亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第一章 不良役人 ⑦

 ミアスの胸に、汚水が湧き上がるように、ある想像が広がる。ラジャは、もしかすると、皇族の誰かの愛人なのではないだろうか? ラジャはまだ子供だが、そういう趣味の人間はしばしば存在する。そして帝国のような国家では、上の身分に生まれついた者が、身分の低い子供を欲望の吐け口にするのはよくあることだった。

 ラジャは、必死に起きあがろうとしていた。スカートの裾から見える脚にも、包帯が巻かれ、血がにじんでいる。ラジャは、ふいに顔を上げると、ミアスを見つけ、大きな瞳と目が合う。ミアスの胸に、締め付けられるような痛みが走った。

 今まさに、この少女は、見捨てられようとしていた。国家の利益のために、個人が犠牲になるのだ。頭では、そんなことは間違っていると思った。が、足は根が生えたように動かない。今ラジャを助けることは、大使に、すなわち外務省という組織に逆らうことを意味した。ミアスにそんな勇気はない。

 ミアスには、ミアスの人生があった。

 ミアスは唾を飲み込むと、まるで己の醜い部分から逃げるように、ラジャから目をらした。視界の端で、ラジャの顔が絶望にゆがむのを想像し、思わず目を閉じる。

 そのときだった。

 一部始終を座って見ていたサピンが、小さく舌打ちした。


「……仕方ないか」


 面倒臭そうにつぶやくと、サピンは立ち上がり、迷いなくラジャたちの元に歩いて行く。

 ウイグはまれた指をハンカチで拭うと、再びラジャに向けて手を伸ばそうとし、止めた。ウイグとラジャとの間に、サピンが割って入ったからだ。ウイグはかすかに顔をゆがめる。


「何だ、お前は」

「残念ですが、ラジャの引き渡しはできません」


 その言葉に、中庭の時が止まった。何が起こったのか、皆が理解できていなかった。ラジャも、顔だけを上げて、目を見開いてサピンの背中を見つめている。

 ウイグはぼうぜんとサピンを見つめていたが、助けを求めるようにレナードを振り返った。

 とぼけた顔をしていたレナードも、我に返り、引きつった笑顔を浮かべる。


「な、何だね君は……? 突然何を言ってる!?」

「だから、この場でのラジャの引き渡しはできません。わざわざご足労いただいたのに恐縮ですが、今はお引き取りください」


 サピンが少しも恐縮していない様子で言い放つと、レナードの顔が怒りにゆがんだ。ウイグはあくまで冷静にサピンを見下ろす。


「お前は何者だ。何の権限があってそんなことを言う」

「私は、大使館総務部庶務班の、サピン・アエリス八等官です。ラジャは現代語がわからないようなので、通訳を担当しております」


 ウイグは、サピンと、その背後にいるラジャを交互に見た。


「情が移ったか? ちゆうはんな正義感は身を滅ぼすぞ」

「いえ、正義感とかは関係なく、決まりですから」


 サピンも、ウイグに劣らず表情を変えない。レナードの顔が真っ赤に変色した。


「エンシュロッス大使殿!」

「は、はい!」

「先ほどはうやむやになっておりましたが、はっきりと申し上げてください! ラジャを、我々に引き渡すと!」


 エンシュロッスはよどむ。レナードはサピンに向き直り、怒鳴った。


「小僧! 何を考えとるのか知らんが、お前にラジャの処遇を決める権限などない! なにせ、エンシュロッス大使殿が引き渡しを認めているのだからな! それとも、小間使いぜいが大使殿に逆らうつもりか!? 小役人は小役人らしく、書類の整理でもしていればよい!」


 レナードは再び大使に振り返った。


「大使殿、なにをグズグズしているのです! 早くご決裁を! 一言申し上げていただければよいのです! 私に、ラジャを引き渡すと……」

「だから、それがダメなのです。大使にそんな権限はありませんので」


 サピンが、あくまで軽い調子で遮った。レナードはきょとんとした顔で振り返る。


「アルトスタにおいて、亡命希望者の受け入れ判断をするのは司法省であって、外務省ではありません。しかも、最終的には王国宰相の認可が必要ですし。外務省でできるのは、希望者を本国の司法省に送り届けることだけです。ここでラジャをどうこうする権限は、大使には、というかこの大使館にいる誰にも、ありません」


 サピンの物言いは、非常にりゆうちようだった。その流れにまれたように、皆、ぼうぜんとしている。


「ラジャの身柄は、一度アルトスタに送られ、司法省で厳正な審査を行います。それで、迫害など亡命に足る事由がないと判断されれば、規則通り帝国に送還されます。ご存じかと思いますが、これは亡命者の地位協定でも明記されている手順です」


 すると、サピンははじめて表情を崩し、不敵に笑った。


「ラジャは帝室関係者で、迫害は何も受けていないんですよね? なら、きっと送還になりますよ。少し待つだけじゃないですか。ね? 参事官殿」


 誰も、何も言わなかった。

 ミアスも黙ってサピンを見つめながら、彼の言葉が、自分の記憶とつながるのを感じていた。亡命者の地位協定。受け入れ判断の権限。どれも、高等文官試験の勉強で覚えたことだ。試験から時間がち、普段の業務で使わないので忘れていたが、確かに、サピンの話は全て事実だ。

 レナードはしばらくぼうぜんとしていたが、やがて、顔が怒りでゆがんでくる。


「ぼ、亡命者の地位協定だと? 何だ、そんなもの! 我々フェルザ帝国は、統一政府に加盟していない! お前らが勝手に決めた軟弱な制度など関係ない!」

「地位協定は統一政府とは関係ありませんよ。前の戦争のときから結ばれている協定で、帝国も、五十年前の敗戦のときに参加したでしょう」

「は、敗戦!」


 レナードの顔が今度は青ざめた。敗戦。その言葉は、帝国人のプライドを粉々にする禁句であった。ミアスは、サピンが確信犯であおっていると気づき、あきれるのを通り越して感心する。


「ええい! 法律だ協定だとまどろっこしい! そんなことは百も承知だ! その上で、今回は内々に処理して欲しいと頼んでいるのだ! 外交官のくせに、そんな機微もわからんのか!」


 レナードは怒鳴りながら大股でサピンに近づいていった。サピンはあきがおになった。


「そんな堂々とルール違反を叫ばないでくださいよ」

「今はまだ、ラジャの存在は公になっていない! だからこそ、無かったことにして欲しいと、この私が頭を下げているのだよ!」

「全然下げてないですけど……」

「エンシュロッス大使殿も、私がラジャを連れ帰ることに暗黙では同意してくれている! そのことによって、貴国と我が国の間の領土交渉が円滑に進むのだ! なのになぜ君は邪魔をする!? 小娘一人の身柄と、領土問題、どちらが大切だ? 君も役人ならばわかるだろう?」


 するとサピンは腕を組み、考える仕草をした。


「確かに……どちらかと言えば、領土問題の方が大切ですね。ラジャの存在が公になっていないのならば、内密に引き渡すのもアリだったかもしれません」


 レナードは、ほっとしたように表情を緩める。


「そうだろう? 君もわかるだろう!」

「はい。でももう無理です」

「は?」

「おーい、サピン君! こんなところにいたのか」


 また、中庭の入り口から声がして、一同は驚いて振り返った。

 小汚いスーツの男が一人、こちらに向かってくる。サピンは笑顔でしやくした。


「アルゾさん、すいません、わざわざ来ていただいて」