君」


 アルゾ記者が、不機嫌そうな表情で言った。


「まあ、そうですね。利用しました」

「はっきり言う。このことはちゃんと記事にさせてもらうからな」

「それはもちろん。こちらからもお願いします」


 ミアスは、その姿を黙って見ていた。

 心臓のどうが激しくなっていく。完全に、やられた。ラジャの危機を、自分は見ているだけだった。祖父のことがなければ、しがらみがなければ、自分だって。そう思おうとするが、そう言い切れる自信はなかった。自分は、保身を優先したのだ。


「サピンさん、手伝います」


 ミアスは笑顔を浮かべて、サピンがラジャを支えるのを手伝う。

 サピン・アエリス八等官は、外交官の風上にも置けない人物。最初は、そう思っていた。

 だがサピンは、結局あの場でただ一人、孤立無援だったラジャの味方となった。それも、感情的に反発するのではなく、的確な知識と、記者を呼び出しておく周到さで、幹部たちを手玉に取り、実際にラジャを帝国の手から守ったのだ。

 とにかく。

 サピン・アエリスという人物に評価を下すには、もう少し様子を見なければならない。

 それだけは、確かなようだった。