亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第一章 不良役人 ⑤

「近いうち、アルトスタは戦場になる。それだけならまだいいが、侵略されて、国そのものがなくなるかもしれない。だから、そうなる前に逃げるんだ」

「はあ?」


 ミアスは顔をゆがめたが、サピンは大真面目であった。


「外務省勤めなら、あんたも感じてはいるだろ? ここ五十年くらい落ち着いていたけど、統一政府による秩序はもう限界だ。近いうち、また戦国時代がくる」

「戦国時代って……」


 ミアスは、反論しようとして言葉をむ。確かに、サピンの言うことは、全くの絵空事ではない気がしたのだ。

 約五十年前まで、世界は、ここフェルザ帝国の全盛期だった。帝国は、世界全てを征服する勢いで侵略を進め、実際、人が住める領域の半分近くは帝国の領土、属国と化していた。しかし、五十年前、アルトスタを含む生き残った国々が同盟を発足させ、帝国を打倒したのだ。

 同盟は発展的解消をし、『統一政府』となって生まれ変わった。その目的は、国同士が血で血を洗う争いの世界を、秩序ある平和な世界に作り直すことだ。統一政府は、その力で帝国を抑え込み、帝国以外の国家に対しても、争いが起これば仲裁を行った。新しい、優れた制度によって、世界から争いはなくなり、平和が続いていく。誰もが、そう思った。

 しかし、発足から時間がつにつれて、統一政府の足並みは乱れていった。初めは、一部の国家が、統一政府の決定に異を唱えたり、負担の軽減を求めたりする程度だった。だが次第に、堂々と議決を無視する国家や、分担金の支払いを拒否する国家が増えていき、やがていくつかの主力国家が脱退するに至り、その権威は完全に形骸化した。そもそも、統一政府の前身である同盟は、価値観も利害もバラバラの国家が、打倒帝国という一点において手を結んだにすぎない。それを、一つの政府として存続させるというのは、周期の異なる振り子がたまたま重なった一瞬を永遠に閉じ込めようとするような、夢想的な行いに過ぎなかったのだ。

 統一政府の弱体化を、帝国が見逃すはずはなかった。帝国は急速に国力を回復していき、近年では、軍事力を背景に、威圧的な外交を展開するようになった。帝国と国境を接するアルトスタは、当然その標的になった。

 今めている、ルジュエル地方の領土問題もその一つだ。帝国は、ルジュエル地方を無条件で引き渡せとアルトスタに迫り、それを拒否するなら、軍事侵攻をするとまで宣言している。帝国への最終回答の期限は、あと一ヶ月ほどしかない。戦争は、もはや歴史の倉庫にしまっておけるこつとうひんではなくなったのだ。

 だがミアスは、サピンの主張をそのまま肯定する気にはなれなかった。


「確かに、世界情勢が緊迫しているのは確かですが、アエリスさんの意見は極論です。戦国時代になるとか、国がなくなるとか」

「そうかな。今の統一政府に帝国を止める力はないし、帝国以外の列強も牙を研いでる。平和ボケしたアルトスタに戦国時代を生き抜く力はないよ。現に、ルジュエル地方の領土問題だって、後手に回るばかりでろくに対処できてないだろう。帝国が本気で戦争を始めようと思ったら、最初に狙われるのはアルトスタだ。弱い割に歴史があるからはくがつく」

「仮にそうだったとして、それであなたは逃げるんですか? そういうときだからこそ、国家のために、最悪の事態を回避するために働くのが外交官では?」

「たかが仕事で、そこまで身を削れるかよ。そもそも外務省に入ったのも、外国で働く経験を積みたかったってだけだし。本当は貿易商がよかったけど、大企業はコネがないと入れないからさ。俺みたいに何の後ろ盾もない平民には、試験に受かれば入れる外務省くらいしか選択肢がない」


 サピンは口の中にクッキーを放り込む。


「語学研修も充実してるし、国外での業務経験も積めたし、資金もまった。逃げる準備は万端だ。その点は、外務省に感謝だな」


 ミアスは、またしてもあきれて言葉を失った。少しでも見直したのが間違いだった。外交官は、国民の税金で飯を食う公僕である。その立場を忘れたあまりに身勝手な振る舞いは、ミアスが許せる一線を越えていた。


「あなたという人は……自分が良ければいいんですか!」


 思わず、ミアスは声を荒らげていた。さすがのサピンも驚いたようで、目を見開いてミアスを見つめた。


「自分を大事にすることが、そんなに悪いことかね?」

「……はっきりわかりました。あなたは、本国へ帰るまでと言わず、今すぐにでも辞表を提出して外務省を……!」


 そう言いかけたところで、ミアスははっとして口をつぐんだ。視線を感じて振り返ると、テーブルの向かいで、ラジャがじっと二人を見つめている。その顔には何の感情も現れていないが、あきれているようにも、勉強を邪魔されて抗議しているようにも見えた。

 ミアスは己の行動を恥じる。つい口論に熱くなり、亡命者に醜態をさらしてしまったのだ。


「ご、ごめんね、騒がしくしちゃって……」


 ミアスがおずおずと言うと、ラジャはしばらく黙っていたが、やがてテキストに視線を戻した。ミアスはそれ以上何も言えず、サピンも気まずそうに目をらす。

 あずまに、沈黙が流れる。


「珍しいですな、参事官殿が、我が大使館の中庭を見物したいなど」

「はっはっは! たまには、アルトスタ風の質素な庭園で心を洗うのも悪くないものでして」


 そのとき、中庭の入り口の方から陽気な笑い声が聞こえ、ミアスは振り返った。

 数名の男が、談笑しながら中庭に入ってくる。一人は、ミアスの上司、大使館政治部の部長で、その後に先輩のクルンバンが続く。問題は、二人が接待している客だった。客の一人を見て、ミアスは驚きに目を見張る。帝国貴族風のゴテゴテした服装に、つばの大きな羽根飾りのついた帽子をかぶった、中年の男。


「何だ、あのオッサン」


 サピンは不愉快そうに眉をひそめる。


「帝国外務省アルトスタ担当の、レナード参事官です。今日は、来訪のアポは無かったはずなのに、何で……」


 レナード参事官の後ろには、陰気な顔をした男と、軍服姿の兵士が二名、黙って従っていた。カタン、と椅子を引く音にミアスは振り返る。ラジャが椅子を立ち、中腰になっていた。表情は変わらないが、大きな瞳は、レナードの後ろにいる男をまっすぐ見つめている。


「ラジャちゃん……?」


 その後ろの男が、レナードに何か耳打ちした。レナードはラジャに視線を向ける。


「おお、そこにおられるのは、ラジャ様ではないですか!」


 レナードは大きな声で言うと、不自然な作り笑顔を浮かべ、近づいてきた。ラジャは身を硬くする。ミアスは慌てて立ち上がり一礼するが、サピンは座ったまま動こうとしなかった。


「ラジャ様、急にいなくなって心配しましたぞ? まさかこんなところにおられたとは! いけませんな、夜に勝手に出歩いたりして!」


 ラジャは、こわった顔でレナードの後ろの男を見つめるだけで、返事をしない。


「ほう、この御令嬢は、参事官のお知り合いですか?」


 政治部長が、わざとらしく驚く仕草をした。レナードはうなずく。


「いかにも。ラジャ様は、帝室の関係者なのです。昨夜から姿が見えなくなり心配していたのですが、まさか、アルトスタ大使館で保護していただいていたとは!」

「ほう、偶然ですな!」


 政治部長が言うと、クルンバンもわざとらしく追随した。


「我々も、この子の身元がわからず困っていたのです。帝室のお身内なのであれば、参事官とご一緒に宮廷にお帰りになれば、全て解決ですね!」

「そうですな。さあ、ラジャ様、一緒に帰りましょう」


 レナードが手を伸ばすと、ラジャは逃げるように身を引いた。


「ちょ、ちょっと待ってください!」