亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~

第一章 不良役人 ④

 ミアスは、したの立場も忘れ、思わずサピンに質問していた。口に出してから、それが無意味な問いであることに気づくが、皆同じ気持ちなのか、とがめる者はいない。

 サピンは首を横に振った。


「それは、私にもわかりません」

「ア、アエリス八等官は、古語を使えるんですか?」

しやべれませんけど、大体わかります。古典はできるだけ原典で読む様にしてるので」

「原典……!」


 ミアスは言葉を失う。幹部たちも驚いているようだった。古い哲学書や学術書は、教会の言葉、つまり古語で書かれていることが多い。それらは、現代語訳で読むのも難解なのに、まさか原典で読んでいるというのか。


「す、すごいな……で、何と言っているのだ、その子は?」


 エンシュロッスの問いかけに、サピンは振り返らず、少女を見つめたまま言った。


「『私の名前はラジャ。亡命を認めて欲しい。でないと……』」


 サピンは、一度言葉を切って唾を飲み込んだ。少女はおびえた瞳でサピンを見上げる。


「『でないと私は、この世界を滅ぼしてしまうかもしれない』」



 在帝国アルトスタ大使館は、設備は古びているものの、建物自体はゆいしよある立派なものだった。特に中庭は、アルトスタの後期王朝風の意匠が施された、趣深い庭園だ。

 応接室での亡命者騒ぎの、次の日。大使館の中庭、中央部にあるあずまで、サピン、ミアス、そして〝亡命者〟の少女、ラジャの三人が、休憩していた。


「ワタシノ、ナマエハ、ラジャ、デス。ヨロシク、オネガイシマス」


 ラジャは、手元のテキストを見ながらたどたどしく話す。サピンは柔らかい笑顔でうなずいた。


「そう。よくできました」


 ミアスは驚いてラジャを見る。


「すごいねラジャちゃん! 覚えるの早い!」


 ミアスは少しおおに褒めるが、ラジャは無表情にミアスを見ると、テキストに視線を戻す。

 微妙に気まずい空気が流れ、ミアスは助けを求めるようにサピンを見た。


「ま、まあアルトスタ語は、古典教会語と文法がほぼ同じだからな」

「あ、よくそういう風に言いますよね。そんなに近いんですか?」

「アルトスタは、教会領から発祥した国家だからな。アルトスタ語は、古典教会語から派生した言語だと言ってもいい。共通する語彙も多い」

「ああ。だから、ここが〝大使館〟というのもわかったんですかね」


 サピンは今、ラジャに現代のアルトスタ語を教えているのだった。

 あの後、ラジャの熱が上がったこともあり、聞き取りは中断になった。今朝は、もう熱は下がり、意識もはっきりしているようだが、やはり、自分についての詳しい話はしようとしない。自分は何者なのか、世界を滅ぼすとはどう言う意味か、聞いても答えないのだ。昨日の発言も、熱のうわごとだったようである。

 結局、ラジャの処遇は一旦棚上げとなり、意思疎通を図るため、サピンが現代アルトスタ語を教えることになった。サピン一人ではまだ信用できないため、ミアスはその監視、もとい補助を命じられている。

 が、サピンのぎわはさすがだった。ラジャにいくつか質問をして、今の言語力を見抜くと、学生が使っている古語のテキストを使って、即席でカリキュラムを組み立ててしまったのだ。また、何やら外部に連絡を飛ばしていたが、教材や資料でも集めているのかもしれない。


「よし、じゃあ、ここまでできたからごほうだ」


 サピンはそう言って、テーブルの下からクッキーの包みを出した。ラジャは、遠慮がちに包みをのぞむと、困った様子でサピンを見る。


「食べていいよ」

「……アリガタシ」

「そういうときは、ありがとう、かな」

「アリガ、トウ」


 ラジャは、半信半疑な様子でクッキーを一つつまむと、不思議そうにながめてから、口に入れる。サピンとミアスは、その様子を固唾をんで見守っていたが、ラジャは、何回かしやくしてむと、動きを止めた。顔には何の感情も現れていない。

 二つ目を食べる気は、ないようだった。


「あ、あはは……お口に合わなかったかな……心、開いてくれませんね、ラジャちゃん」


 ミアスが耳打ちすると、サピンは自分でクッキーを食べながら答える。


「そりゃそうだろ。助けを求めて大使館に来てみたら、おおしてるのに犯罪者みたいに尋問されて。たぶん、この子を追い出すかどうかの議論も、この子の目の前でしてたんだろ? 言葉がわからなくても、歓迎されてない空気は伝わるんだよ」


 ミアスは思い出してハッとする。サピンの言う通りだった。今朝、あの応接室では、サピンが来る前から、ラジャを受け入れるべきかどうかの議論がされていた。議論は紛糾し、皆どうせラジャにアルトスタ語はわからないからと、「受け入れるべきではない」という意見も、彼女の前で平気で口にしていたのだ。

 現在、アルトスタと帝国の関係は悪化を続けていた。その主な原因は、領土問題である。アルトスタと帝国は互いに国境を接しているが、両国のちょうど間にある、ルジュエル地方という地域の領有権を巡ってめているのだ。

 現在、ルジュエル地方はアルトスタの領土ということになっているが、近年になって帝国もその領有権を主張し始めた。実際、歴史を見るとその帰属に関する経緯は複雑で、両者の主張はぶつかり合い、平行線を辿たどっている。帝国は、最悪の場合武力行使も辞さない構えを見せており、情勢は緊迫化の一途を辿たどっていた。

 故に、領土交渉への影響を恐れ、亡命者というリスキーな存在を受け入れることを拒む者も多いのだ。ミアスの直属の上司である政治部の部長も、受け入れ否定派であった。

 ミアスは、少し意外に思ってサピンの横顔を見つめる。


「どうした?」


 サピンは気まずそうに振り返る。


「あ、すみません。あなたが、そういう風に人を思いやれる人だとは思わなかったもので」

「……俺のことを何だと思ってるんだ。ていうか、別に敬語使わなくていいよ。あんた、階級は俺と同じ八等官だろ?」


 階級が同じであることがわかったせいか、サピンのミアスに対する態度はすっかり砕けていた。だがミアスは、一応先輩であるサピンにそこまでれしくする気にはなれない。


「そうはいきませんよ。年次はアエリスさんの方が先輩ですし」

「いいよ、そんなの。きっとあんたも、俺を追い越して出世していくんだから。来年には、俺が敬語を使う立場になってるかもよ」

「そんなことは……アエリスさんも、立派な能力をお持ちじゃないですか。ラジャちゃんの古語が理解できるなんて」

「古典教会語なんて、高等文官試験の出題範囲だし。『教会圏』の上流階級と渡り合うなら必要な教養だし、それくらい覚えてるよ」


 特に誇る様子もなく平然と言うサピンに、ミアスは内心舌を巻く。

 確かに、古典教会語は試験に出るし、ミアスも基本は知っている。だが、配点が低いので切り捨てる人も多く、サピンほど習熟している人間はそういない。


「それに、どうせ辞めるしな、俺」

「え?」

「大使館勤めが終わって本国に帰る頃には、辞表を出そうと思ってる」


 すがすがしい顔で言うサピンを、ミアスは少し驚いて見つめる。アルトスタの外交官は、本国勤務と大使館勤務を交互に繰り返すのが基本だ。サピンもあと数年で本国に戻ることになるから、そこで退職するつもりということだ。ミアスは拍子抜けするが、別に止める義理もない。


「そうなんですか……次は何をするんですか? 投資家にでもなるんですか?」

「ふふっ、まさか。逃げるんだよ」

「逃げる?」