亡命天使 ~窓際外交官は如何にして終末戦争を阻止したか~
第一章 不良役人 ④
ミアスは、
サピンは首を横に振った。
「それは、私にもわかりません」
「ア、アエリス八等官は、古語を使えるんですか?」
「
「原典……!」
ミアスは言葉を失う。幹部たちも驚いているようだった。古い哲学書や学術書は、教会の言葉、つまり古語で書かれていることが多い。それらは、現代語訳で読むのも難解なのに、まさか原典で読んでいるというのか。
「す、すごいな……で、何と言っているのだ、その子は?」
エンシュロッスの問いかけに、サピンは振り返らず、少女を見つめたまま言った。
「『私の名前はラジャ。亡命を認めて欲しい。でないと……』」
サピンは、一度言葉を切って唾を飲み込んだ。少女は
「『でないと私は、この世界を滅ぼしてしまうかもしれない』」
*
在帝国アルトスタ大使館は、設備は古びているものの、建物自体は
応接室での亡命者騒ぎの、次の日。大使館の中庭、中央部にある
「ワタシノ、ナマエハ、ラジャ、デス。ヨロシク、オネガイシマス」
ラジャは、手元のテキストを見ながらたどたどしく話す。サピンは柔らかい笑顔で
「そう。よくできました」
ミアスは驚いてラジャを見る。
「すごいねラジャちゃん! 覚えるの早い!」
ミアスは少し
微妙に気まずい空気が流れ、ミアスは助けを求めるようにサピンを見た。
「ま、まあアルトスタ語は、古典教会語と文法がほぼ同じだからな」
「あ、よくそういう風に言いますよね。そんなに近いんですか?」
「アルトスタは、教会領から発祥した国家だからな。アルトスタ語は、古典教会語から派生した言語だと言ってもいい。共通する語彙も多い」
「ああ。だから、ここが〝大使館〟というのもわかったんですかね」
サピンは今、ラジャに現代のアルトスタ語を教えているのだった。
あの後、ラジャの熱が上がったこともあり、聞き取りは中断になった。今朝は、もう熱は下がり、意識もはっきりしているようだが、やはり、自分についての詳しい話はしようとしない。自分は何者なのか、世界を滅ぼすとはどう言う意味か、聞いても答えないのだ。昨日の発言も、熱のうわごとだったようである。
結局、ラジャの処遇は一旦棚上げとなり、意思疎通を図るため、サピンが現代アルトスタ語を教えることになった。サピン一人ではまだ信用できないため、ミアスはその監視、もとい補助を命じられている。
が、サピンの
「よし、じゃあ、ここまでできたからご
サピンはそう言って、テーブルの下からクッキーの包みを出した。ラジャは、遠慮がちに包みを
「食べていいよ」
「……アリガタシ」
「そういうときは、ありがとう、かな」
「アリガ、トウ」
ラジャは、半信半疑な様子でクッキーを一つ
二つ目を食べる気は、ないようだった。
「あ、あはは……お口に合わなかったかな……心、開いてくれませんね、ラジャちゃん」
ミアスが耳打ちすると、サピンは自分でクッキーを食べながら答える。
「そりゃそうだろ。助けを求めて大使館に来てみたら、
ミアスは思い出してハッとする。サピンの言う通りだった。今朝、あの応接室では、サピンが来る前から、ラジャを受け入れるべきかどうかの議論がされていた。議論は紛糾し、皆どうせラジャにアルトスタ語はわからないからと、「受け入れるべきではない」という意見も、彼女の前で平気で口にしていたのだ。
現在、アルトスタと帝国の関係は悪化を続けていた。その主な原因は、領土問題である。アルトスタと帝国は互いに国境を接しているが、両国のちょうど間にある、ルジュエル地方という地域の領有権を巡って
現在、ルジュエル地方はアルトスタの領土ということになっているが、近年になって帝国もその領有権を主張し始めた。実際、歴史を見るとその帰属に関する経緯は複雑で、両者の主張はぶつかり合い、平行線を
故に、領土交渉への影響を恐れ、亡命者というリスキーな存在を受け入れることを拒む者も多いのだ。ミアスの直属の上司である政治部の部長も、受け入れ否定派であった。
ミアスは、少し意外に思ってサピンの横顔を見つめる。
「どうした?」
サピンは気まずそうに振り返る。
「あ、すみません。あなたが、そういう風に人を思いやれる人だとは思わなかったもので」
「……俺のことを何だと思ってるんだ。ていうか、別に敬語使わなくていいよ。あんた、階級は俺と同じ八等官だろ?」
階級が同じであることがわかったせいか、サピンのミアスに対する態度はすっかり砕けていた。だがミアスは、一応先輩であるサピンにそこまで
「そうはいきませんよ。年次はアエリスさんの方が先輩ですし」
「いいよ、そんなの。きっとあんたも、俺を追い越して出世していくんだから。来年には、俺が敬語を使う立場になってるかもよ」
「そんなことは……アエリスさんも、立派な能力をお持ちじゃないですか。ラジャちゃんの古語が理解できるなんて」
「古典教会語なんて、高等文官試験の出題範囲だし。『教会圏』の上流階級と渡り合うなら必要な教養だし、それくらい覚えてるよ」
特に誇る様子もなく平然と言うサピンに、ミアスは内心舌を巻く。
確かに、古典教会語は試験に出るし、ミアスも基本は知っている。だが、配点が低いので切り捨てる人も多く、サピンほど習熟している人間はそういない。
「それに、どうせ辞めるしな、俺」
「え?」
「大使館勤めが終わって本国に帰る頃には、辞表を出そうと思ってる」
「そうなんですか……次は何をするんですか? 投資家にでもなるんですか?」
「ふふっ、まさか。逃げるんだよ」
「逃げる?」



