亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第一章 不良役人 ⑥

 ミアスは思わず割って入っていた。政治部長が、温和そうな丸顔をミアスに向ける。


「どうした? レゲール君」

「この少女は、アルトスタへの亡命を希望していたはずです。それを、当の帝国政府関係者に引き渡すというのは、手続き的にも倫理的にもあり得ません」


 ぜんとして言い放つと、皆の視線が自分に集中していた。反射的に、ミアスは己の行動を後悔するが、もう後には引けない。


「なるほど、君の言い分もわかる……だが外交官というのは、高度に政治的な判断が必要なときもある。そうではないかね」


 政治部長は穏やかに言ったが、穏やかなのは声だけで、目は笑っていない。


「君も一年目ではないのだから、そういうことはわかっているだろう? 君の軽率な行動を見て、果たして君のおさまが喜ぶかな?」


 おさま。その言葉を聞いて、ミアスの思考は硬直した。ミアスの祖父は、外交官であった。政府で要職を務め、統一政府でも働いた人物で、ミアスは彼に憧れて外交官を目指したのだ。急に自分が駄々をこねる子供のように思え、恥ずかしさで何も言えなくなる。

 ミアスが黙ったのを見て、政治部長はレナードに頭を下げた。


「失礼しました、レナード参事官」

「部下の教育は、ちゃんとして欲しいものですな」

「後輩が、とんだ御無礼を。私からも謝罪します、参事官殿」


 クルンバンも頭を下げたので、慌ててミアスもそれに続く。腰を曲げて地面を見つめていると、頭が熱くなり、暴れるように鼓動が早まる。私をフォローしているつもりか? 部長の腰巾着め! ……だが、心の中でクルンバンに毒づくのが、ミアスの限界であった。

 ラジャが家出した帝室関係者などとは、とても信じられない。ならばなぜ、ラジャはこんなにもレナードたちを警戒しているのだ。それに、レナード参事官がたまたま大使館にやって来て、偶然ラジャを見つけた、というのも出来すぎている。

 ミアスは、政治部長のわざとらしい態度に、あることを確信していた。

 レナード参事官は、この大使館まで、ラジャを取り返しに来たのである。

 レナードが、ラジャが大使館にいることを知るのは簡単だ。大使館には、清掃員や食堂の調理師など、現地採用の帝国人が多数働いており、その中の誰かを密告者に仕立てるのは難しくない。

 そして政治部長は、ラジャの受け入れ反対派だ。政治部長は、レナードの意図を知っていながら、帝国との関係を荒立てないため、彼をここまで案内したのである。

 ミアスはラジャを振り返った。ラジャは青ざめた顔で、レナードというより、その後ろの男を見つめている。このおびかたが、何よりレナードのうそを証明していると思える。ラジャは帝室関係者などではなく、帝国から何らかの迫害を受け、大使館まで逃げてきたのだ。


「レナード参事官殿!」


 また、入り口で大きな声が聞こえた。振り返ると、エンシュロッス大使が、秘書とともに早足で入ってくるところだった。大使は外出用の格好をしており、報告を受けて慌ててここに寄ったのだとわかる。


「おお、エンシュロッス大使殿。おはようございます」


 レナード参事官は、余裕の態度でしやくをした。ミアスは反感を覚える。いくら帝国とはいえ、外務省の参事官など、他国の大使に比べれば格下であり、最敬礼が必要なはずだ。なのにレナードは、帽子を取りもしない。


「困りますな、お約束もなしに急に……そちらは?」


 エンシュロッスは、レナードの後ろの男に視線を送る。男は陰気な表情で頭を下げた。


「帝国内務省、帝室保安局のウイグです」


 一同に緊張が走った。帝室保安局。名前からはわかりにくいが、要は帝国のスパイ組織である。帝国にとって危険な団体や人物の調査を行い、必要とあれば拉致でも暗殺でもこなすと言われる、悪名高い組織だ。

 レナードは、そのような組織の人物と、さらに兵士まで連れて、わざわざラジャを取り返しに来たのである。

 エンシュロッスは、驚きをころすように表情を厳しくし、レナードをにらんだ。


「どういうことですか。そのような方が、ラジャを……この少女を連れ帰ろうとするとは」

「ラジャ様は、帝室の関係者でね。昨夜家出をして、探していたところだったのですよ。保護していただきありがとうございました」

「そんな、しかし、彼女は亡命を希望して……」


 レナードは、エンシュロッスを遮るように鼻で笑った。


「そんな子供の冗談を真に受けるのですか? 騒いで、周りの気を引きたいだけですよ」

「しかし、一度助けを求められた以上は……」

「エンシュロッス大使殿!」


 レナードは、今度は大きな声ではっきりエンシュロッスを遮った。


「もちろん、私も官吏の端くれですから、あなたの言わんとすることはわかります。ですが今回の件は、あなたの権限で、是非、内々に済ませていただきたいのです。大使館に駆け込んできた少女などいなかった。そういうことで、ここは一つ」


 エンシュロッスはきようがくに目を見開いた。


「ラジャの存在を……亡命を求めて大使館に駆け込んできた者の存在を、無かったことにしろということですか!? そんなめちゃくちゃな……主権の侵害ですぞ!」

「もちろん、無理を申し上げているのは承知しております。ですから、それだけの見返りはお約束するつもりです」


 レナードはいんぎんに言うと、薄笑いを浮かべる。


「もし、ラジャを黙って引き渡していただければ……今我々が話し合っている、ルジュエル地方の領土問題について、多少譲歩する用意がございます。少女一人の身柄と、領土問題。どちらが国益にかなうか、よく考えてご判断いただきたい」


 エンシュロッス大使だけでなく、その場にいる全員が息をんだ。得体の知れない亡命希望者を切り捨てれば、領土問題が解決に進むかもしれない。それは、てんびんに乗せきれないほど、全く釣り合いの取れない大きな見返りだった。

 皆の沈黙を肯定と受け取ったのか、レナードは、背後のウイグに視線を送った。


「ウイグ君。ラジャを」

「はい」


 ウイグは全く表情を変えず、ラジャに近づいて手を伸ばした、その瞬間。

 ラジャは身をひるがえして駆け出した。だが、すぐにうめき声をあげて転倒する。ラジャは全身傷だらけで、まだ走れるような状態ではないのだ。痛みに顔をゆがめ、地面をってウイグから離れようとするが、追いつかれるのに時間はかからなかった。ウイグはラジャの手首をつかむが、その瞬間、ラジャはウイグの指に思いきりみついた。


「うっ!」


 はじめて、ウイグの表情が崩れた。ウイグは怒りの形相でラジャの頰をたたき、ラジャは吹っ飛んで倒れる。大使館の面々は言葉を失った。

 レナードも一瞬あつにとられていたが、周囲の雰囲気に気づき、気まずそうにせきばらいをする。


「ウ、ウイグ君、手荒なことは控えたまえ。皆様、失礼しました。ラジャ様、あまり我々を困らせないでください!」


 ミアスは、その様子を見て、猛烈な怒りを覚える。

 ラジャが、帝室関係者?

 もうこの場にいる誰もが、それがうそであることを確信していた。ラジャが本当に帝室関係者なら、要はお姫様だ。ウイグごときが殴ったりできるはずがない。ラジャは、きっと何か重要な存在であるには違いないが、身分の高い人間ではないのだ。